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真実一筋に生きることの難しさ

真実一筋に生きることの難しさ 


                           


真実一路


山本有三の書いた小説に「真実一路」という作品があります。


しず子は、弟の義夫と父義平との3人暮らしでした。18才になったしず子は、大越という男性とお見合いすることになり、その報告をするために、弟の義夫を連れて、母むつ子の兄、伯父である河村弥八のところを訪れます。そこで、母、むつ子に会い、むつ子がなぜ自分たちと一緒に生活をしていないのか、衝撃の真実について聞かされます。
しず子を産んだ母、むつ子は、実は不倫関係を持った愛人との間に、しず子を妊娠したのでした。そのことを知りながら、守川義平は、むつ子の父に恩義を感じて、他人の子を宿しているむつ子と結婚することを決意したのでした。むつ子は、以前の愛人との間に出来たしず子を腹に抱えたまま、義平の許に嫁いだ女性でした。しず子は、母の愛人の子だったのです。ところがむつ子の愛人が、急死してしまいます。義平はしず子を自分の子として育ててきました。世間体を飾るだけのこの結婚は、義平にとってもむつ子にとっても不幸でした。
間もなくむつ子は、義平の誠実さに耐えられなくなり、家出してしまいます。そして浅草でカフェーを経営します。彼女は後に知り合った隅田恭輔に恋をし、隅田の愛人となります。そしてむつ子は隅田の螢光燈研究を助けていました。
お見合いをしてみたものの、しず子の生い立ちが明らかになったことが理由で、大越家から破談され、見合いはなかったこととされてしまいました。しず子は、心に深い傷を受けます。そのやるせない気持ちを、彼女は、むつ子の弟で、絵描きをしていた叔父、河村素香にぶつけ、訴えたのでした。
そうしたら、河村はこうしず子に言います。「姉さんも気の毒な人だよ。みんなが言うように、ふしだらな女じゃない。自分の本当の生き方をしたいともがいていたんだ。」素香はそう言って「真実一路の旅なれど」と言う白秋の詩を呟くのです。
ところが隅田が生活苦と失敗から自殺してしまうのです。頼りにしていた隅田を失ってしまった、むつ子も後を追うより仕方なかったように作者は描きます。



子供を産むことができても、母親になれない女--これがむつ子の「真実一路の人生」だったと作者、山本有三は訴えたかったようです。
母を失くして、再び寂しい思いをしていた義夫でしたが、運動会の選手に選ばれました。懸命に力走する義夫の耳に、死んだむつ子の声が聞えて来ました。亡き母の声援に義夫は、テープ目指してまっしぐらに走るシーンで小説は終わります。


結婚問題で悩んでいる娘、しず子宛に、むつ子は次のような言葉を遺書として残して死んでいきました。
「女が母親になるのは、何でもないことです。そんなことは、どんな女にだってできることです。でも、母親であることは、なかなかできることではありません。この事はよくよく思案して下さい。」
もちろん、子宝にめぐまれず、悩んでおられる方々もおられます。しかし、山本有三は、子供を宿し、出産することよりも、産んだ子供に対して、母親として十分な責任を果たすことのほうがもっと大変だと言いたかったのだと思います。渡辺和子さんは、この子供を産むことに伴う子育ての責任と、他の事柄とを対比し、このようにおっしゃいます。
車を運転しようと思えば、教習所に通い、試験をパスして免許証を手に入れなければならない。教師になるためにも、教員課程を特別に履修し、現場で、一定期間実習した後に、初めて免許状が与えられる。ところが、母親になるのは、むつ子がいうように、何の免許状をも必要としない。そして、そのようにしてなった父親、母親に委ねられるのは、車ならぬ生身の人間であり、複雑な心理を持ち、可塑性(かそせい)(柔らかい状態のプラスチックのような樹脂に力を加えた後にその力を抜いても、できた歪みがそのまま残ることをいう、型にはまること)に富み、操縦(そうじゆう)如何(いかん)によっては、暴走しかねない人格である。また、人格形成に最も重要な乳幼児期を、教師たちとの接触に先立って任せられているのも、親たちなのである。それなのに、くどいようだが、親になるための資格試験というものはない。


