FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

屋上で言い広めなさい

2008年7月27日オークランド日本人教会の礼拝でメッセージを語らせていただきました。
笠原勝先生よりご助言をいただき、私の著書、「知っているようで、知らない 日本の宗教と慣習」の中から一部、次のようなテーマに関することをお分かちいたしました。



・つい11年前まで、日本に「旧土人保護法」という法律があったことをご存じですか?だれ?11年前まで日本にいた、土人の方々って?
・神社にある、コマイヌさんたちって、ホントはドッグ(Dogs)じゃないんですって?
・新潟の仏教研究会の方々が出版された本に、日本の仏教界に激震をもたらす、驚きの真実が記されています。
・鈴木大拙博士に師事し、鈴木禅学を継承した、埼玉医科大学名誉教授、月刊誌「大乗禅」主幹、秋月龍珉著、「誤解だらけの仏教」には、何が書いてあるの?
・親鸞上人の教えを記録した歎異抄に、なんと信じられないようなことが・・・!
・ニュージーランドでインド人の人にBuddha(お釈迦さま)について質問したら、「仏陀って中国人でしょう?」と逆に質問されました。これって何?
・世界がもし、百人の村だったら、キリスト教徒は33人で、仏教徒は6人くらいなんだそうです。でも、仏教が始まったとされるインドでは、現在、全人口の中でたった0.8%しか、仏教徒の人はいません。日本に仏教を伝えてくれたはずの中国でも、全人口の8%しか仏教徒はいないんです。じゃあ、なぜ日本人はこんなに仏教徒が多いんでしょう。
・仏教には、本来、お墓は不必要。ハカナイ宗教なんだって知っていました?
・じゃあ、なぜ日本の仏教では、お墓参りや死者供養が中心的なことがらになっているのでしょう。
・仏教は宗派といい、キリスト教は教派といいます。これって同じこと?それとも違いがあるの?
・空海、弘法大師が中国に留学生として二年間だけ長安に行った時、クラスメイトの中にいた留学生たちが、みんな、褐色の肌をした、インドからの学生たちだけだったと思います?
・実は平安時代、空海が留学した、唐の時代の中国、首都長安では、キリスト教が大流行していて、キリスト教会がいたるところにありました。そのことを証明する石碑があり、松本清張さんも、シルクロードを探検した旅行記に書いておられますが、その石碑のレプリカ(複製)が日本の京都と和歌山県にあって、今日も見学することができるのごぞんじでしたか?
・あのマルコ・ポーロも記録として残していますが、鎌倉時代、つまり、ジンギスカン、フビライカンの頃の、中国は元の時代、広大な中国いたる所にキリスト教の教会があって、モンゴルの大帝たちの奥様方はみんなクリスチャンだったことを聞いたことおありですか?



私個人が発見した、いままで隠されていたこと、知らなかったことを皆様にお分かちいたしました。今回、私がご紹介したことを、すべて、無批判に、鵜呑みにしていただこうとは思っていません。これを機会に、皆様にも、ご自分で事実をお調べいただき、日本の歴史と文化について、本当の真実を見極めていただくための、一助としていただけましたら幸いです。



池田 豊



メッセージ資料にご興味ある方は、ダウンロードしていただけますので、下をダブルクリックしてご覧いただけましたら幸いです。



ダウンロード 080727.doc (62.5K)">屋上で言い広めなさい 原稿Wordファイル



ダウンロード 080727PDF.pdf (399.2K)">屋上で言い広めなさい 原稿PDFファイル(上のWordファイルと内容は同じです)



ダウンロード 080727Pwp.ppt (1919.5K)">屋上で言い広めなさいパワーポイント



スポンサーサイト

日本人がキリスト教を受け入れにくくなった原因

                            池田 豊



日本にカトリックの教えが入ってきたとき、短期間に爆発的な勢いでキリスト教信者が生まれたことはよく知られています。



私たちが1998年から2006年の夏まで住まわせていただいていた高槻も、安土桃山時代、高山右近の統治の時期が終わり、右近が天正13年(1585年)に播磨国明石にそして、天正16年(1588年)に加賀国金沢城主の前田利家のもとに身をおくまでという、まさに、ザビエル布教より、36 年から39年以下と四十年もたたない短期間のうちに、高槻全領民の七割以上の住民が、キリシタンになっていました。



