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恋をした時

恋をした時(1)



 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



君に似し姿を街に見る時の      
こころ躍りを                  
あはれと思へ                  



時として                        
君を思へば                
安かりし心 にはかに騒ぐかなしさ 



恋する心は青年を虜にします。好きな異性と見間違うような人物に出会う時、「まさか」と思いつつも「ひょっとして」と心が穏やかでなくなります。この啄木の歌には「踊る」という漢字ではなく、「躍る」という漢字が用いられています。この漢字は舞踊の躍るではなく、瞬間的に飛び上がる様、はねる様、動揺する様を表現するための漢字です。恋する人のことを考えると心は平安ではなく、アドレナリンの分泌により不安定になるのです。普段の自分ではないことに気づくと悲しみさえおぼえるものです。



 恋は、愛とは別物です。似ていると思う人がおられるかもしれませんが厳密には正反対の要素が多くあるのです。



聖書の言葉



麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 箴言31:30





恋をした時(2)
 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



手套を脱ぐ手 ふと休む    
何やらむ                  
こころかすめし 思ひ出のあり 



つくづくと手をながめつつ
おもひ出でぬ            
キスが上手の女なりしが   



 啄木は、それまで、一行で発表した短歌を三行書きに改め、また明治41年以降3年間の間に東京で詠まれた新作を加えて、551首とし、「一握の砂」と題し、明治43(1910)年12月1日東雲堂書店より、四六判290ページ、定価60銭で刊行しました。この処女歌集は、生活を歌う独自の内容と、三行書きという新しい短歌の表現形式で注目され、以後の歌壇に大きな影響を与えました。その「一握の砂」の中には“手套を脱ぐ時”というセクションに115首が掲載されています。そこには、都市生活者の刹那感や都市の断面がうたわれています。



 27歳でこの世をさった啄木でしたが「一握の砂」を発表したのは25歳の時でした。啄木が、足かけ四年の恋を実らせ堀合セツ子と結婚したのが、明治37年、19歳の時です。手袋を脱ぐ時にふと、恋する人との思い出にふける・・・手袋を脱ぐことで思い出すことが、なぜ接吻なのか(?)・・・あまりの唐突さにびっくりもしますが、実に若い男性の心理を浮き彫りにしたような詩です。恋心とは不思議なものです。



聖書の言葉
 私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。 天にあるわしの道、岩の上にある蛇の道、海の真中にある舟の道、おとめへの男の道。 箴言30:18-19





恋をした時(3)
 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



山の子の
山を思ふがことくにも
かなしき時は 君を思へり



かの声を最一度 聴かば
すっきりと
胸や霽れむと今朝も思へる



 恋い慕う人を思う心は、強烈です。寂しい時、悲しい時は、特に、あの人に会いたい、もう一度あのお方の声を聴きたい。そう思うものです。山で育った子供が、山を慕うように、海辺で育った子供が大海原を慕うように、やるせなく、悲しみにうちくれる時は、慰めを必要しています。恋い慕う人の優しい声や、ただその人が側にいてくれるというただそれだけでも悲しみは癒えるものです。



 主イエスキリストが復活の後、昇天され、天にお帰りになってから、2000年近く経ちます。主を慕い待ちこがれる者たちにとっては、地上で苦しみや悲しみを経験する時こそ、主がもう一度お帰りくださることを待ちわびるものです。



聖書の言葉
御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 黙示録22:17





恋をした時(4)
 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



馬鈴薯の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ



死ぬまでに最一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか



 ペアルックというのがあります。恋人どおし、二人ともおなじデザインの服などを身につけることです。小学生のある男の子が、恋をしました。大好きなその女の子が、イチゴの香りがする消しゴムをつかっていました。それで、その男の子もイチゴの香りがする消しゴムをそっと内緒で使っていたという話を聞いたことがあります。



 自分が大好きな人と持ち物も、み?んな同じにしたい。その気持ち、わからないでもありません。啄木のばあいは、ジャガイモの花だったようです。少し、ユニークなロマンではありませんか。そして、愛する人とはいつまでも一緒にいたい。どうしても別かれなければならないような状況が来たならば、必ずもう一度会いましょうという再会の誓いをたてたいと願うものです。イエスキリストはいのちを捨てて私たちを愛してくださいました。そして必ず再臨してくださることを約束してくださいました。イエス様がお好きなこと、命じておられることを、主を愛するクリスチャンたちが守ろうとすることは当然なことです。



聖書の言葉
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。ヨハネ15:13-14





恋をした時(5)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



にぎはしき若き女の集会(あつまり)の   
こゑ聴き倦(う)みて   
さびしくなりたり       



春の街                   
見よげに書ける女名の      
門札などを読みありくかな   



 春のある日、啄木は街にぶらっと出まし  見ると、女性名の表札が出ている家があります。なぜだろうと思いながら、「ここの主人は、女の人なんですよ!」と世の人に訴えているかのように感じたようです。「あっ、この家もそうだ。この家も・・・」とそのような家を探して歩く。男尊女卑の明治時代のことです。啄木の心には、主人に先立たれたことや離婚したことを妻が公に知らせる理由は何なんだろうと疑問だったのでしょうか?それともそんなこと黙っていればいいのに、自己主張して、という呟きでも起こったのでしょうか?



 最近は見かけませんが、以前カシマシ娘という女性漫才師のグループがありました。
 一般論として男性は、女性に対し興味を持つものです。しかし、小学生高学年から中学生にかけて、異性に恋心をいだく頃です。でも一時的に男子生徒が、女子生徒を嫌う時期、そばに近づくのを嫌がる時期があります。「だって、あいつらうるせ?んだもん」そう言って、女子を嫌いな理由を男の子たちはまことしやかな顔をして訴えるものです。



 啄木も女性の集まりの近くまで寄った時なんともカシマシイ状態に閉口したようです。多くの男性たちの正直な気持ち。特に、好戦的な女性の、機関銃のような口撃には、百年の恋も一瞬にして、色あせてしまうようです。



聖書の言葉
長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。 箴言27:15
争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。 箴言21:9





恋をした時(6)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



思出のかのキスかとも
おどろきぬ
プラタスの葉の散りて触れしを



今日逢ひし町の女の
どれもどれも
恋にやぶれて帰るごとき日



 ひらひらと一枚の葉が、啄木の腕でしょうか、落ちてきてそっと触れます。詩人はそのかすかな感触に、かつての恋人の口づけを思いだすのです。驚くという表現は、なんとも大げさな気がしますが、詩人なればこその表現なのかもしれません。



 ところで、別のある日、町に出てみると、出会う乙女という乙女、皆、失恋をしたかのように生気ない姿に見えたというのです。これは、その女性たちが皆、鬱的な表情をしていたというのでしょうか、それとも、啄木自身、心がふさいでいたため、出会う女性たち皆が、元気のない姿に見えたというのでしょうか。



 いずれにせよ、恋とは、打算が伴うことが多いようです。口では、「君だけが好きだよ」とか「いつまでも、君を忘れない」とかささやきながら、自分の思いが遂げられないと見るや、手のひらを返したように、恋人を捨て去るということは、よくあることで、多くのドラマや小説の一部に取り上げられています。旧約聖書の契約の民、イスラエルが、創造主のもとを離れ、偶像礼拝者たちの甘い囁きにフラッとなり、誘惑されます。けれども、甘い囁きは長続きしはしません、イスラエルは裏切られるのです。恋の誘いは、誠実によって裏付けられなかったとしたら、これほど危険な罠も他にありません。



聖書の言葉
彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。
しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。 エゼキ33:31





恋をした時(7)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな



しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ



 愛する人と別れ、離ればなれになると、年ごとに恋しくなる場合と、年を経るごとにだんだん疎遠になり、忘れ去ってしまう場合とがあるのではないでしょうか。



 友人と、しみじみと様々な話を語り合っている中に、ふと、以前の恋人のことなどが言及されるとき、「ドキッとしたり」、あるいは、あまりの懐かしさのために「ボーっとなったりする」こともあるかもしれません。



 啄木の場合、年が経つごとに別れた彼女のことが恋しくなるというのです。年を重ねるごとに、だんだんその人のことを忘れるというのでは、本当にその人が好きだったのかどうか疑わしいと言わざるを得ないでしょう。クリスチャンたちは、主イエスキリストとの再会を待ち望むべきだと聖書は、諭しています。私はどうでしょうか?