「女が母親になるのは、なんでもないことです。」とむつ子は遺書に書きましたが、男はそれ以上かも知れません。男が父親になるのは、本人が、その心構えができていない時である場合に起こる場合も多いのではないでしょうか。そのために悲劇が生まれます。「旅の恥はかきすて」「据え膳食わぬは男の恥」というような表現が日本語にはあります。会社ぐるみの集団買春ツアーで、外国まで出かけ、欲情丸出しの日本人男性が、知らない間に父親になっていたということもあるようです。裁判に持ち込まれ、DNA鑑定では、実子である確立は非常に低い状況だったようですが、愛人だったとされる女性から、身ごもった子供の父親はあなただとすごまれ、隠し子の養育費という名目で金銭をしつこく要求されることに耐えられなくなって、自殺未遂をした、有名人歌手がおられました。「有楽町で逢いましょう」、「君恋し」を始め、多数のヒット曲で知られる、低音の魅力、日本のムード歌謡の第一人者だったフランク永井さんです。この方も、父親になるのは、ふとした気のゆるみから生じることでもある可能性を否定できず、父親であり続ける責任の重さに悩んだ男性の一人だと言っても過言ではないでしょう。


 


学校の先生と親、どちらが影響力あるか


学校の先生と、親、いったいどちらの影響のほうが、子供に大きく作用するでしょうか。昭和26年から46年に至るまで、天皇家の東宮侍従として当時の皇太子殿下(現在の平成天皇)、浩宮さま、礼宮さまにお仕えした、浜尾実(みのる)さんは、幼稚園から中学、高校生までの子供たちを持っているお母さん方対象に、「あなたの人間形成に、一番影響のあった人を一人だけあげてください」という質問をし、それに対してどう答えたかというアンケート調査をなさって、結果をこう発表しておられます。
  1. 母親 49%


  2. 父親 31%  


 3. 職場の人 6% 


  4. 学校の先生 5%


  5. 祖父母 4%


  6. その他 1%


この結果をみると、母親となった女性が一番影響を受けたとおっしゃるのは、やはり自分の母だということです。母と父を合計すると何と、80%という数字になるのです。親の責任は、とても大きいものだと言ってよいでしょう。すなわち、影響には、良い影響がある反面、悪い影響もあるからです。


 


親業と親の道


以前、こんなことを聞いたことがあります。「あんな父親、赦せねぃ」「あんな母親、顔も見たくない」とそう親に悪態をついていた子供が、いざ自分が親になる年齢になった時、その自分が大嫌いだと言っていた父や、母と同じようなことをしているというのです。このことは、良い影響だけなく、悪い影響も私たちは、一緒に生活をしてきた、父、母から受けているのだということを如実に物語っています。
最近、「親業」という新しい言葉ができ、その講習会が各所で開かれている現実をみつめて、渡辺和子さんは、こうおっしゃいます。
親であることは決して一つの「職業」ではない。強いて言えば、一つの「道」である。技術ではなく、心であり、金を払い、講習会を受けて、短期間に習得できるものではなく、日々、おのれと戦い、自らが成長して行くことによってのみ、親であり得るのだ。
子供にとやかく言う前に、親がまず、自分の身をただすことから始めなければ、親たる資格がないということかもしれません。自分が真正面切って子供に対し挑戦的な言葉をぶつけている親は、その言葉が、己の実生活の中で模範となっているかどうかをまず、自らの胸に手をおき、省みてみる必要があります。
「友だちと仲良くしなさい」「兄弟げんかは止めなさい」と子供に言っておきながら、自分は他人の悪口を陰で言いたい放題言い、配偶者である夫や、妻と壮絶な争いを繰り返す姿を子供たちの目の前で披露している親もいるのです。子供に「嘘をついてはいけません」といいながら、自分の生活は、「少しぐらいいいじゃない」、「みんながやっていることだから」と不正直、不誠実な部分を露呈してはいないでしょうか。「勉強しなさい」と子供を叱りつけておきながら、自分はくだらないテレビ番組や、雑誌にうつつを抜かしているという親はいませんか。子供たちは、そんな親の口からはき出される言葉よりも、親のふるまい、現実の生活態度を冷ややかな目で観察しているのです。
親は自分が正しいと思っているので、子供を叱ったり、注意したり、命令したりするわけです。真実を貫いていると思っているのです。少なくとも子供を育てることに真剣に、真実を追究していると自負するからです。しかし、自らにその真実の要求をつきつけることは、あまりしません。結婚相手である夫や、妻の方から、追求がくると、のらりくらりと逃げたり、しらを切って、知らぬ振りをすることも多いのです。配偶者からの攻撃や追求に、鼻息荒く反撃に出るという人もいます。互いにチャンチャンバラバラ、戦闘状態に入る夫婦もあります。お互いに自分こそ正しいと義憤に駆り立てられていますから、静まるのには相当時間がかかります。「真実一筋に生きる」という主張の入った荷物には、取扱注意のラベルが貼ってあった方がよいのかもしれません。