その当時の日本人がカトリック教を受け入れたその受容度は、世界でも類をみないほどの速度と浸透度でした。日本の中心であった京都には、キリスト教徒の住む地域が、デウス町という名で五つから六つあったと言われています。現在でもはっきりわかっているのは、四条堀川通りの南西区画がデウス町でした。安土桃山時代の日本における、ロサンゼルスとして名を残しています。



ですから、日本人がもともとキリスト教の教えに対して特別、アレルギーを持った人種だったという仮説は、どうみても間違いです。



ところが、1587(天正15)年に発布された豊臣秀吉の禁教令に始まり、徳川時代の言語を絶するキリスト教迫害の歴史が二百七十年以上続いたために、キリスト教は根絶やしのような状態になりました。



(1587 年の禁教令で外国人宣教師は日本から強制的に退去させられました。そして、実質的な迫害は1597年2月5日(慶長1.12.19) 26聖人の殉教より始まりました。激しい迫害は1914年よりなされ、26聖人の殉教からかぞえ262年以上キリスト教は厳しく弾圧され、1858年に日本人以外の外国人に信教の自由を日本国内において認める発令がなされるまで続きました。ローマカトリック以外のプロテスタント・キリスト教宣教師が 1858年に来日してから、日本人クリスチャンの数は、1859年から1890年にかけて、三年ごとに倍、倍と増加しています。Missionaries were expelled in 1587 and actual persecution started in 1597. Intense persecution began in 1614. Severe persecution lasted over 262 years up to the indictment of the freedom of religion for foreigners in Japan in 1858. Since the first non-Roman missionaries’ arrival in 1859, the number of Japanese Christians doubled every three years during 1859 to 1890!)



キリスト教徒をあぶりだすために、幕府が日本人全員を強制的に仏教徒にし、どこかの寺の檀家になるよう命じたのです。どこかの仏教寺院のメンバーにならなくてはならないという法律です。これを檀家制度と言います。家々に仏壇を安置させ、死者供養を義務づけ、僧侶が家々をまわり、読経するシステムを幕府が全ての日本人に対して、強制的に押しつけたのです。その結果、本来、経典も否定し、焼香も、お経を読むことさえ本来の仏教ではないとしていた曹洞宗、禅宗の僧侶たちさえも焼香をしたり、お経を読んだりするようになってしまいました。すなわち、本来は、経典が違い、拝む対象も違うならば、純粋に宗教を学問としてグループ分けするならば、科学的な感覚からすれば、仏教の各宗派は、本来別々の宗教でしたが、それらが江戸時代に、「日本仏教」というあたかも一つの宗教であるかのように、総括的に受け止められるようになってしまったのです。



 小池長之博士の「日本宗教ものしり100」という本の190頁、23頁の解説を見ますと、以下の二点が明瞭に記されています。



一、1640年、宗門改めと檀家制度、寺請証文、法事と仏壇を家々に設置させたこと



二、仏教による死者供養を制度化したこと  



これらはすべて徳川幕府の為したことでした。これらは、カトリック・キリスト教を禁止するための手段でした。仏教による死者供養を制度化したのは、徳川幕府です。これはキリスト教禁止のための手段でしたが、神官や廃仏論者にまで、死ぬと仏教による葬式が義務づけられていたのです。ですから、日本人が全員仏教徒になったのは、江戸時代です。



小池博士の前著190頁には次のような文章があります。



「寛永一七年(1640)幕府は宗門改めを厳重にし、全国民をどこかの寺の檀家になるよう義務づけた。寺ごとに宗門人別帳を提出させ、疑わしい者に対しては寺側から、『当寺の檀家に相違ない』という寺請け証文を出させた。そして葬式や法事を檀那寺の僧がやることを義務づけ、盆には、檀那寺の僧が檀家まわりをして仏壇や棚経(たなぎょう)のあることを確認させた。」



しかしやがて鎖国が解け、明治時代になった際のことで、最近新しい発見をしました。



1859年から1890年の三十年間、日本のキリスト教信者は、三年ごとに倍々になって増加していたのです。



ところが、その後、状況が一変します。



著者: J. Dudley Woodberry の著作の中で用いられたヘンリー・ドラモンドからの引用文に以下のものがありました。



**********************************************



The initital entrance of Protestant missions saw a respose in which "every three years the membership of the church doubled" (Drummond 1971:192).  The years from 1859-1890 were called the "golden years," but something happened in 1890 that would change all of that.  It was the issuance of "The Imperial Rescript on Education." 