聖書の言葉
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 テトス2:11 -13





恋をした時(8)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと



かのときに言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど



 恋する人との会話は、たいへん意味深いものです。さりげなく語られた言葉にもひょっとしたら、深い、深い意味が込められてる場合もあります。でも、そう詮索していることを知られても都合が悪いものです。さらっとなにごともなかったかのように、聞き流す。さりげなく、流す。聞いているような聞いていないようなふりをする。けれども、本当は、この言葉の裏にはどのような気持ちが込められているのかしら・・・と注意をしている。「聞く」ではなく「聴く」という漢字がふさわしいのです。でもそれを相手に悟られてはならない・・・「それだけのこと」と言い、この歌は終わりますが、本当にそれだけのことなのかどうかはわかりません。



 相手に心の内を、うち明けたい。その気持ちをどう表現したら良いのだろう・・・そう考えれば考えるほど、語れなくなるのです。そうこうしている間に、別れの時がやってきます。大切な伝えたい言葉は、ついに語ることができませんでした。今も、その言葉は心に残っています。なんともやるせない、残念な気持ちです。啄木は、うち明けたくてもうち明ける勇気がなかったのでしょうか。現代日本のような、バレンタインデーやホワイトデーは、昔はなかったのです。



 イエスキリストは、弟子たちに、本当に大切な真理を隠さず、彼らが理解できる「ことば」を用いて語ってくださいました。さりげなくではなく、「よくよくあなたがたにいっておく」とおっしゃって・・・。



聖書の言葉
いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。 ヨハネ17:7-8





恋をした時(9)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



あはれなる恋かなと
ひとり呟きて
夜半の火桶に炭 添へにけり



かくばかり熱き涙は
初恋の日にもありきと
泣く日またなし



 恋は、はかなくむなしいものだとよく言われます。恋を「はしか」に例えて説明する人もいます。多くの場合、恋は、自分で勝手に相手を美化しているものです。冷静になってみると、なんとも、あれほど熱中している自分が、滑稽にさえ見えるのですから不思議です。昔はやった流行歌を、メロディーつけて歌っている時は、曲に酔って恥ずかしくもなく大きな声で歌うのですが、いざ冷静になって、その歌詞だけをゆっくり読んでみると、なんとまあこんな恥ずかしい内容のことを歌っている者だと苦笑するのによく似ています。



 雰囲気にだまされているのです。サタンも私たちを目くらましにかけることでは同じような手法を用います。



聖書の言葉
彼ら(ニセ予言者たち)は、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。2ペテロ2:18-19





恋をした時(10)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



小奴といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぶ)なども忘れがたかり



よりそひて
深夜の雪の中に立つ
女の右手のあたたかさかな



小奴という名前の女性。啄木が恋心を抱いた女性かどうかはわかりませんが、やわらかい耳たぶの感触を知っているということは、通りすがりの中ではないでしょう。また、同じ女性かどうかわかりませんが、寒い北国の雪降る真夜中、そっと彼女とよりそう。そして、手がふれあう。極寒の外気と対照的な女性の手のぬくもりに生きていることの幸せを思う啄木でした。どんなにつらい、真冬のような試練が来ても、天地宇宙をお造りになり、私を愛していてくださる、創造主の右手が私の手をしっかり握っていてくだされば何も恐れるものはありません。



聖書の言葉
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 イザヤ41:10





恋をした時(11)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



わが酔ひに心いためて   
うたはざる女ありしが   
いかになれるや         



死にたくはないかと言へば            
これ見よと                         
咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな



 啄木の歌の中にはお酒のでてくる歌がいくつかあります。人に裏切られたり、失恋をしたり、さまざまな心の痛みを酒が和らげてくれる。酒は麻酔薬のような働きをしますから、しばらくは、痛みを感じないでおれるのでしょう。しかし、やがて酔いが醒め、現実に戻る時、現状は変わらないわけですから、いっそうの鬱状態になる危険性があります。啄木の身体と心を心配してくれた女性がいたようです。啄木は、なつかしくその人のことを思いだしているのです。また、太宰治のように心中を語り合っていたわけではないかも知れませんが、「死にたくないか?」と問うたら、その女性が、喉をついて自殺を図った未遂の時の傷を見せてくれたというのです。



 皆、人生の苦渋を経験し傷ついているのです。啄木一人ではなかったのです。苦しみを真に和らげ、慰めを与えるのは、天地宇宙を造られた創造主への信仰のみなのです。



聖書の言葉



このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。 1テサ3:7



恋をした時(12)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



きしきしと寒さに踏めば板軋(きし)む
かへりの廊下の
不意のくちづけ



かなしきは
かの白玉のごとくなる腕に残せし
キスの痕かな



 寒い北国、きっと夜のことでしょう。古くなった建物の板は、歩くたびに音を立てます。寒さに歩みもいくぶん早めになっていたでしょうか。啄木はどこから帰ってきたのでしょう。廊下で出会あった女性となのでしょうか、それとも、いっしょに帰ってきた女性とだったのでしょうか・・・不意にくちづけを交わした時のロマンを詩に詠んだ啄木でした。



 どちらが不意に唇を奪われたのでしょう?アメリカの映画ならともかく、日本が舞台でしたらやはり、おそらく、啄木がアプローチしたのでしょう。不意だったのは女性の方で、啄木にしてみたら、場面設定まで計算した計画的行為だったかもしれません。



 雪国の女性には肌の白い人が多いと言われます。啄木が女性の腕に残した鮮やかなキスマークについて詠った詩です。忘れがたい良い思い出のはずでした。でも、啄木はそのマークを「かなしい」という言葉で表現しているのです。私たちが、恋する勢いにまかせ、清水の舞台から飛び降りるかのような決心でなした行為も、後になってみれば「軽率だったなぁ」と感じることもあるのです。「若気のいたりで・・・」などとクールに気取っていられれば良いのですが、現実は、それだけで済まない悲しいケースになることだってあります。



聖書の言葉
しかし、アムノンは彼女の言うことを聞こうとはせず、力ずくで、彼女をはずかしめて、これと寝た。
ところがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった。アムノンは彼女に言った。「さあ、出て行け。」2サムエル13:14-15





恋をした時(13)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



ゆゑもなく海が見たくて   
海に来きぬ               
こころ傷(いた)みてたへがたき日に



やや長きキスを交わして別れ来し
深夜の街の                     
遠き火事かな                  



 失恋をしたり、人に裏切られ、絶望感や、自己憐憫に耐えられなくなった時は、どこか遠くへ行きたくなるものです。そして、行きたくなる所といえば、多くの人にとってそれは、海岸ではないでしょうか。なぜかわかりませんが、あのうち寄せる波の音、冷たい触感の砂、そして、遠く果てしない水平線。心の傷をすっぽりと包んでくれるような気がします。



 啄木は、恋した女性と別れを惜しみ、口づけを交わしあって帰宅の途につきました。深夜です。なにやら深夜にはふさわしくない騒々しさです。見れば遠くの空が赤く染まっています。「火事だ!」と叫ぶ声が遠くで聞こえます。ついさきほどまで二人だけの甘いロマンチックな世界に浸っていた啄木は現実に引き戻されます。



 失恋であっても、ロマンチックな二人だけの世界に浸っていた恋人たちが頭から水をかぶるような現実直視の体験をすることであっても、私たちは、夢から覚める経験が必要だと気付く時があります。
そしてそれは重要なことです。



聖書の言葉
夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。 伝道5:7





恋をした時(14)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



東海の小島の磯の白砂に         
われ泣きぬれて                
蟹とたはむる                  



砂山の砂に腹這ひ          
初恋の                     
いたみを遠くおもひ出づる日
                                 │                               
 失恋は、恋する者の心をズタズタにするものです。片思いで、なかなか自分の恋する思いを告げることができない・・・思い切ってうち明けた時、相手がまったく自分のことを恋の対象として考えたこともないかのような、驚きの表情を浮かべ、お友達でいましょうなどという返事を返してきた時なども、ベートーベンの第五交響曲のテーマが鳴り響くように感じる人もおられることでしょう。



 ましてや、互いに恋する思いを告白しあい、恋人としての親しい関係を築きあげてきたにもかかわらず、相手が、自分よりもステキな異性に心を奪われたことなどを正直に告白してきた時に受けるショックは、前者の比ではないでしょう。



 そんな経験をしたことのある人は、上に記した啄木が詠んだ詩の気持ちを少しは察することができるかもしれません。心傷ついてどうにもやるせない時、海に出てみる。砂を指でそっと触る。止めようとしても、止めようとしても涙がポタポタ落ちる。そんな彼の所に何をおもったか、蟹が近づいてくる。自分はひとりぼっちだと思っていたのに、そうじゃなかったんだ。そう気づかされるのでした。