 


正しすぎてはならない


聖書にも次のような言葉が記されています。あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。 伝道7:16
イエスさまがこの地上におられた頃、自他共に認めるいわゆる、「正しい人たち」がいました。厳格なルールにのっとり、誰よりも正しく、誠実に生きている人々でした。ただ彼らにも問題がありました。外側では立派に振る舞っているのですが、心の奥底には、火山のマグマのような怒りや、妬み、復讐心、好色な思い、自分中心の醜い自己主張が渦巻いていたのです。しかし、そのそぶりも見せず、眉を上につり上げ、目線を下にして他の人を見下げ、裁いていました。そして、必要以上のお節介をしていたのです。彼らを見て、イエスさまは、辛辣な言葉でこう言われました。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。 マタイ23:27-28


また、イエスさまが山の上で教えられた有名な、山上の垂訓の中に次の教えがあります。さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。 マタイ7:1-5


 


どれほど自分が正しくとも


クリスマスにちなむオラトリオ「誓いの星」を作曲したのは、日本人の作曲家です。彼は、三木露風の詞、「赤とんぼ」にも日本人の心にしみる哀愁あるメロディーを付けた作曲家です。そうです、1886年に東京で生まれた山田耕筰です。彼は、日本基督教団巣鴨教会で1900年(明治33年)、田村という牧師より洗礼を授かっています。しかしながら、後にどのような理由かは不明ですが、除名されています。関西学院大学を経て、東京音楽校に学び、ドイツのベルリンに留学しました。そこで小山内という人から、「芸術家になるのなら、デカダンスを体験せよ!」と勧められ、山田耕筰は放蕩三昧の生活をおくります。キリスト教を破棄し、背教の記念にと「堕たる天女」という過激な歌劇曲を作曲します。生涯に約1600曲の作品を発表しました。しかし、晩年、車椅子の生活となり、キリスト教信仰に立ち返ったかと思われると言われています。(春秋社発行 笠原芳光著 はじめに言葉あり:110人の断章 P82-83)
この山田耕筰がまだ関西学院在学中のエピソードです。神戸の御影に営む酒造家の息子が持ってくる酒粕を、耕筰らは、毎朝、教室のストーブの上に乗せ焼いて食べておりました。ある日、学院長の吉岡美国(みくに)にそれを見られ、叱られてしまいます。山田耕筰は、今後、一切酒の香りがするものは口にしないと誓いました。しばらくして、食堂のメニューの一つとして粕汁が出ました。そのとき、「吉岡院長に誓いを立てた手前、その誓いは破れない」と耕筰は粕汁を食べませんでした。ところが、酒粕を焼いていた山田耕筰をこっぴどく叱った、吉岡院長は、粕汁を食べていたのでした。それで、吉岡院長は、自分の矛盾に気づき、山田耕筰に謝ったそうです。その時の感想を山田耕筰は自伝「はるかなり青春のしらべ」の中でこう記しました。
私は、どれほど自分が正しくとも、人に復讐をしてはならぬこと、裁きは人間同士がするものではなく、神の手によって、正しく行われることを悟った。 山田耕筰
私たちは、自分が正しい、相手が間違っていると思う時に、裁きをくだし、相手を攻撃しやすいものです。君のここが間違っていると人差し指で相手を指した時、確かに指の一本は相手を指し示しています。けれども親指以外の他の三本の指は、自分の方を指しているのです。


 


自分で真実だと思っていても


冒頭にあげた真実一路のむつ子が悩んでいた姿を見て、弟の河村素香はこう言いました。「姉さんも気の毒な人だよ。みんなが言うように、ふしだらな女じゃない。自分の本当の生き方をしたいともがいていたんだ。」むつ子は自分の心の赴くまま、自分が感じるまま正直に生きようとした、それが真実一路の生き方だとでも言っているように聞こえます。しかし、それが本当に真実一筋に生きる生き方なのでしょうか。私には疑問に思えるのです。自分が正しい、これでいいんだと思える生き方が真実だと本当に言えるでしょうか。間違っていたと後でわかったら、どうするのでしょう。
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 箴言14:12


 


真理とは何か


私たちが、これこそが真理である、真実だと強く思ってみても、必ずしもそうではないという場合があるのです。
ピラトという人は、イエスさまを前にして、「真理とは何か」と質問をしたことがあります。そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。 ヨハネ18:37-38
聖書は、イエス・キリストこそが真理であると証言しています。私たちは自分自身の内に、純粋な真理がないことを認め、遜り、この真理であるイエス・キリストを信じ、お受け入れすることによってのみ、私たちは、真に真実一筋に生きる生き方へと導かれていくのです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 ヨハネ14:6