Stan Conrad, "Encountering Japnese Resistance" in Reaching the resistant: barriers and bridges for mission, ed. John Dudley Woodberry (Pasadena: William Carey Library, 1998), 118.



当初、日本にプロテスタント・キリスト教の宣教がなされた際、日本人の反応は以下のようであったことが観察されている。『三年ごとに、キリスト教会のメンバーシップは倍、倍と増加していった。(ドラモンド 1971:192)  1859年から1890年の期間は、キリスト教の黄金期であった。しかし、1890年にその状況が一変する何かが起こった。それは、教育勅語の発布だった。』



ジョン・デューリー・ウッドベリー著 Reaching the resistant: barriers and bridges for mission パセディナ:ウィリアム・ケアリー・ライブラリー発行 1998年 118ページ



**********************************************



Reaching the resistant: barriers and bridges for mission
by John Dudley Woodberry
Publisher: Pasadena, Calif.: William Carey Library, (c)1998.
William Carey Library, Total 252 ページ
ISBN:0878083804
Cited 13 April 2008. Online: http://books.google.com/books?id=imFmYF_Ttv4C&hl=ja



*************************************************



ヘンリー・ドラモンドは、日本人がキリスト教を受け入れにくくなった原因を教育勅語の発布に見ます。



私は、それと共に、明治憲法発布のその日、日本の文部大臣が暗殺された事件もその原因の一つとなっていったのではないかと見ています。クリスチャンであった日本の初代文部大臣森有礼が暗殺され、山県有朋は、その後文部大臣となった榎本武揚を退任させ、自分の息がかかった芳川顕正にすげかえ、文部省を掌握しました。



この時点で日本の学校における宗教教育は、天皇を絶対者、支配者として拝む宗教のみのマインドコントロール状態と急激に変容していくのです。ですから、森有礼の死と教育勅語の発布は表裏一体的に、天皇の神格化を諮ろうとしていた山県有朋や元田永孚たちの日本のっとり計画のために、都合がよかったのではないかと思います。



先日、ティモシー・リチャード著「中国で45年宣教して」という本の中に、非常に面白い記述をいくつか発見しました。



広島にある宮島に、弘法大師が始めた寺があり、そこにバプテスマ槽もあって、その寺で、祭司(僧侶)が、cakeとwineをもってきて聖餐式とほぼ同様の儀式をしているのに立ち会ったことが書かれています。



東京の博物館に貯蔵されているもともとは、法隆寺の柱にシリア語の文章とみられる文字と、十字架のしるしが記されていることなどについても、佐伯好朗著 Nestorian Monument in China の序文でセイス博士が記しておられます。 



Saeki, Nestorian Monument in China, Introduction by Sayce, vi.



東大の高楠博士が日本語に翻訳された、丙午出版社発行、「弘法大師と景教」の中では、ゴードン女史は、厳島の聖火や京都の大文字焼きが景教、キリスト教、インマヌエルの真理との関連があると白鳥博士の言葉を引用しながら記しています。また、ティモシー・リチャード著 Forty-Five Years In Chinaの P.341には、同様のことが記された後、リチャード博士が出雲大社に立ち寄られたことに関しても、とても興味深いことが記されています。



また、リチャード博士は、明治憲法発布直前の御前会議での明治天皇のご様子などについても書き記しています。



それによると、1908年1月、伊藤博文とリチャード宣教師と話した内容が書かれており、伊藤博文は信教の自由をもりこみたかったようですが、当初はうまくいかなかったようです。P.344-345



前述ましたように、明治憲法発布のその日、クリスチャンだった文部大臣、森有礼は暗殺の刃に倒れ、翌日召天します。最初、伊藤博文が、憲法草案に信教の自由を入れようとしたとき、一人の閣僚が絶対反対だといったそうです。



英語での表現では、



When he read his first draft of the Article, the face of one member "turned as black as ink," and he exclaimed that he would never consent to grant religious liberty.