聖書の言葉
悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。 イザヤ41:17





恋をした時(15)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



壁ごしに
若き女の泣くをきく
旅の宿屋の秋の蚊帳(かや)かな



郷里にゐて
身投げせしことありといふ
女の三味にうたへるゆうべ



 旅行中、宿屋で秋の夜長を過ごすことになりました。秋とはいえ、蚊が吸血鬼のようにたかってきます。蚊帳の中で寝苦しい夜だなあと思っていると、壁の向こうからすすり泣きの声が聞こえてきます。たしか隣の部屋には若い女性が入ったはずだ。どうして泣いているのだろう・・・。人ごととはいえ啄木は繊細な心を持つ詩人です。いろいろ思いめぐらしたことでしょう。若い女性が、一人泣いている。ひょっとして恋にやぶれたのだろうか。好きだった人に捨てられたのだろうか?そんなことすら考えたかも知れません。



 そういえば、この前の宴会で三味線を弾いていた女が、自分の身の上話を語ってくれたことがあったっけ。なんでも、若い頃、まだ田舎にいた時だそうだ。世をはかなんで身投げをしたことがあったとのこと。だれも自分の心をわかってくれない。なにもかもいやになった。そんなことを言っていたっけ。でも、死にきれず、今は、お座敷で三味線を弾く女になったとのこと。人生、いろいろあるものだ。そう啄木は思ったかも知れません。



 恋にやぶれたり、人に裏切られたり、自分の計画したように物事が進まなかったり、人生にはさまざまなハードルがたちはだかるものです。でもそんな苦しい状況でも、創造主を見上げる時に、私たちの人生の意義を示していただくことができるのです。



聖書の言葉
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。 エレミヤ33:3





恋をした時(16)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



秋来れば
恋ふる心のいとまなさよ
夜もい寝がてに雁多く聴く



あめつちに
わが悲しみと月光と
あまねき秋の夜となりけり



恋心と秋はしっとりとしてなんとなくあいます。



秋の日の ビオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し
鐘のおとに 胸ふたぎ
色かえて 涙ぐむ
過ぎし日の おもいでや
げにわれは うらぶれて ここかしこ
さだめなく とび散らう 落葉かな
落葉かな



という、ヴェルレーヌ作、上田 敏 訳による落ち葉にもうら悲しさが歌われていますが、啄木も秋の夜と、悲しみ、そして月光をそして、恋を歌っています。



 そして恋をすると、長い秋の夜も休みなく揺れ動く心にいつとはなく時が流れているのです。雁が多く飛びさりゆく声が聞こえます。



 私たちの人生も黄昏に近づき、たとい大地さえも私たちの心も、全てが揺らぐようなことがあったとしても創造主を信頼する時、私たちの支えは盤石となるのです。



聖書の言葉
地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ 詩篇75:3





恋をした時(17)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



かなしきは
秋風ぞかし
稀にのみ湧きし涙の繁(しじ)に流るる



真白なるラムプの笠に
手をあてて
寒き夜にする物思ひかな



 秋の風が吹くとどの年代の人でもなにかしら寂しい気持ちになるものです。とくに失恋などすると、大の男でさえメソメソ涙をながすことがあるようです。滅多に涙など見せることがないはずなのに、秋風が吹くと後から後から涙が湧いてきて、頬に暖かく感じられた、と思うやいなや、冷たい風にさらされ、急速に冷えます。啄木も秋になると涙あふれることが頻繁にあったようです。



 真っ白なランプの笠にそっと手を置いてみます。秋風が外ではぴゅーぴゅー吹いています。白熱球のぬくもりに、背筋が思わずゾクッ。いやビビンとするといったら良いのでしょうか。そう、初恋の人に近づいた時にも、そんな電気が体中にビビッと走ったような経験したことありませんか。寒い夜、なんとなくほんわかと暖かい思い出にふける。



 恋は私たちの心をいつのまにか遠い昔へもタイムトリップさせてくれます。寒い日に暖かいランプの熱を手に感じるような、そんな日は特に。



 私たちの心は、造り主なるお方の愛にとられられるその時、恋人を思い出すそれ以上に暖かく、懐かしい思いに引き込まれると言って良いでしょう。ちょうど、誘拐された子供が、恐ろしい不安な体験の後やっとのことで両親の元に返って来たときのように。



聖書の言葉
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。 エゼキ34:16





恋をした時(18)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



何時なりしか
かの大川の遊船に
舞ひし女をおもひ出でにけり



Yという符牒(しるし)
古日記の処処にあり・・
Yとはあの人の事なりしかな



 恋に陥るのは一瞬のことだと言われることがあります。特に男性にとっては、視覚が恋に陥りやすさの窓口のようです。たった一度だけの出会いで、その女性について何の情報もなくとも恋の病にとりつかれ、舞い上がる人もおられるようです。いいえ、実際にあうことが無くても、写真やポスター一枚で自分好みの女性がいれば恋にはまる人もいます。特に男性は、女性の“目”に引きつけられるようです。



 そして、思いを寄せる女性などがいると、日記などにあからさまに名前を記すのをためらいますから、自分だけわかればよいようにイニシャルなどで記録を残します。もともと日記は、他者に見せるものではありませんからそれは、それで良いのですが、何年もたって、ふと、古い日記に目を通したとき、そのイニシャルを見つけることがあります。そうたら、タイムスリップしたかのようにその頃の思い出が、総天然色映画のようによみがえるのです。でも、注意しなければならないのは、よく知りもしない相手を、自分の空想の中で美化しすぎないことです。「人は誤解して結婚し、理解して離婚する」なんて妙に神妙な言葉を口にする人がおられるからです。



聖書の言葉
彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕えられるな。箴言6:25





恋をした時(19)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



かぎりなき知識の欲に燃ゆる眼を
姉は傷みき
人恋ふるかと



わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日



 恋の病のことをコイワズライと言います。中学生くらいの男子生徒が変声期に、声が出にくくなる状態をコエワズライと呼びますが、発音がにていることから声変わりの頃に恋に悩むことも経験すると言う人がおられます。しかし、眼にも恋は負担をかけるものでしょうか。



 啄木は、知識欲旺盛であったため、眼を酷使したようです。「蛍の光、窓の雪」と苦学して勉強し、ランプの油を惜しんで、夏は蛍の下で、冬は、月の光を窓に反射する雪のあかるさを頼りに読書をする話しがあります。そのような集中力は、眼に負担をかけます。でも眼を痛めた啄木の姿を見て、誰か好きな人ができたのかと姉は尋ねるのです。



 恋をし、失恋でもして眼を泣きはらしているのかと心配しての問いだったのでしょう、姉には弟の目の腫れが気になったようです。彼女は弟のため、心を痛めたのです。
 又、恋の告白をするとき、あるいは、自分が誰かを恋い慕っているということを友人にうち明かすことは、とても勇気がいることです。その場面を忘れることができず、思い出す人も多いことでしょう。私も、中学一年の時、好きだった女の子に手紙を書き、下校時に「これよんどいてっ!」とだけ言い捨て、ポイッと彼女の前に落とし、恥ずかしさのあまり、あわてて、こいでいた自転車のペダルを力一杯踏み、坂道を下っていった日のことを今も懐かしく思い出すことがあります。



聖書の言葉
わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。・・神である主の御告げ。・・そして、あなたはわたしのものとなった。 エゼキエル16:8  



 



恋をした時(20)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



朝はやく
婚期を過ぎし妹の
恋文めける文を読めりけり



死にしかとこのごろ聞きぬ
恋がたき
才あまりある男なりしが



 啄木の妹はクリスチャンだったようです。別にクリスチャンだったからという理由からではないと思いますが、結婚適齢期をすぎても一人だったようです。兄、啄木は、朝早く、妹が書いたと思われるラブレターを発見し、盗み読みをしたのでしょう。兄として妹のことが気にかかったようです。人の手紙を盗み読むのは良くないことですが、啄木は妹に良き結婚に導かれればよいのにと心にかけ、願っていたようです。



 啄木自身も恋をして、失恋も経験したことがあったようです。同じ一人の女性を想う恋がたき、つまりライバルもいたのでしょう。そのライバルは、啄木よりも才能あふれる、女性の心をつかむのがうまい男性だったようです。ところが、このかつての恋がたきが、急死したというのです。この訃報に複雑な思いを感じる啄木でした。