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子供が健全に育つ秘訣

子供が健全に育つ秘訣


幼児・子供祝福礼拝説教


[導入]


今日は、幼児・子供祝福礼拝です。子供が健全に育つ秘訣について、聖書の御言葉から学んでまいりましょう。まず、「子供たちよ」と聖書が命令している子供たちとはどのようなものかについて、考察します。次に子供たちが命令されていることの内容、つまり「子どもたちよ 主にあって両親に従いなさい」ということについて考えましょう。そして最後に、親が子供を叱る時に注意しなければならない、親に対する創造主のご命令について考えます。それは、「子供たちを怒らせてはならない」というご命令です。



  I. 子供たちよギリシャ語には、「子供」を表現する語が三つあります。


パイドン、フィオスそしてテクノンンです。エペソ6章で用いられているのは、テクノンという語ですが、子供の子育てに関連して、これら三つの語は重要ですので、以下簡単に説明いたします。


A. パイドンという言葉が意味する子パイドンという語は、マタイ18章にでてきます。そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。  マタイ18:1-5パイドンとは、ヨチヨチ歩きの乳児のことです。


B. フィオスという言葉が意味する子


1. ユダヤ人は、自分の子供が13歳になったときに自分の相続人として養子縁組をし息子とするこれはバーミツバという儀式で成人式のことです。ガラテヤ書の御言葉。


ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子ども(ネパイオス:嬰児【0?3歳】、infant【0歳児、まだ歩けない赤ん坊、赤子、乳児、幼児】)の時は、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった(ネパイオイ:嬰児の)時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子(フィオス:息子)を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子(フィオス:息子)としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子(フィオス:息子)であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、はや奴隷ではなく、子(フィオス:息子)です。子(フィオス:息子)ならば、神による相続人です。 ガラテヤ4:1-7


2. キリストにあってクリスチャンは相続人として養子縁組していただく私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子(フィオセチアン:養子縁組で息子)にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。エペソ1:3-7


C. テクノンという言葉が意味する子


1. 中性名詞で"生まれた者"という言葉 13歳以下の未成年である子供、小児、児童という意味での子


2. 日本の公共料金、バス、電車、銭湯も二十歳以上を成人料金としていない


3. 0歳から3歳以下、乳嬰児は無料となっている場合が多い


4. 一般的に小学校に入る頃から小学校六年生まで、つまり、中学校に上がるまでは子供料金、バスなど幼稚園の子供は二人いれば子供ひとり分徴収される(*JRは0歳?6歳まで無料 *阪急電車は1歳?12歳が有料))


5. ここで両親に従うよう命じられているのは、子供料金を支払う年齢の子供3、4歳から12歳ぐらいまでがテクノンD. 子供たちも大人と一緒に礼拝に出席し、御言葉を理解する訓練を受けていた「子供たちよ」と呼びかけられています。このエペソ人への手紙やコロサイ人への手紙は、ラオデキヤ地域の教会の礼拝でも、読み上げられました



 II. 子どもたちよ 主にあって両親に従いなさい


A. 主にあって従え


1. 子供たちは幼い時、パイドンの時から福音を聞き、信仰によって救われていた


2. 主に従うということの大切さ、主を畏れることについても教えられていた主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。 箴言8:13主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。  箴言9:10恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。 箴言16:6


B. 両親に従いなさい


1. 母親に従うのは比較的子供たちにとっては自然


2. 母親が父親に従う姿を見て、子供たちは父を尊敬し、父に従うことを学ぶ


3. 父親不在が現代日本の陰湿ないじめや少年犯罪の低年齢化に関係している


4. 父親をないがしろにする母が子供をマザコンにしてしまう(斉藤茂太著「父と子はどうわかり合えるか」P.29)父親が、子供に正しいこと悪いことを教育しようとしている時に、母親がしゃしゃり出て、「お父さんの言うことは間違いよ」といったら、これはおしまいというものである。父親の権威も何もあったものではない。父親の言うことに納得がいかないとか、批判があれば、後で二人だけになった時に話し合えばよい。子供の前で、夫婦の意見が合わず、対立することになっては、何のために子供を叱ったのかわからなくなる。  (「父と子はどうわかり合えるか」P.115-116)


C. 父親の権威に従う


1. 父親の権威が確立されていない場合、母親による幼児虐待が生じ、歯止めがかからなくなっている


2. 教育ママの増加が登校拒否児を生み出した(「父と子はどうわかり合えるか」P.47)