となっています。



しかし、信教の自由を認めないと、内乱が起こり、国がたちゆかなくなる恐れがあるというので、条件付けで、試験的にやってみようということになって、実際の明治憲法には、第28条に信教の自由の項目が入れられました。



けれども、この条件というのが、問題です。



「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ、及ビ臣民タルノ義務ニ背カザル限リニ於テ、信教ノ自由ヲ有ス」という条文になりました。



この「安寧秩序を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限り」という条件が、後に「不敬罪」という罪状で国民を弾圧することになりました。第二次大戦中もこの不敬罪が適用され、内村鑑三なども訴えられました。



理由は、明治憲法の第一章、第一条、第二条の文章です。



第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス



第二条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ



こう明記されてしまいましたので、これは、れっきとした天皇現人神(あらひとがみ)の宗教原則です。信教の自由とは名ばかりで、ローマ皇帝シーザー崇拝を強要したクリスチャン迫害の時代とあまりかわらない憲法だったといえます。



山県有朋や元田永孚らの、天皇を中心とした富国強兵政策の下、日本人は、今度は全員、神道の氏子(うじこ)とむりやりさせられてしまいました。廃仏毀釈といって、江戸時代、キリスト教の教会も全部、仏教のお寺に無理やりさせられてしまったものが、今度は、明治時代にお寺というお寺が全部、神道の神社に変えられてしまうという法律が施行されようとしました。仏教徒の強烈な反対があって、最終的には廃仏毀釈は完全に浸透しませんでした。しかし、日本人が全員、神道信者にさせられたのは、事実です。それは、昭和の第二次世界大戦の時代、日本人が八紘一宇の思想のもと情報操作でマインドコントロール状態になっていたことを見れば明らかです。神道の信者でないと非国民として糾弾されたのです。



以上のことを冷静に考えると、日本人は、もともとキリスト教に対して受容性をもたない、不感症の国民ではなかったということがわかります。しかし、豊臣、徳川時代の残酷なキリシタン弾圧と檀家制度、そして明治時代から第二次世界大戦敗戦までの氏子政策など、為政者の側からの宗教統制が原因で、日本人はキリスト教に対して偏見をもつことを余儀なくされる社会性を身につけたため、キリスト教を受け入れにくい国民となったのだと私は考えます。



お詫び:



2008/06/26 まで、森有礼の死と教育勅語の発布等に関連して、



『このことに関しては私の著書でも論じましたので、ご興味あるかたは、「知っているようで知らない 日本の宗教と慣習」をご覧ください。』



とこのブログに記しましたが、間違いでしたので訂正し、お詫びいたします。



当初、「知っているようで知らない 日本の宗教と慣習」の中に上記の内容を含んだ原稿を準備し組み入れることを予定していましたが、出版物の頁数等の関係で、実際の製本作業をしていく段階で、割愛いたしました。したがって、現在出版されている拙著の中には、この項をあつかった章はありません。失礼いたしました。



教育勅語が作成されていった背景 参考資料からの抜粋 池田 豊

複数あった教育勅語草案

 そこで急速に教育勅語の執筆ということがすすんでいきますが、これには何人かの人が参加して、いろいろな草案を出しております。実にたびたび案は書きかえられ、くりかえし議論がおこなわれて、またしても書きかえられていくのですが、その書きかえられていく細かい過程は省略するほかありません。概略をいいますと、最初は、いまのお茶の水女子大学、当時の東京女子高等師範学校や東大の教師であった中村正直(まさなお)という人が草案を書いています。中村は明治の初めに『西国立志伝』という、若者たちを文明開化の方にむかってふるいたたせた書物の翻訳をした人ですが、その中村正直が書いた草案はややキリスト教的臭味があるということで退けられます。もう一人、1879(明治12)年の教学聖旨いらい、ずっと天皇の横にいて天皇にさまざまな助言をしてきた元田永孚(ながざね、又はえいふ)が一つの草案を書いています。しかし、それはきわめて儒教主義的なものであって、とても新しい時代にはあわなかったのです。そこでのり出してきたのが伊藤博文といっしょに憲法をつくっていた井上毅(こわし)という人で、この井上の草案がもとになって教育勅語として完成されていくのです。


山県有朋の役割

 その過程で、山県有朋はいったいどういうことを考えていたのかというと、
「余は軍人勅諭というものが頭にあったので、教育についても同様なものが欲しいと考えていた」
といっています。軍人勅諭というのは、山県が陸軍の責任者であったときにつくりあげたものです。1882(明治15)年につくられたものですが、「軍人は忠節を尽くすをもって本文とすべし」にはじまる五つの条文が有名で、この軍人直喩を山県は陸軍の責任者としてつくったのです。それをつくることによって、軍隊にスジ金をいれることができたので、こんどは、教育について、同様に中核となるものがほしいと考えついたようです。