 恋というのは、愛とは違い、きわめて自己中心的な側面を持っています。ですから恋がたきであるライバルの死は、不謹慎ではありますが、ある意味でうれしい知らせと受け止める人もおられるかもしれません。しかし、自分と比べてみても明らかに素晴らしい才能の持ち主と自他共に認めるライバルであった場合、惜しい男を亡くしたと思うこともまた、当然のことです。



聖書の言葉
あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。箴言24:17



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あんな時、こんな時、 4. 病気の時

病気の時(1)
石川啄木の日記より
昨日-----大学病院へ行き、三浦内科の青柳といふ医者に診察して貰つた。はち切れさうにふくれた腹を一目見て、「ああいけない、いけない、これあ可けません。」と医者が言った。
「痛くないんだから、仕事をしながら治療するといふやうな訳にいきませんか」
「そんなノンキな事言つてゐたら、あなたの生命はたつた一年です。」
「腹膜炎ですか。」
「さうです。----」一日も早く入院する外に途がありません。----」
「どうも大分おどかされますね。」
「おどかしぢゃありません。」
これは昨日の正午から一時頃までの間の話である。かういわれて帰つたが、----
「一年だけの生命」といふことが妙に頭を圧迫した。
 君、僕はすぐ入院の決心をした。僕の状態はどの方面から考へても今僕に入院なんか許さない。夜勤をやめたのは既に遅かつたが、遅かつたにしても僕はまだ死にたくない。
僕は入院する。大学の施療にに。(宮崎郁雨宛書簡)
註:この病気が啄木の生命とりになったものだった。
病気の時(2)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
目覚ませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて夜明くるを待つ
氷嚢の下より
まなこ光らせて、
寝られぬ夜は人を憎める
 肉体の苦痛は、私たちの生きる希望をさえ奪うことがあります。寝返りもうてないほど苦しい状態ともなると夜がとても長く感じるのです。
 不眠症を訴える人の中には、本当に眠っていないのではなく、寝た気がしないというだけの場合もあるようです。以前、横浜にそのような青年がいました。本人は、「眠れない、眠れない」と私に訴えるのですが、一緒に生活している彼のお母さんは、「あなたは、よく寝ているわよ。いびきをかいてねているんだもの」とおっしゃったものです。しかし、苦痛で眠られない夜は、それとは別です。
 爛々と目を光らせ、怪しい妖気のようなものを発しながら、人を憎むと詠った啄木は、いったい誰のどのようなことを憎んでいたのでしょうか?身体が病むと心まで病んでしまうとはあまりにも悲しいことです。
聖書の言葉
私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
エレミヤ17:14
病気の時(3)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
病みてあれば心も弱るらむ!
さまざまの
泣きたきことが胸にあつまる
そんならば生命が欲しくないのかと、
医者に言はれて、
だまりし心!
 長いこと身体を患うと、心も弱ってきます。希望がもてなくなってきた時、人はただむなしく泣くのみのような気がしてきます。啄木も泣きたいこと、嘆きたいことが次から次と胸に集まってくると詠いました。自暴自棄になって医者の忠告もなにもかもどうでも良いような気持ちになったのでしょう。医者に叱られ、一言も言い返すことができなかったようです。私たちのこの肉体は、朽ち果て、痛みの内に私たちはこの世を去りますが、主イエスキリストは、復活の希望を約束しておられます。ちょうどさなぎから蝶がかえるように。
聖書の言葉
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。  1コリント15:20-22
病気の時(4)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
脉をとる看護婦の手の
あたたかき日あり、
つめたく堅き日もあり
寝つつ読む本の重さに
 つかれたる
手を休めては、物を思へり
 入院中は、看護婦さんの対応が気になるものです。私も入院していた時、とてもぶっきらぼうな応対をする看護婦さんがいたことで気になったことがありました。漫画家の故手塚治虫さんのお父さんが私の入院していた同じ病院に、入院しておられたことがありました。社会的に有名な方のお父さんに対してであっても、看護婦さんが、子供にものをいいつけるような高飛車な態度で接していたことに驚かされたものです。手の脈をとりにこられる看護婦さんの手が温かく感じる日があったり、冷たく、堅く感じる日があったと啄木は言います。本を読んでもすぐ疲れ、本を支えていることさえ困難です。私も寝ていて本を楽に読むことができ、る書見機を購入したことがあります。ベッドに寝ていると、様々なことをじっと深く考えるようになります。
聖書の言葉
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。 エゼキ34:16a
病気の時(5)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
病みて四月・・・
そのときどきに変わりたる
くすりの味もなつかしきかな
病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな
病院に入院して四ヶ月にもなると投薬の種類も変わります。薬の味の移り変わりにも時の経過が感じられます。本来なら徐々に良くなっていくべきなのに、なかなか病状に改善が見られないと、その「時の経過」は、死に近づいていく「時の流れ」として不気味な不安感を与えるものです。普段なら、毎日一緒に過ごすことのできるはずの妻や子供は、病室にいません。妻に会いたい。子供を抱きしめたい。もしこのまま退院できなかったとしたら・・・そう考えると、妻や子供が見舞いに来てくれた時、一瞬たりとも無駄にはできません。本当の自分、真剣な自分で妻子に接したい。悔いの残らない会話や振る舞いをしたい。そう願うようになった啄木でした。私たちも毎日、今日が、許された最後の一日かもしれないという創造主への感謝と緊張感をもった生活をおくることができたら、幸いだと思います。
聖書の言葉
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。    ヤコブ4:14
病気の時(6)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
ドア推してひと足出れば、
病人の目にはてもなき
長廊下かな。
はづれまで一度ゆきたしと
 思ひゐし
かの病院の長廊下かな
 病気になり入院していると色々なことが気になります。ドアを押してひと足廊下に出てみた時、その廊下が妙に果てしなく続くように見えます。啄木は、エンドレスのように見える廊下が、いつ治るともわからない病気にダブって見えたようです。いつまで入院するのだろう。ひょっとしてずーっと治らないんじゃないだろうか。そう思うと心細くなるのです。廊下の一番端まで行って確かめて来たい。終わりがあるんだと。この苦しみは、エンドレスじゃあない。解放される時がきっとくるに違いない。そのことを確かめるように廊下の最後の所を見届けたいのです。
 私たちもこの地上の苦しみがいつ終わるのだろうと心細くなる時があります。いつまで、いつまで続くのですか?と創造主に問いを発したくなります。聖書は、必ず、苦しみから解放される時が来ることを預言しています。それは、主イエスさまが再臨される時です。その時が、救いの時なのです。
聖書の言葉
帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。 詩篇90:13
病気の時(7)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
ふくれたる腹を撫でつつ、
病院の寝台に、ひとり、
かなしみてあり
びっしょりと盗汗(ねあせ)出てゐる
あけがたの
まだ覚めやらぬ重きかなしみ。
 病の床にあるとき、不安が心をよぎります。啄木は、それを悲しみと表現しています。しかも、ひとりで悲しんでいる。なんと孤独な姿でしょう。我が身をあわれ、はかなむ心です。腹部が異常にふくれあがっています。夜中、寝汗をびっしょりとかき、いつ治るのかわからない闘病生活に疲れ果て、重い悲しみとさえ表現しています。まったく希望のない重苦しい歌です。そのような時こそ、私たちの生命をはじめて下さり、支えて下さっている創造主に目をとめるべきではないでしょうか。苦しみ、悲しみの向こうに、祝福を用意していて下さる復活の主の御言葉に耳を傾けるべきなのではないでしょうか。
聖書の言葉
主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。 哀歌3:31-33
病気の時(8)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
病みて四月(よつき)・・・
 その間にも、猶、目に見えて、
わが子の背丈のびしかなしみ
子を叱る あはれ、この心よ。
 熱高き日の癖とのみ
 妻よ、思ふな。
 病気になると怒りっぽくなるものです。なかなか治らないと思える病気の場合はなおさら、焦燥感から、短気になりやすいものです。そんなとき、自分よりも弱い者へ怒りの矛先が向けられやすいものです。啄木もイライラした心を、子供に爆発させ、そのあとで、後味の悪さを感じ、なんと情けない男かと自己反省をしています。そんな間も子供はスクスクと成長していきます。そして、それをじっと見つめている妻の存在があります。
聖書の言葉
愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。箴言29:11
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ヤコブ1:20
病気の時(8)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。今回から、啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
 十月四日ー午前二時、節子、大学病院にて男子分娩、真一と名づく、予の長男なり。生まれて虚弱、生くること僅かに二十四日にして、同月二十七日、夜、十二時すぐること数分にして死す。恰(あたか)も予、夜勤に当たり、帰る来れば、今、まさに絶息したるのみの所なりき、医師の注射も効無く、体温暁に残れり    「日記」より
 生後、すぐ、啄木の長男は死んでしまいます。虚弱な体質で生まれたからでしょうか?この長男の死は、啄木にとって耐え難い悲しみだったようです。啄木はこのときの心境をいくつかの詩にして残しています。できることなら、自分のいのちを長男のいのちと引き替えに差し出したいと思うほどいとおしい気持ちになっていたのではないでしょうか。それほど長男のいのちはいとおしいものです。聖書は、私たち罪人を救うために、創造主が支払われた犠牲愛こそが、まさに、父親が、ひとりご、長男のいのちを差し出すことに匹敵するほどの痛みであったのだと記されています。
聖書の言葉
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。    ヨハネ3:16
病気の時(9)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり
夜おそく
つとめ先よりかへり来て
今死にしてふ児を抱けるかな
 時節は実りの秋、十月です。真っ白な大根がまるまると太り、収穫を待つ。そんな充実感を感じさせる、「天高く、馬肥ゆる秋」に啄木の長男、真一くんは帰らぬ人となりました。季節はすべてが健康そうに見える収穫の秋。その秋に、石川啄木夫妻の愛の結晶、長男が死んでしまいます。しかも夜おそく、仕事場から帰った啄木を待っていたのは、まだ僅かに暖かさを残しているように感じられるのに、呼べど、さすれど、呼吸すらしない、真一君の亡骸でした。アダム以来、人間の罪の故に死がこの世に入ってきました。創造主の復活の恵みがもしなかったとしたら、人生は全てがむなしく、希望もなく、生まれなかった方がよいということになってしまうでしょう。そのことを伝道者の書はこう記しています。
聖書の言葉
私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。 伝道者の書4:2-3
病気の時(10)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
二三こゑ
いまはのきはに微かにも泣きしといふに
なみだ誘はる
死にし児の
胸に注射の針を刺す
医者の手もとにあつまる心
 夜おそく勤めから帰った啄木は、死んでしまった真一ちゃんと無言の対面をします。どのような死に方をしたのか、妻たちから根堀り葉堀りきっと聞いたことでしょう。亡くなる直前、真一ちゃんは小さな声で二三回泣いたそうです。聞けば聞くほど涙が流れます。もうすでに死んでしまった赤ちゃんなのに医者は胸の所に注射針を刺すのです。この注射で生き返るならばよいのに・・・と皆息をのんでのぞき込んでいます。でも真一ちゃんは、痛さを鳴き声で表現することもありませんでした。
 むなしい、むなしい。生きている者は、やがては死ぬ時が来る。そんなことは人から言われなくとも知っている。そう啄木は思うのでしたが、それにしても早い。早すぎる。真一ちゃんはまだ生まれたばかりなのです。しかし、私たちのいのちをはじめて下さった造り主なるお方は、全てのことをご存じだと聖書は告げています。私たちには不可解であったとしてもすべての営みには創造主の時がある、造り主の御心があるというのです。
聖書の言葉
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 伝道者の書3:1-2
病気の時(11)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな
底知れぬ謎に対(むか)ひてあるごとし
死児のひたいに
またも手をやる
 深まった秋の少しひんやりとしてきた空気を吸って、愛する長男、真一ちゃんは死んでしまいました。そのいまわのきわに、側にいてあげることが出来なかった啄木は、自分の父親としてのふがいなさに心騒ぐのでした。死んだ真一ちゃんの冷たくなった額に啄木は手を置いてみます。病気で熱っぽかったほうがどれほどよかったか・・・。真一ちゃんが死んだなどとはとても信じられません。何度も額に手を置いてみます。
 啄木の手のぬくもりで真一ちゃんの額が暖かくなり、ひょっとして真一ちゃんが息を吹き返してはくれないだろうか。そんな期待も込めてまたも真一ちゃんの額に啄木の手がのびるのでした。でも一度、いのちの息を創造主の御手にお返しした魂は、身動きもしません。なぜこんなことが起こるのだろうか?底知れぬ謎だと啄木は感じるのでした。
 しかし、遅かれ早かれ、私たちはみな、この厳粛な死の瞬間を迎えるのだということは、受け入れたくないことではあっても事実なのです。
聖書の言葉
もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。彼が千年の倍も生きても、・・しあわせな目に会わなければ、・・両者とも同じ所に行くのではないか。 伝道者の書 6:3-6
病気の時(12)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり
かなしみの強くいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ冷えてゆけども
 死んでも死体はすぐには冷たくなりません。啄木の長男真一ちゃんも啄木が夜おそく帰宅した時、すでに息を引き取ってはいましたが、その身体には、僅かなぬくもりが残っておりました。でも、そのぬくもりとて、時計の秒を刻む音が増えるに連れ徐々に失われていくのです。なんともやるせない悲しい気持ちです。
 真一ちゃんの身体が少しずつ冷えていくのに反比例して、悲しみの気持ちが増し加わるべきだ。そのはずなのに・・・、あまりのショックで、啄木は悲しんでも悲しんでも悲しみきれない、唖然とした気持ちです。こんな中途半端な悲しみで良いのか?こんな悲しみ方で良いのだろうか?そう思えば思うほどさびしい気持ちになるのです。
 聖書には、死を直視することの重要性について教えた箇所があります。仏教の経典と見まがうような言葉ですが、なんとお釈迦様が生まれる四百年も前にこのような教えはすでに聖書に書きしるされていたのです。
聖書の言葉
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。伝道者の書7:1-4