3. パイドンの時から善悪の区別を教えられることはとても重要なこと:胎児の時?3歳までが鍵パイドンの時ホイホイされ、わがまま放題に育てられたのに、テクノンになってガミガミ言われ、学業成績ばかりによって評価され、セルフ・イメージを低くおとしめられると、子供の怒りと親への復讐心がふくらむ。そしてそれが破裂し、爆発すると家庭内暴力や非行などとなって現れる


a. 現代の子供は、パイドン(0歳?3歳)のころ甘やかされ、ストレスを与えらることが少ない。ホイホイ甘やかされて育っている


b. テクノンの時代(3歳?12歳)にはいると、だんだんとガミガミいう親のストレスに耐えられなくなり、中学生、高校生ともなると、親に反抗するようになる


4. ホイホイ・ガミガミ型の親に育てられた子供は、自分をコントロールできない、わがまま、自己中心な少年、青年となっていき、非行に走るパターンがみられる


5. 子育ては、アメだけでなく、ムチを加えることも重要むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。 箴言13:24むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。 箴言29:15


6. むちを加える教育は、母親よりも父親の責任


a. 口で言ってもわからない、子供がパイドンの時にこそ、むちは有効


b. パイドンの時にむちで打たれても復讐心を持つような形で記憶に残らない


c. テクノンの時代、後半にむちで打たれた場合、子供自身が理屈で納得していないことであったら、その体罰は、子供に怒りの感情を起こさせる。このことは、厳重に戒められている。これは特に父親への命令である。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。 エペソ6:4


7. 聖書が教える子どもをむち打つという行為について


a. 子どもへの虐待を容認しているのではない


b. 手や足を用いて子どもに暴力をふるう時は感情的になり、怒りにまかせて打つという場合がほとんど


c. むちを取りにいく間、親は冷静になれる


d. 警告を十分与えてもなお親の言うことを聞かない場合のみ、むちで打つ


e. 0歳から3歳までになされるべきしつけであって、4歳以上の子どもには、よほどのことがないかぎりむちは用いない


f. むちで子供を打つのは自分の怒りを爆発させるためではなく、しつけのため


D. 父親不在が少年非行を増加させている


1.父親が子供の成長と教育にとても重要な役割を担っている


大村崑の「お父さん親してますか!」大村崑さんによれば、日本の父と子の一日平均会話時間は"四秒"だそうです。「おい、勉強してるか。しっかり勉強しなかったら、ええ学校に行けんぞ。がんばれ、おやすみ」こんな言葉しかお父さんの口から聞くことができないとしたら・・


2. 非行に走る少年は、幼児期に溺愛されて育つ


非行少年を幼児期溺愛した保護者の内訳総数6,450人、昭和27年?62年の調査結果? 母親が溺愛した 70.3% ? 祖母が溺愛した 22.3% ? 父母が溺愛した 3.9% ? 父親が溺愛した 1.8% ? 祖父母が溺愛した 0.9% ? その他 0.5% ?祖父が溺愛した  0.3%3. 父親の不在が母親を子供への執着心へと追い立てる


a. 夫からの十分な愛情を得られない妻は欲求不満に陥る


b. 夫が会社で他の女性と親しくしていると噂を聞くと、妻は嫉妬心、猜疑心で動揺する


c. 夫への愛が冷え、母性本能から子供にのみ意識が集中し、のめり込む


d. 欲求不満とストレスが妻を"子供を溺愛し、病的な執着心を持つ母"へと追いやるE. 子育てにおける母親と父親の違い 上寺久雄(兵庫教育大学学長)著「父親の出番」


1. 母親は「人に負けない子ども」へとわが子を育てようとする


2. 父親は「自分にうち勝つ子ども」を育てる


a. 子どもが侮辱し、嫌う父親のタイプ1) ニヤニヤ型の父親:子どもの言うことをただニヤニヤ聞いている父2) ビクビク型の父親:子どもの言うことをビクビクしながら聞いている父3) 拒否型の父親:子どもの言うことを受け止めない父


b. 子どもが尊敬する父親のタイプ1) 子どもの言うことに耳を傾ける父2) 「ダメはダメ」「よいはよい」と適切な判断を教えてくれる父3) 論理性、決断力、忍耐力、包容力、責任感、誠実さを子どもに対しても胸を張って示すことのできる頼りがいある頼もしい父H. レイモンド・チャンドラー著作、稲葉明雄訳 待っている (原題 I'll be Waiting and other stories)に記されている名文句ロスアンジェルスのネオン街をひとりとぼとぼと歩く主人公、フィリップ・マーロウがつぶやくせりふがあります。「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。」c. 権威というのは、静かに優しく語っていても罪を犯し罰せられる立場のものには十分威圧感を与えるものである交通規則を違反した人に対して、警察官が優しい声で「罰金は○万円です」と言ったとしても、権威としては、恐ろしい声で脅すような言い方をしたのとまったく同じ