 そこで、なんとしても教育勅語をつくりあげていかなければならないと決意を固めたものとみられます。勅語ができあがったときに、天皇の侍講だった元田永孚は「この教育勅語は、伊藤博文だったらできなかったかもしれない、これは山県有朋のたいへんな功績である」といっております。伊藤博文という人は、むしろヨーロッパの道徳教育のあり方について、ある程度こころえていた人だったのです。彼は、道徳について君主が介入するのはまちがいであるというような考え方ももらしたことがあった人です。

新日本出版社発行 新日本新書290 
山住正己著 「教育史に学ぶ」 P.137
*****************************************************

教育行政と教育思想
開明政策の一翼として

・・・・・・前略・・・・・
 1871年、廃藩置県による政府機構改革のさいに文部省が新設され、洋楽系統の南校(旧開成所の後身)と、東校(旧医学所の後身)が中心となり、これが東京開成学校・東京医学校となり、しだいに程度を高めて、1877年(明治10)年には、合併して東京大学となった。

 文部省は創立早々、近大教育の建設に力をつくしたのみならず、政府の開明政策(文明開化)の中心となって、きわめて進歩的であったので、省内に編輯(へんしゅう)局を設け、日本文典の編集や、西洋学術書の翻訳などを行い、これを宮版として刊行した。

 また田中不二麿が中心となり、日本の教育行政に多大の貢献をしたアメリカのダビッド・マレーの意見を参酌して、1879(明治12)年東京学士院を設立した。(1906年帝国学士院となり、戦後、日本学士院に改められ現在に至っている)これは西洋風のアカデミーであるが、そのはじめは、教育問題の諮問機関として設けたのであった。これは、1873年、森有礼の首唱でできた明六社の幹部であった福沢諭吉、西周(あまね)、加藤弘之、津田真通(まみち)、中村正直(まさなお)らがその創立会員となっている。東京大学と東京学士会院とは、ともに文部省の開明政策の産物というべく、また明治初年の啓蒙思想における最高級の結晶であった。

 しかし、このような開明的教育政策は、舶来の近代性であり、したがって学校制度はすべて翻訳であった。そこで必ずしも一般の文化水準とは適合しなかった。特に小学校のごときは、地方農民の生活と背離していたために、その新設はかれらの反抗を招いたし、また一部の保守思想からは、西洋風の翻訳教育が国民道徳に反するという非難をあびた。この非難は、開化政策の反動であるとともに、民権運動に対する保守主義の抑圧の一つでもあった。この保守主義は、やがて教育の国家主義化の原動力となるのである。
 

近代的学校系統の完成

 近代的学校系統は、1872年の「学制」によって基礎がすえられた。「学制」は文部省が創設後、ただちに制定に着手したもので、フランス学者の箕作麟祥(みつくりりんしょう)などがその起草にあたった。その特色は大幅な西洋の学校制度の模倣であり、同時にまた強力な教育の国家的統制であった。しかし、その「被仰出書(おおせいだされししょ)」にあらわれた近代教育の宣言、また「学制」全体にわたる近代教育主義は、当時においてまさに画期的であって、その点から「学制」公布の意義は高く評価されなければならない。

・・・・・中略・・・・・

 女子教育が独立したことは、明治の教育史上特筆すべきことであろう。婦人解放の精神はすでに「学制」のうちにほのみえている。文部省は創立の翌年に東京に官立の女学校を設立した。女子教育の振興には学監マレーの助言が大きい。それにつれて地方にもしだいに女学校の設立をみたが、この時代の女子教育の独立には、依然として旧時代の婦人観をそのまま受けて、女子を男性と区別して特殊の教育を施すという古い考え方がまだ基となっていることを見のがせない。教育上における真の婦人解放の精神は、そののち、主としてキリスト教の方面から主張され、実践されたので、これが明治中期のロマンチシズムの風潮と合流して推進され、それは、やがて明治後年期の婦人解放運動へとつながったのである。

 ・・・・・中略・・・・


教育の国家主義化

 ・・・・・前略・・・・

 「教育勅語」が侍講元田永孚の儒教主義の教育方針を受けていたとともに、明治憲法の起草者であった井上毅がこの勅語の起草にもあたってそのうちに、「常に国憲ヲ重ンジ国法ニ遵ヒ」の一句を入れたことによって具体的に示されている。「教育勅語」は、その意味で儒教主義の近代化、あるいはその立憲化であった。

小学館発行 児玉幸多 他 編集
「図説 日本文化体系? 明治時代」 ?P.178?