不満な時

                                 池田 豊
不満な時 (1)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

何事も金金とわらひ
すこし経て
またも俄(にわ)かに不平つのり来

誰か我を
思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ
何の心ぞ

私たちは、いろんなことに不平不満を抱きます。上記の啄木の歌にあるように、経済的に不足を覚える時、私たちは、不平不満を言いがちです。「世の中すべて金、金だよ、きみぃ!」そのような人生観を持っておられる方もおられるようです。
又、自分をじっと見つめる時に、自分で自分がなんとも好きになれない。自分につい不満を感じる。そんな人もおられるでしょう。そんなとき、誰か、自分を叱ってくれる人はいないだろうか。啄木の歌は、自分で自分をどうしようもできないそんなもどかしさに不満とやるせなさを表現しています。誰か、叱ってくれる人はいないだろうか。それも中途半端な叱り方ではなく、思う存分しかりとばしてくれる人がほしい。このような不満は贅沢な部類の不満なのかもしれません。「あまったれるな!」そう叱ってくれる人がひょっとして出てくるかもしれません。
聖書の言葉
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 マタイ4:4


不満な時 (2)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

「石川はふびんなやつだ。」
ときにこう自分で言ひて
かなしみてみる

かなしきは
飽くなき利己の一念を
持てあましたる男にありけり

 私たちは、自分の経済的な生活が苦しいと、つい愚痴をこぼしやすい者です。そしてそれが、生活費の不足だけでなく、自分の心にもふびんな部分があることを思う時、不満を覚えます。自分で自分に語りかけ、「お前はだめな奴だなぁ。かわいそうな奴だなぁ。」と自己憐憫に浸る時さえあります。自己憐憫は、感傷的ロマンティシズムといいますか、センチメンタリズムと言いますか、ともかく、セピア色の映像に白い筋がいっぱい雨降りのようについた無声映画に登場するヒーローかヒロイン、あるいは痩せこけた子犬に自分があたかもなったかのような錯覚を持たせるものです。秋のヴィオロンのため息にも似た自分に浸らせるのです。しかし、その正反対の姿、飽くなき富の追求と、自我の露呈にもがく姿も又、かなしいものです。真の満足と救いは創造主にあると聖書は言い切っています。
聖書の言葉 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。                    ハバクク3:17-18


不満な時 (3)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ

浅草の夜のにぎわひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心

 赤ちゃんが誕生する前は、お母さん方は、男の子でも女の子でもいい、健康で五体満足に生まれてくれさえしたら、普通の子でいいと思う方が多いそうです。でもいざ赤ちゃんが生まれて乳母車に乗せ道を歩いていると、通りすがりの人に声をかけられた時、「まあ、かわいい赤ちゃんですね?」といってほしいようです。もし「この子、普通の子ですね。」といわれでもしたら何か違和感をもつ方もおられるでしょう。私たちは常に自分を他人と比較して、人よりも、平均よりも優れたものと評価されたいという願望があるようです。非凡な才能を持っているかのように振る舞いたいのです。そうでないと不満を感じるのです。浅草のように年中お祭りが行われているかのような人混みに紛れ込んでも、寂しさは癒されずごまかすことはできません。しかし、他人と自分を比較するだけでは、真の満足は見いだせないのす。聖書はこう言っています。
聖書の言葉  そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。              マタイ6:31-33


不満な時 (4)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

この四、五年
空を仰ぐといふことが一度もなかりき。
かうもなるものか?