III. 子供たちを怒らせてはならない


A. 怒りが与える害毒


1. 愚かさと怒りの関係愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。


利口な者ははずかしめを受けても黙っている。 箴言12:16怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。 箴言14:29激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。 箴言15:18愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。 箴言29:11


2. 怒りの感情は、ノルアドレナリンを過剰に分泌させ健康を害する


人間は、怒ったり強いストレスを感じると脳からノルアドレナリンという物質が分泌されます。この物質は、ホルモンの一種なのですが、ものすごい毒性を持っていて自然界にある毒物では蛇毒に次ぐ毒性を持っているそうです。もちろん脳内で分泌されるのはごく微量にすぎませんが、老化や病気にノルアドレナリンが関係していることはたしかです。おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。 箴言22:24-25


3. 批判的で攻撃的、怒りっぽい親のもとで育てられた子供は、親に習って破壊的な人間になっていく


B. 子供が怒り、復讐心で根に持つような叱り方、注意の仕方を聖書が禁ずる理由


1. 怒りにまかせて子供を叱り、非難すること、体罰を与えることは、子供に真に反省する心よりも反発心の方を持たせる


2. パイドン(0歳から3歳)までの時期はむちで打ち善悪の基準を教えることがあっても、テクノン(4歳から13歳)までの時期は、子供が感情的に怒りを感じるような叱り方をしてしまうと情緒的に不安定な子供になり、親を恨むことになるから


3. テクノンの時期は、もう、ものの通りがわかる時期なので、なぜよくないことなのか自分で気づくことができるように導くほうが、頭ごなしに否定し、無理矢理矯正しようとするよりも有益だから


4. 父親が、論理的な方法で語り、(子供が)自分の改善すべき方向付けをしてくれているのだと納得すれば、子供は父親が自分の味方だ、手助けをしてくれているのだと思うことができる。父親は憎くて、あるいはメンツや怒りの感情から子供を叱っているのではないと分かるからだC. 主の教訓と訓戒によって育てなさい1. 主の教訓によって育てる


a. 相手の身、立場になって考え、教える


b. 理屈ばかり述べず、親自身が主の御言葉の原則を実践し模範を示す


c. ほめることによって正しい方向づけを与える


d. 否定的な傷つくことば、見くだしたような批判、不平不満をあらわにしたような要求は主の訓戒とは無縁


e. 親は子どもの上に権威を与えられているからといっても、子どもの徳が高められるのでなければ主の教訓とはいえない


私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。 ローマ15:2悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 エペソ4:29


「政夫。お父さんも、お母さんも、おまえの今学期の成績が上がって、本当に鼻が高いよ。"しかし"数学の勉強をもっとがんばっていたら、おまえの成績はもっと上がっていたと思うよ」この場合、"しかし"という一言が耳にはいるまで、政夫は激励されて気をよくしていた。ところが、"しかし"という言葉を聞いたとたん、今のほめことばが果たして本心だったのかと政夫くんは疑いたくなる。ほめことばが、結局は批判するための前置きにすぎなかったように思えてきます。信頼感が損なわれ、政夫の勉強に対する態度を変えようとするお父さんのねらいは失敗に終わるのです。どうしたら良いのでしょう。


"しかし"と言いたくなってもそういわずに、"そして"に変えて言うと全く違う効果が現われます。「政夫、お父さんもお母さんも、おまえの今学期の成績が上がって、本当に鼻が高いよ。そして、来学期も同じように勉強を続ければ、数学だって、他の科目と同じように成績が上がると思うよ。」こう聞けば、政夫はほめ言葉の後に批判的、攻撃的な言葉が続かないので、素直に耳を傾けることができるのです。


アクション・ポイント(生活への適用)


1. 子供たちが両親に従うのは、創造主の私たち人間に対する初めからのご計画に沿ったことです。小さな子供の時に父母による良いこと悪いことの区別を教えられず、すべて子供自身が自分で善悪を決定するように育てられたらその子供はどのような大人になると想像できますか。