「武士道」という本の背景

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 池田 豊

 セオドア・ルーズベルト大統領を感激させた本があります。しかも日本人が英語で書いた本です。  1900年(明治33年)頃、日本は政治・経済・文化各方面において大混乱の真っ最中で、貧富の差、社会制度の矛盾からも、官能、無軌道は野放図とされ道徳的乱れが蔓延していました。特に政界における腐敗は目を覆うものがありました。ちいさな子どもまで無差別にいのちをねらわれる、不気味な平成の現在に似たものを感じるのは私だけでしょうか。

 明治初年より藩閥政府が政治の主導権を握ったため、藩閥政府に反対する人々は「政党政治」を主張しますが、山県有朋らは「政党政治は憲法の精神に反する」といい、政治に利害が露骨にからむようになりました。官庁へ仲介の労をとるという名目で、政治家が賄賂を平気で受け取り、公共事業の斡旋をするものたちが激増しました。その代表的人物が星亨(ほしとおる)です。そして星の汚職を激しく告発糾弾したのが、「隈板内閣」文部大臣の尾崎行雄でした。尾崎は全国から小学校教員を集めた夏期講習会でこう演説しています。

●昨今、この日本では、金の力で左右されている者が多すぎる
●この現象をアメリカの拝金主義の影響だというものがいるが、アメリカでは金の力によって大統領になった者はひとりもいない
●ところがこの日本で、もしアメリカ式の共和国政治体制をとったならば、必ずや大財閥から大統領が生まれることだろう

 しかし山県有朋が次の内閣を組閣し、国家公務員をすべて天皇に直轄するものとしたため、国家公務員が「自分は天皇陛下の官吏である」とエリート意識をいだくようになりました。内村鑑三は、この時、日本の腐敗状況を嘆いて、「日本は社会的にすでに死んだ」と語ったのでした。

 明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布され、クリスチャンであった初代文部大臣森有礼が暗殺されました。翌年、元田永孚(ながざね)、井上毅(こわし)らは、他の国務大臣の承認もとりつけず、文部省を通すことすらなく、自分たちで勝手に原案を作成した「教育勅語」を交付します。その7年後、井上哲治郎、高山林次郎(樗牛)らは、「国家はわれわれの生活における道徳の標準である。いっさいの宗教を排斥せよ。」と主張し、神道の氏子制度と教育勅語を徹底化し、キリスト教を排斥しました。

? このような時代背景のもと、明治34年、クリスチャンである新渡戸稲造が英語で書き記した「武士道」がアメリカで出版されたのでした。

 ところで、伊藤博文は日露戦争(1904-5)で日本は戦果をあげているこの時期に早期講和を結ぶべきだと考えていました。仲介国としてアメリカが最もふさわしいのですが、当時、アメリカは、ルーズベルト大統領が「絶対中立、戦争不介入」をモットーとしており無理に思われます。そこで伊藤は、一か八かの賭とハーバード大学でルーズベルトと同窓生であった金子堅太郎を全権大使としてアメリカに送ったのでした。この金子堅太郎が大統領への贈呈品として献上したのが、「武士道」でした。「武士道」を読んだルーズベルトは大いに感動し、数日後、金子に直接、呼び出しがかかりました。
「私が日露講和の仲介の労を執る。動機はこの本だ」とルーズベルトは「武士道」を指して協力を約束したのでした。

 大正時代になって後藤新平がアメリカに渡った時のことです。後藤新平が発明王エジソンに会った時、エジソンは、後藤に新渡戸稲造の「武士道」を示して、「この本に書いてあるような立派な日本民族が、なぜ中国に対して、領土の一部を日本に与えよと要求するのか?」と日本の中国植民地政策を批判したといいます。

 古代中国には、シルクロードを経て、旧約聖書の倫理道徳が伝わっておりました。紀元前五世紀、孔子の儒教や、老子の教えたとされる道教が花開きましたが、実はそれよりもっと過去にさかのぼる、紀元前千五百年から二千年前の中国の思想的、宗教的環境と景色がどうだったのかは、注目に値します。

 旧約聖書に登場するソロモン王(B.C.961?B.C.922年在位)は、箴言という知恵の書、道徳の書を書き記しましたが、ソロモンは、孔子よりも400年以上も前に実在した人物です。実は、古代中国においては、唯一の創造主が信仰の対象とされており、非常に厳格な道徳律が守られており、古代中国の人々が礼拝と信仰の対象としていた唯一の神は、上帝(シャンティー)と呼ばれていました。