何がなしに
さびしくなれば出てあるく男となりて
三月(みつき)にもなれり

食べるものにもこと欠くように貧しい暮らし。自分のふがいなさにこころが満たされません。そんな啄木は、ふと気がついてみたら、ここ四、五年空を仰ぎ見ることさえ忘れていることに気がつくのでした。下向きの人生です。「犬も歩けば棒に当たるというが、貧乏な人も下を向いて歩けばお金を拾うなどと勝手なことをいうのは気休めじゃないか。」そう啄木は思ったに違いありません。こころの空虚さを忘れようと外に出て放浪をしてみます。気がつけば三ヶ月も野良犬のようにウロウロしている自分。あたかも飼い主のいない迷子の羊のようです。あなたにもそのように感じた時がありましたか?聖書は、はっきりと私たちの帰るべき魂のふるさとがあることを教えています。
聖書の言葉
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。詩篇23:1
見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。詩篇33:18-19


不満な時(5)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲しくなりたり

剽軽(ひょうきん)の性(さが)なりし
友の死に顔の 青き疲れが
今も目にあり

 あれこれと、いろいろこだわりを持つ人は、不満を抱きやすいものです。啄木の歌にあるような「それもよし、これもよし」という太っ腹な人は、たとえ体重が重いわけではなくとも、心が広く、寛容な人だと言って良いでしょう。太宰治は、自分を道化に生きている者として位置づけていました。その結果、人に好かれよう、受け入れられようとするあまり、神経を使い減らし、ストレスで疲れ果てたようです。
 啄木の友人も剽軽なピエロにも似たマン・プリーザーだったようですが、いざ死んでみると死に顔の青白さが、何とも言えぬゲッソリと疲れ果てた顔に見え、忘れることができなかったようです。道化もこだわればこだわるほど、かぶった笑い顔した仮面の裏には、苦痛で歪んだ悲壮な顔に冷や汗がだらだら流れているものです。そのような仮面を脱ぎ捨て、創造主に目をとめるなら、たましいに平安と満ち足りる喜びをいただくことができるのですよと聖書は教えています。
聖書の言葉
まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。          詩篇107:9


不満な時 (6)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

とかくして家を出づれば
日光のあたたかさあり
息ふかく吸ふ

 若き日の恋い心。密かに心ときめかせた異性に振り向いてもらえなかった経験を一度や二度はしたことがある、と告白するのは、おそらく、啄木一人ではきっとないでしょう。「デンマークのオランウータン」とあだ名され、いじめられたアンデルセンは、失恋に失恋を重ねた人だったようです。「わたしの生涯は、波瀾に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一遍の美しいメルヘンである。」と自伝の冒頭に書きしるしています。
 さまざまなことがあって、家を出てみる。自分の小さな世界から外に出てみると、今まで悩みで自分を見つめてばかりいたために、あまり気づかなかった陽のあたたかさにふと感動を覚えることもあるのです。深呼吸を一つ深くしてみるだけで感謝の念が沸いてくるのではないでしょうか。創造主なるお方の愛を感じることができるように私たち人間は造られているのです。
聖書の言葉
悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。イザヤ41:17


不満な時 (7)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩むものかも

友よさは
乞食の卑しさ厭(いと)ふなかれ
飢ゑたる時は我もしかりき

 貧しい暮らしに慣れてしまった啄木は、ある日、鏡屋の前で足を止めました。鏡に映っている一人の実にみすぼらしい青年の歩く姿に愕然としたからです。不憫なやつだなぁと声をかけてやりたくもなるほど貧しい姿です。なんとそれは、自分を映している姿なわけです。
 私たちも自分の魂の本当の姿を、創造主がお映しになる鏡の前で、じっと立ち止まり見入るなら、きっと、驚きを持って一歩も前に進めないような状態になるのではないでしょうか。私たちの真の姿を創造主の聖さを基準として映し出されたら、どんな人でも皆、みすぼらしい姿で、主の前に御恵みをただ請うより他にないと主は言われるのです。

聖書の言葉
貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。詩篇9:18
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。ヤコブ1:23
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。イザヤ64:6


不満な時 (8)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

男と生まれ男と交わり
負けてをり
かるがゆゑにや秋が身に沁む

何処やらに沢山の人があらそひて
クジ引くごとし
われも引きたし

 啄木も男として生まれ、相撲を取ったり、組み合ったり、時にはケンカをしたりしたようです。体力勝負です。もちろんずるがしこさや、頭の回転も必要です。でもいかんせん、貧乏な家庭です。栄養失調からでしょうか、体重が軽いのです。出ると負け、出ると負けです。聖書にも預言者エレミヤが男に生まれたことを嘆いている箇所があります。
 私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。私の父に、「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。・・・なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。エレミヤ20:14-18
 啄木は何とか貧乏から脱出したい。一攫千金をものにしたい。手っとりばやいのは、宝くじのようなクジや賭けごとでしょうか。沢山の人があらそうようにしてクジに群がっています。でもそのようにして得たお金は、羽が生えたようにあっという間に飛んでなくなります。決して「富んで」ではありません。「飛んで」です。
聖書の言葉
? 富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。 箴言23:4-25


不満な時 (9)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

大いなる彼の身体が
憎かりき
その前にゆきて物を言ふ時

腕くみて
このごろ思ふ
大いなる敵 目の前に踊り出でよと

 啄木は、自分の腕力や身体にあまり自身がなかったようです。いろいろ不満なことがあって直接その理不尽を相手に訴えようとする時、相手の身体が大きいため気落ちしたようです。言いたくても、言えないもどかしさ。自分の情けなさに一層不満が募ります。
 スーパーマンかウルトラマンのように腕組みをしてみると、小さな子供でもなんだか自分が強くなったような錯覚をもつものです。啄木も腕組みをして、「さあ、かかってこい!」と気合いを入れてみます。「どんな敵でもやっつけてやる!、さあ、出てこい!」
 詩人は、想像力の中で、自分がヒーローとなる場をもっているだけ幸いなのかもしれません。しかし所詮、空威張りにしかすぎません。りっぱでもない自分をりっぱでもあるかのように錯覚し、虚勢をはってみたところで、現実には、むなしさだけが残るのです。
聖書の言葉
だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。ガラテヤ6:3


不満な時 (10)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

かの声を最一度聴かば
すっきりと
胸やはれむと今朝も思へる

死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか

 知恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、如何にも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声! 二人の話をしたのは、たった二度だ。 一度は大竹校長のうちで、予が解職願をもって行った時。一度は谷地頭のあのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で・・・そうだ、予が『あこがれ』を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。
ああ!別れてからもう二十ケ月になる!    日記より

 啄木は、慕情の女性、橘智恵子にあいたくてもあえない不満な心を昇華させ、歌を詠みました。日記にその気持ちを正直に書きしるしました。聖書は、キリストの教会を花嫁にたとえ、キリストを花婿にたとえています。そして「主よ、はやくおいで下さい。お帰り下さい」と再会を待ち望み祈るようにと勧めています。
 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 黙示録22:17


腹の立つとき

腹の立つとき(1)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



いらだてる心よ汝はかなしかり
いざいざ
すこしあくびなどせむ     



へつらひを聞けば
腹立つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき



私たちは、いろいろなことが原因で腹を立てます。人からお世辞のようなほめ言葉を語られた時は、一瞬嬉しい気持ちもしますが、よく考えてみると、その人の裏が見えたりして腹立たしくなることもあります。自分のことは自分がよく知っている。そう考えてみると他人のほめ言葉はあてはまらない。そこを見抜いているくせに他人は、おべっかを使う。何か魂胆があるな。それにしても自分のふがいなさにも腹が立ちます。イライラします。すこしアクビをするぐらいの余裕があってもよいではないか。そう啄木は詠うのです。



怒りは、とんでもない結末にいたる危険性を秘めています。競売にかけた自宅が売れ、いざ強制的に立ち退きを命じられた時、日本刀で斬りつけた新潟県新井市の社長さんのことが報道されていました。