2. 口で言ってもわからない、子供がパイドン(0?3歳までの期間)の時にこそ、むちは有効であり、テクノン(4歳?12歳)の時にガミガミ言って子供を怒らせることが禁止されているのは何か理由があるのでしょうか。あなたはどのように育てられましたか。ご自分の子供がいたらどのように育てましたか。これから結婚し、子供を育てようとしている人にどのようなアドバイスを語ってあげたいと思いますか。


3. 子供を育てるにあたり、父親が果たさなければ役割とは、どのようなものだと思いますか。


4. 子供をほめてあげ、主の教訓によって育てることについて、あなたはどう思いますか。また、子供を怒らせることなく、子供の良くない態度や行為を矯正するにあたり、主の訓戒によって育てるということについて、親はどう取組んだら良いでしょうか。



ユダヤ人の知恵に学ぶ子育て

ユダヤ人の知恵に学ぶ子育て


ユダヤ人は、子供に「家庭が一番大切」だと教えます。日本では、父親は「仕事が一番」、子供は「勉強の成績が一番」と考える人が多いようです。しかし、「家庭が一番」という意識が薄れてくると、家族はバラバラになってしまいます。家庭が崩壊しない防止策の一つとして、考えられるのは、子供にも家庭の規則を教え、守らせることです。イスラエルのマンションの住民の多くは、子供に帰宅時間の規則を守らせるそうです。たとえば、ある家庭では、「五時までには家に帰ること」という規則を設けます。そうすると、子供がもし一分でも遅れて家に帰ると、今度は、その帰宅時間を一時間早めて四時にするのだそうです。そうすると子供たちは、これ以上早くされては困ると思って、がんばって時間に間に合うよう帰って来ます。一週間遅れることなく、時間前に帰ってくれば、再び門限を五時に戻してあげるのだそうです。それを繰り返し、しつけを行います。日本のある親のように、遅刻してきたからと行って、頭ごなしに叱りつけたり、怒鳴り散らしたりする親はほとんどいません。なぜでしょう。ユダヤ人にとって、“怒る”という行為は、親といえども、一方的な押しつけなので、軽蔑に値することだからです。もし、それが正しくても、相手の意見を聞かないことだと考えられているからです。子供がことばを理解することができるようになる小さい頃から、相手にわかるように説明し、納得させるという習慣をつけさせるためだそうです。このような家族間の会話が、現代の日本では、もっとなされなければならないのではないでしょうか。
「勉強したの?」「宿題はもうすませた?」というような語りかけが親から子供に対して成される。これが現代の親子間でかわされる挨拶の言葉になっていないでしょうか。日本で「勉強」といえば、はちまきを締めて、「目指せ、○○大学!」とばかり、眠気眼をこすりながらも、必死で机にかじりつくというイメージがあります。勉強といえば、受験勉強のことを頭に浮かべる親子が、日本では多いのではないでしょうか。このため、大学に入学してしまうと、「勉強」という鎖から解放された気分がして、遊びほうける若者が多いのです。



ユダヤ人の学校では、学問とは、「美味しいお菓子のように、あま?く楽しいこと」だと教えられます。文字の形をした木の模型の表面に砂糖や蜂蜜を付けて、「これからみんなで学ぶことは、この文字を覚えることから始めますよ。さあ、みんな、指でなぞってなめてみましょう。ほら、甘いでしょう。勉強するってことは、いろいろ知らないことを教わって、役に立つことですから、楽しいことなんですよ。」といって教えるそうです。そして、学問をすること、勉強することは一生続けることなので、絶対に嫌いにならないよう、最初が肝心だと心がけるのです。


日本人の親で、子供を学校に送り出す時、「お行儀良く、先生のお話をしっかり聞くのよ」という人がいます。ユダヤ人の母親は、「わからないことがあったら、先生にたくさん質問して聞くのよ」といって学校に行かせます。私の父は、よく私が子供の頃、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言っていました。


ユダヤ人の先生は、生徒と同じレベルに立って、百回質問されたら、百通り違った別の表現で教師は答えてあげるべきであり、百回目に生徒が本当に理解できたら、忍耐力ある本物の教師だと賞賛を受けるに値すると考えられるそうです。ヘブル語で、教育は、ヒヌーフといいます。この言葉は、奉納、奉献という意味です。創造主から授かり、委託されている子供に、人間が生きていく人としての正しい道を伝えて、創造主と社会にお返しすることが子育てだと考えるのです。親は、家庭で“創造主を畏れ、人間が生きていく上で知らねばならない知恵”を教え、学校の教師は、「社会における人間の知識」の部分を教えると考えるのです。