 三皇五帝時代、最後の王、舜皇帝(紀元前2230年頃)についての記述が、孔子編纂による中国の歴史書、「書経」にこう記されています。

「皇帝は、上帝(シャンティー)に生け贄を献げた。」
また、孔子編纂の「中庸」には、
「天上と、地上の献げものは、人が上帝(シャンティー)を礼拝するためのものであった。」

とあります。

 これは旧約聖書の創造主礼拝に一脈通じるものです。中国古来からの倫理、道徳には、孔子よりも400年以上はるか昔から存在していた旧約聖書、ソロモンの知恵が大きく影響していたとは考えられないでしょうか。

明治時代の日本とキリスト教

池田豊




江戸時代には、わが国日本の民は、全員、寺の檀家とされ、無理矢理仏教徒にさせられてしまった。その徳川幕府も終焉を迎え、新しい時代、明治となった。


明治時代、キリスト教の創造主が日本の神々と混同されてしまったことを指摘するため、東京学芸大学名誉教授であり、日本宗教学会理事であられる小池長之氏は、「日本宗教もの知り100」(日本文芸社発行)という著書の二〇六?二〇七頁に興味深いことを記しておられる。その内容を参考に以下、クリスチャンとしての立場から、明治時代の日本の教育と創造論に立脚するキリスト教との関係について考察して見たいと思う。


明治時代には、新しい明治政府というものができた。ヨーロッパやアメリカなどの先進諸国にならい、新しい国づくりが始まったのである。ところが、その明治政府には、二つの相反する思想が存在していた。


一つは、尊皇攘夷を看板とする復古神道派である。彼等は、日本国民を総神道信者にしてしまおうと国民教化を画策したが、当初は失敗に終わり、大数院の解散を余儀なきものとされ、勢力的には後退していた。


*大教院 明治5年に設置された大教宣布と教導職指導のための中央機関。地方には中教院・小数院が設置された。  明治8年神仏教導職の対立で解散。  大辞林より抜粋


いま一つは、文明開花を看板とする進歩派の思想であった。この思想は、多くの現代の日本人にとっては驚きかもしれないが、この思想の拠点は、なんと文部省にあった。わが国に初めて設置された文部省は、明治5年(1872年)学制を制定し、学校教育を中心に理想の現実化を図った。明治政府は、師範学校を開設し、東京師範学校に義務教育用の教科書を編纂させた。その結果、明治6年(1873年)文部省から「小学読本」が発行された。この教科書作成の目的は、日本を先進諸外国並みの一流国とすることにあった。


何と、この日本でできた最初の教科書で教えられた内容は、我々クリスチャンを驚かさずにはおかない。以下のような内容が盛り込まれていた。


 「天津神は、月、日、地球を造り、のち、人、鳥、獣、魚、草木を造りて、人をして諸々の支配をなさしめたり。」


「神は万物を創造し、支配したもう絶対者なり。」


これは、米国のウィルソン・リーダーをそのまま和訳したものだった。日本の神々とキリスト教の創造主を混同するような文章が残されている。又、文部省唱歌には多くの讃美歌の曲が採用された。内閣が組織され初代文部大臣には、クリスチャンの森有礼が任じられた。森有礼は日本をキリスト教国にしたいという理想に燃えていた。


しかし、天皇の側近にいた元田永孚(もとだながざね)らは、宮内庁を動かし、明治15年(1882年)「幼学綱要」を文部省とは無関係に発行した。これは日本中で使用させるための道徳教育用教科書であった。神武天皇、和気清麻呂、菅原道真、楠木正成などの人物が登場し、天皇への忠誠心をすべての日本人の心に植え付けさせることを目的としていた。かたや、文部省側も、編纂委員会を設け、日本にふさわしい理想的な教科書の作成にとりかかった。


ところが、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された日、文部大臣、森有礼は暗殺され、翌日召天してしまうのである。明治23年(1890年)、機を見たかのように元田や井上毅らは、他の国務大臣の承認もとりつけず、文部省を通すことすらなく、自分たちで勝手に原案を作成した「教育勅語」を交付してしまった。自由民権運動を嫌い、激しく弾圧していた山県有朋は、1889年に第一次山県内閣を組織したが、当時の文部大臣榎本武揚を退任させ、自分の息がかかった芳川顕正にすげかえ文部省を掌握した。この時点で、日本の学校における宗教教育は、天皇を絶対者、支配者として拝む宗教のみのマインドコントロール状態と化して行くのである。