怒りについての聖書のことば
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。エペソ4:26-27



腹の立つとき(2)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



目の前の菓子皿などを
かりかりと噛みてみたくなりぬ
もどかしきかな



どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな



自分の思い通りにものごとが運ばない状況の中、怒りと焦燥で菓子皿にさえ噛みつきたくなる心境。わかるような気もします。混沌としたそのやるせない心は、すっきりしない、曇り空にも似た歯切れの悪さです。しかし、だからといって、お皿を噛むだけでは修まらずに、怒りが憎しみへと発展し、人を殺したくなるとは尋常ではありません。しかし、イエス・キリストの十字架を心に受け入れた人は、そのような怒りに心を支配されずともよいのです。新しい人に造り変えられたのだからです。



ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。コロサイ3:5-8



腹の立つとき(3)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



あらそひて
いたく憎みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来ぬ



敵として憎みし友と
やや長く手をば握りき
わかれといふに



憎み、争った友も、時がたてば懐かしい思い出に変わることもあります。自分に害を与えた奴は赦せない。復讐だ!と個人的な怒りをおぼえるのは当然のような気がします。しかし、創造主の怒りにゆだねる道があることを聖書は教えています。時が過ぎ、主がお働きくださったことを見る時、私たちは、個人的な恨みから報復をしなかったことを喜ぶ、そのような日がきっと来るに違いありません。



愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。ローマ12:19-21



腹の立つとき(4)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



よく叱る師ありき
髯の似たるより山羊と名づけて
口真似もしき



よく怒る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ



昔は、学校の先生はよく怒りを爆発させたものです。私が小学校のときの先生は、怒ってチョークをピッと投げたものです。中学校の時のW先生は、金槌の柄の部分で頭をコキーンと殴ったものです。恐ろしかった。地震・雷・火事・親父というように父親も怒りっぽい短気な人が多かったようです。でも怒りは、自分でコントロールできなくなるとたいへんな結果をもたらすことがあります。聖書でも警告されています。



乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。箴言30:33
愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ヤコブ1:19-20



腹の立つとき(5)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ



やまひある獣のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし



友人のことを伝え聞くたびに、自己憐憫におちいります。自分のふがいなさに怒りがたまります。そんな啄木の心を癒したのは、美しい花であり、柔らかなことばを語る妻の存在でした。激しい言葉は傷ついた心には耐え難い苦痛です。でも懐かしさに満ちたふるさとのことや、訛り言葉を聞くと不思議とのんびり、のどかな、広い心になるから不思議です。病んでいる獣のように「荒れ果てたこころ」さえやんわりとつつみこみ、やすらぎをあたえてくれます。そんな啄木の心境をもズバリ言い表している聖書の御言葉があります。



柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。箴言15:1
激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。箴言15:18



腹の立つとき(6)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



酒のめば
刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき
村を逐はれき



死にしかとこのごろ聞きぬ                                 
恋がたき
才あまりある男なりしが



人々から尊敬され、以前は聖職とも呼ばれた学校の教師。その教師の中にも自らの心を治めることが容易にできず、怒りを爆発させる人がおります。特に酒に酔い、理性を失い家族に暴力をふるう教師さえいます。最近は、異性に対して自らの心を律することができず、女生徒を無理矢理車に乗せ、逃げだそうとしたその女の子が車から落ち、後続の車にひかれ死亡した事件がありました。怒りや、異性に対する恋情など、自分の心を治めるのは至難の業です。恋がたきへの復讐心をいだいたとしても啄木のように、いざその相手が死んだと聞かされると、憎しみの心は変化し、彼の才能が開花する前に散ってしまったことを惜しむようにさえなることがあるのです。



怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。 箴言16:32
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。 ヘブル10:30



腹の立つとき(7)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



ゆゑもなく憎みし友と
いつしかに親しくなりて
秋の暮れゆく



猫を飼はば、
その猫がまた争ひの種となるらむ、
かなしき我が家



友と仲が良くなくなる。何らかの原因で不平不満が募ったり、怒りが生じて互いに距離を置くようになるものです。しかし、時がたつと「なんと些細なことから互いを避けているのか」と思うような時がくることも多いようです。怒りを感じた時にすぐにもそれを表現することは、人間関係を悪化させます。誤解が誤解を呼びやすくなるものです。
たわいものないことが、互いの怒りを引き起こし、人間関係に不信感を募らせることが多々あります。その一例としてペットの猫や犬などの動物を飼うことをあげることができると思います。本来、家庭を和やかな雰囲気にするに一役買ってくれそうなペット動物のはずですが、現実には、飼われている猫にとってはニャンとも迷惑なチャンチャンバラバラの原因となることがあるようです。知恵に立ち返り、怒りを捨てることによって、悪の道に一歩足を踏み入れようとしていた歩みを踏みとどまらせることができます。



愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。箴言12:16
知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気な者は愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。箴言14:16-17
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。詩篇37:8



腹の立つとき(8)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



神様と議論して泣きし・・・
あの夢よ!
四日ばかりも前の朝なりし



はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る



今の現状に満足できず、過去を懐古する。昔の方が今よりはるかに良かったそんな気がする。働いても働いても、いっこうに生活が楽にならない。いやもっともっと悪くなっていくような不安が心をよぎる・・・。
バブルがはじけた。構造改革だ。金融機関の・・・いや、郵政三事業の・・・、消費税が・・・、そんなことを言っている内にアメリカで衝撃的なテロ事件の発生・・・
世界的規模の大きな問題に目を奪われ、自分個人の生活の身近な現実にもやはり苦しみや、いらだち、絶望感の背景に個人的な怒りがもたらす危険性があることを見失うようなことがあってはならないと思います。
自分の今の苦しみは、誰のせいだ?あいつじゃないか。こいつが悪いんだ。そう考え、つきつめていくと、「そうだ、神が悪いんだ。こんな世界を造った神が悪いんだ。」そう議論したくなるのは啄木だけではないでしょう。しかし、そのような他者を責める不遜な態度こそが、最初に罪を犯したアダムとイブが呈した罪人の典型的ふるまいであることを私たちは忘れてはなりません。



軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。 伝道者の書7:9-10



腹の立つとき(9)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと



わが髭(ひげ)の
下向く癖がいきどほろし
このごろ憎き男に似たれば



啄木は、感想「病室より」という作品の中で、以下のような「破壊!」という文章を載せています。
破壊! 自分の周囲のいっさいの因襲と習慣との破壊! 私がこれを企ててからもう何年になるだろう。全く何もかも破壊して、自分自身の新しい生活を始めよう!この決心を私はもう何度繰り返しただらうか。しかしもがけばもがくほど、あがけばあがくほど、私の足は次第々々に深く泥の中に入ったのだった。・・・
自分を見下げる奴らがいる。赦せない。ふと鏡を見つめそこにある自分の顔。そのあご髭が気になる。何もかもいやだ!いやだ!神に祈る祈りさえ呪いのような祈りになる。
私たちにもそのような気持ちになる時があるでしょうか?そんなとき、聖書の言葉が私たちの行動にブレーキをかけてくれます。



人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。箴言19:11
怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。箴言29:22



腹の立つとき(10)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに腹を立てた、多感な青年の正直な思いが綴られています。



茶まで断ちて、
わが平復を祈りたまふ
母の今日また何か怒れる



薬のむことを忘れて、
ひさしぶりに、
母に叱られしをうれしと思へる



母親は、皆、子どもの無事を常に祈り、願っています。あるときは、好きな食べ物や、飲み物をがまんしてまで、願かけをしてくれる母。それほどまでに真剣に子どものことを心配してくれるのが啄木の母だったようです。でもそんな優しい母が、今日も声を荒げて怒っている。「うるさいな?。」やさしい母には、似合わないヒステリックな怒鳴り声。矛盾を感じます。うとおしく思える母の忠告や、小言。
ところが、その母が怒らなくなった。そんなある日、ほんとうに久しぶりに母に叱られた。「またお薬飲むの忘れちゃったの?だめね?。」と母に注意される。これは、正直、ありがたいことですね。
母親は、こどものことが気がかりでならないものです。子どもが何歳になっても、母親にとってはかわいい我が子、つい注意したくなります。啄木も久しぶりの母の小言が妙に嬉しかったようです。
ところが父親が子どもをしかりつけたりする時、一方的に決めつけるように叱る場合があります。そんな時、子どもの方は素直に聞くことができません。むしろ反発し、子どもの方が怒り心頭、爆発します。その結果、そのような子どもは、劣等感を抱きやすく、自分に自信がもてない子どもになりやすいのです。親が子どもを叱る時、とても知恵が必要です。啄木のように「うれしと思へる」と子どもが心底言ってくれるような叱り方ができたなら幸いです。