英語で“勉強する”という意味の語は、代表的には二つあります。LearnとStudyです。Learnは、先生の見本をお手本として見ながら、まねをすることを通して学ぶことです。Studyは、自ら研究し、調査して体験的に学ぶことを意味します。高校を卒業するころまででLearnを終え、大学からは、Studyが中心になるべきではないでしょうか。日本の大学、アメリカ、そしてニュージーランドの大学、大学院で学んだ経験から、私も、日本の大学は自分で研究し、調査し、体験的に学習することが、アメリカやニュージーランドの大学よりも少ないように思います。欧米の大学や、大学院では、やたら論文をたくさん書かせられたという経験をしました。二週間か三週間に一回、論文を提出しなければならないというハードスケジュールを課されたこともありました。その論文も、6000ワード(単語)の長さのものを書くためには、最低35冊から40冊以上の文献を調べ、それらの本から引用をしつつ、論旨を組み立て、自分の意見を結論として主張しなければ合格点をもらえないという厳しいものでした。確かに、一方的に暗記をするよう先生から命令され、試験のために一夜漬けのように覚えて合格点をとっても、試験が終わればほとんど覚えたことを忘れてしまうというような勉強よりも、自分で実際、何冊もの本を読み、リサーチした後に、自分の頭で考え、論理的な構成を考えて論文を書き上げるという作業の方が、さまざまな知識が身についたように思います。


ユダヤ人の教育方針は、日本とはかなり違います。まず、日本のようにいわゆる「詰め込み式」教育はやりません。授業内容は、先生が一人で話をし、生徒が聞くという授業はほとんどありません。ほぼ、対話形式の授業です。一人の生徒が意見を言います。そうすると、それにたいして他の生徒が発言します。そして、クラス全体で議論をしているというのが授業風景だそうです。ユダヤには、「恥ずかしがり屋さんは勉強できない」という諺があるくらいです。


ユダヤ人の家庭では、父親と母親、どちらが強いのでしょう。あなたのご家庭ではどちらが強いですか。ユダヤ人の話に次のようなものがあります。死後の天上でのお話しです。
天使がユダヤ人の夫婦を集めて、まず、夫たちに尋ねました。「地上では、奥さんとあなた、どちらが家庭生活を支配していたと思いますか?自分だと思う人は、こちらの列に並んで下さい。奥さんだと思う人はあちらの列に並んで下さい。正直に並んで下さいね。」すると、「奥さんだ」と思う人のほうが長?い列になりました。もう一方の所には、髭を生やした体格の良い、いかにもたくましそうな男が一人で立っていました。その男の筋骨隆々、堂々たる姿を見て、他の男たちは内心、ホッとしたようです。ユダヤ社会は、父系社会です。男中心にすべてが流れています。しかし、死んでから、冷静になって考えてみると、どうも自分たちは「お飾り」のような存在で、本当は家のことはすべて妻が仕切っていたように感じたというのです。「見上げたものです。なんと、あなたお一人がこの列に並びました。ぜひ、その理由をお聞かせ頂きたいものです。」とそう天使が質問をしました。そうしたら、この男性は、こう答えました。「あの・・・実は、妻に『あなた、あなたは、この列に並びなさい』と言われたものですから・・・。」


ユダヤ人の父親は、子供によくなぞなぞを出して、子供の知的好奇心を刺激します。二つ例を挙げましょう。
歌を歌うといやがられ、命が危なくなるものな?んだ
どこの国の言葉でも、話すことができる人はだ?れ
答えは、最初のなぞなぞは、「蚊」です。二つ目の答えは、「山びこ」です。子供がおもしろがるようななぞなぞを出して、子供の頭が様々な角度から物事を見、柔軟に考えるよう鍛えるのです。父親の権威は、一方的な押しつけではなく、お互いの対話によって、父親の知恵の見せ所、また、教師としての懐の深さが試される中で構築され、発揮されるものなのです。そうすれば、妻も、子供たちも創造主から与えられている父親の権威を違和感なく認め、尊敬するようになっていくのです。


ユダヤの格言にこういうものがあります。「女を計るのに三つある。料理・衣服・夫。これらは、みな、昔から女がつくるものだ」
賢い妻とは、家庭内にゆるぎない秩序をもたらします。また、筋の通った子育て、子供のしつけを行います。そして、夫の権威を敬いつつ、それをじょうずに用いるのです。ユダヤ人の夫婦は、あらゆる問題を心ゆくまで話し合います。しかし、最終決定は、必ず夫の判断に委ねるのです。このシステムを生かして家庭生活を円滑に進めて行くというのが賢い妻です。


聖書の言葉
しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。 箴言31:10-31



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