内村鑑三らクリスチャン指導者たちはそれに危機感を覚え、異議を唱えたため、激しく非難され、非国民として攻撃を受けた。一方、キリスト教信仰を持たない進歩派の人々は、なんと天皇の立場がキリスト教の神概念に酷似するということで、日本も欧米のものの考え方に肩をならべることができるようになったとして、無思慮にも納得してしまった。又、東京帝国大学教授の井上哲治郎は「教育と宗教の衝突」という著書を発行し、日本に於いては、キリスト教は教育上害があると主張した。


残念ながら、森有礼が暗殺されてしまってからは、文部省は、一挙に元田永学らの思想にマインドコントロールされた者たちの手に掌握されてしまった。明治32年(1899年)には、国家神道一色となった文部省は、訓令を発し、学校教育における神道以外の宗教教育を全面的に禁止した。そして、日本中にあるすべての学校という学校には、天皇・皇后の写真(ご真影)を飾らせ、それ に向かって礼拝すること(宗教的崇敬)を国民の義務として強要したのである。この偶像礼拝は実に第二次大戦で日本が敗北するまで続いた。


それは、日本人だけでなく、八紘一宇の思想 のもと、日本が植民地化しようとしたアジア諸国の人々に対しても有無を言わさず、暴力的に強要されたのである。


明治の始めに日本の総福音化が文部省の働きからも達成されうる可能性があったと知らされることは、今、日本伝道を考える私たち、平成に生きるクリスチャンに励ましとはならないだろうか。


それにしても、明治時代、聖書の創造主が日本語で「神」と訳されたため、創造主が日本の神々と混同されるようになってしまったのは、残念である。その弊害が、現在もなお新新興宗教カルトのキリスト教的模倣の温床ともなり、日本の福音宣教を妨げる要因の一つともなっている現実は、無視できないように思う。


付記


明治6年に文部省から発行された「小学読本」はあまりに直訳的だったので朝野らの非難を浴び翌7年に改定されたが、現在筆者が図書館で確認できたのは、明治7年8月に改正された講談社刊行、日本教科書大系・近代編第四巻国語(一)田中義廉編のみであった。 以下その抜粋をご紹介する。


 「神は常に、我を守るゆゑに、吾は、濁にて、
暗夜に、歩行するをも、恐る、ことなし○又、
眠りたるときにも、神の、守りあるゆゑに、暗
き所も、恐る、ことなし○神は、暗き所も、明
に、見るものゆゑ、人の知らざる所と、思い
て仮にも、慈しきことを、なせば、忽チ罰を、
蒙ふるなり、○人の、知らざることをも、神
は、能く知るゆゑに、書きものには、幸を、輿
へ、慈しきものには、禍を輿ふるなり、」
(113?114頁)



 「それこの世界は、全く人の住居する為に、神
の造りたるものにて、世界は、即人の住所な
り、既に人の為に、此世界を造り、日あり、月
ありて、物を照らし、また其日を歓ばしむる
には、地上に、芳草を生じ、梢頭に、美花を
開かしむ、」    (139頁)
「これ皆神の賜ものにして、所として、これ有
らざるはなし、凡此地上、及河海の萬物は、禽
獣、晶、魚、山林、草木の花章に至るまで、皆
人を養ふか為に、神の輿へたるものなり、
神、既に此諸物を、人に輿へて、足らざるも
のなからしむ、故に人々慎みて、神の賜もの
を受け、我身の生活を、計るべし、」
(139頁)



「神は、此地球を造り、人民の、生活する為に、
用ゐる物をば、皆此地球上に、生ぜしむれ
ば、」
(144頁)











 









参考文献


坂田青雄著 「天皇親政」 思文閣出版
犬塚孝明著 「森有礼」 吉川弘文館
色川大昔著 「明治精神史」
講談社学術文庫
大塚三七雄著 「明治維新と独逸思想」
長崎出版
久保義三著 「天皇制国家の教育成策」
勁草書
児玉幸多他 「図説日本文化史大系?
明治時代」    小学館
小西長之著 「日本宗教ものしり100」
日本文芸社
下程勇吉編 「日本の近代化と人間形成」
法律文化社
高島伸欣著 「教育勅語と学校」
岩波書店
田中義廉編 「日本教科書大系 近代編」
第四巻 国語(一) 小学読本巻一?
巻四 明治七年八月改正版
講談社
森川哲郎著 「明治暗殺史」
三一書房
山住正己著 「教育史に学ぶ」
新日本出版社
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。