父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。コロサイ3:21



孤独なとき

孤独なとき(1)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の思いが綴られているように思います。

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

 はかない自分の人生を見つめると煙のように消えていく運命にあることを寂しくはかなく思わずにはおれなかったのでしょう。
 でも主イエスキリストは、私たちを孤独のまま見捨てられるお方ではないことを宣言しておられます。

 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。 ?ヨハネ14:18-19


孤独なとき(2)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

怒るとき 
かならずひとつ鉢を割り 
九百九十九割りて死なまし

どうなりと勝手になれといふごとき
わがこのごろを
ひとり恐るる

 若い頃は、純粋であるが故に怒るものです。自分にも腹が立って赦せなくなるときがあります。そして、やけっぱちになるのです。そんな自分をみると恐ろしくなり、孤独で不安なのです。自分で自分をコントロールできない。ブレーキが利かない。ハンドルが空回りする自動車に乗っている。アクセルが踏み込まれスピードだけが出ている。そんな恐怖です。しかし、聖書には次のような慰めに満ちた、主イエスキリストのお言葉があります。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 ヨハネ14:1


孤独なとき(3)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

さりげなき 高き笑ひが
酒とともに
我が胸に沁みにけらしな

いくたびか死なむとしては
死なざりし
わが来し方のをかしく悲し

 若い頃は、純粋であるが故に傷つきやすくもあるものです。友達と馬鹿話をし、はめを外し、どんちゃん騒ぎをしていてもです。表情は笑っているのに心の内側では「ワ?ッ」と叫びたくなるような痛みをかかえている人もあるようです。現実から逃避しようと自殺を企てみたものの、どうしても死にきれず、なお一層の孤独感に打ちのめされる人もおられます。しかし、聖書には次のような慰めに満ちた、創造主のお言葉があります。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 詩編46:1-2


孤独なとき(4)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

人という 人のこころに
一人づつ 囚人がゐて
うめく かなしさ

泣くがごと 首ふるはせて
手の相を 見せよといひし
易者もありき

 私たち一人一人の「こころ」という檻の中には人が一人窮屈そうに入れられています。自由を求めると吼えていながら、自分勝手にふるまえばふるまうほどがんじがらめになり、囚人のような自分の姿に気がつかされます。太宰治は「人間失格」という言葉で、そのうめきを、その哀しみを表現し、著しました。
 客の未来を人相から占い、不吉な予感を感じて、ぜひ手相を見せなさいと懇願するかのように客に語りかけている易者がいたのでしょうか。もし善意でそうしてくれたのだとしたら、料金は無料にしてくれてもよさそうなものです。それとも未来を占う易者たちでさえも、客が思うように来てくれないと、易者自らが、自分の将来に不安を感じて、泣きそうな表情で、首をふるわせながら、「いざ、手相拝見」と客になってくれそうな青年に声をかけているのでしょうか・・・。
 でも、天地宇宙、万物の創造主を信頼する時、あらゆる思い煩いは不必要なものとなることを聖書は教えています。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。1ペテロ5:7


孤独なとき(5)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ

 ひとり砂浜にたたずみ、何を悩んでいるのでしょうか?音たてることもなく、静かに、ひとつぶ、ひとつぶ涙が砂の上に落ちていきます。蟹があたかも慰めてくれるかのようにそばにやって来ました。苦しみや、悩み、こころの痛みを友人に話せばいくらかは軽くなるかと思って、つらい気持ちを打ち明けてみます。思いもよらない、友人の冷ややかな、教科書を読むかのごとき忠告;アドバイス。たまらなく惨めに感じたことがあります。これはきっと啄木だけの経験ではないようです。でも聖書には、キリストの変わりない愛と慰め、励ましが約束されているのです。

 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 ローマ8:35-37


孤独なとき(6)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり

ふと深き怖れを覚え
ぢっとして
やがて静かに臍(ほぞ)をまさぐる

 砂浜に出て、悩みと孤独に打ちつぶされそうになった自分を慰め、なんとか立ち上がらせようと砂に指を走らす。啄木はいったい大という字をなぜ書いたのでしょうか。しかも百回も。自分の心があまりに小さい、狭い。そんな小心を鼓舞する意味で、大きな広い心を持てと自分に言い聞かせるために「大」という文字を書いたのでしょうか。
 怖れに囲まれ、何もすることが出来ない。フリーズ状態になった啄木は、しばらくした後、静かに自分を落ち着かせようとしてか、おなかの周り、おへそのまわりをなぜまわしているのです。

 私たちも孤独でたまらなくなり、逃避することが一番楽だと思ってしまう誘惑におそわれることがあります。怖れで体がカチンカチンになり身動き一つできないような状態になることもあるでしょう。でも、聖書に次のような創造主からの慰めに満ちた御言葉があることを知っているならば、どれほど心強いことでしょう。

 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。 申命記31:6 


孤独なとき(7)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

しつとりと
なみだを吸へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな

 初恋に破れ、海岸に出て、砂山の砂の上に身を投げ出す。腹這いになって、砂を握りしめる。この悲しみ、自らのふがいなさにどこへぶつけたらよいかもわからない憤りを感じる。誰もわかってくれない。そう思う時の孤独感は虫歯でアイスキャンディーをガブリと噛むような痛み、ダメージを与えるものです。涙も流れます。手で握った砂の玉の上に落ちた涙が吸い込まれていきます。誰かこの悩み苦しみをわかってくれる人はいないのだろうか?

 聖書は、天地を創造し、私たちに命を与え、知、情、意をあらかじめ備えてくださった創造主こそが、私たちの悩みをともに担い、私たちの苦しみを同じように苦しんでくださる愛のお方なのだと教えています。

 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 ? ? イザヤ63:9


孤独なとき(8)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

死ね死ねと己を怒り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

 心ならずも人に叱責され、頭をさげさせられた経験。この屈辱的な思いに何とか仕返しをしてやりたい。といっても腕力には自信がない。結局のところ祈るしかない。啄木はずいぶん大胆な祈りを致します。屈辱を与えた人々の死を求める祈りでした。

 しかしながら、自分で自分が嫌になる。おまえのような卑怯者は死ね、死んでしまえと自己嫌悪に陥る。そんな啄木のような気持ちになったご経験はありますか?聖書は、そのような弱さを抱えている私たちに対して、以下のような慰めに満ちた創造主の語りかけを伝えてくれます。

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。 ?イザヤ30:19


孤独なとき(9)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日もさまよひて来ぬ

遠くより笛の音きこゆ
うなだれてある故やらむ
なみだ流るる

 自分の心を見つめると、やるせなさにうなだれてしまう。おもわず目からあついものが流れる。遠くの方からもの悲しく、ほそい笛の音が聞こえてきます。さみしい。さみしい。むしょうにさみしい。そのような気持ちになるのは啄木だけではないでしょう。
これではいけない。こんな心ではだめになる。あたらしい心が自分にはひつようだ。そうは思っても、どこにいったらその新しい心が見つかるのでしょう。聖書は、イエスキリストのうちにこそ新しい人生があると宣言しています。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。詩篇51:10
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 ?2コリント5:17


孤独なとき(10)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

路傍に犬ながながとアクビしぬ
われも真似しぬ
うらやましさに

高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終わるすべなきか

 2001年の夏季休暇、南紀白浜に家族旅行で行きました。その一年前、「死にたい!」という内容の電話を教会にかけてこられた女性が、主によって立ち直られ、ご主人とペンションを始められたというので、一泊宿をとりました。白浜と真っ青な海、三段壁の崖は、自殺で有名なスポット。安全のための手すりすらない崖に私たちも立ち、サファイア色の吸い込まれるような海を見ました。きれいな海で死ねる。そう思って自殺する方々は飛び込まれるようです。

 でも、離れた所に立ち別の角度からこの飛び降り自殺の崖を見ると、身を投げた方は、岩場に体を打ち付けながら墜ちていき、絶対、海には届かないことを確認しました。無惨な姿で岩に打ち付けられた傷だらけの死体をさらけだすだけの最後。美しくも綺麗でもありません。
 創造主は、私たちの悩み、孤独感を知っておられ、次のような慰めの招きの言葉をかけてくださいます。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。 ?詩篇55:22