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梅野さんからのお手紙

1992年(平成4年)11月に当時、藤沢福音自由教会で牧師としてご奉仕していた私のところに、見知らぬ方から一通の手紙が送られてきました。このブログでは、この方のご本名とご住所は伏せて、仮名と架空の住所を用いてご紹介したいと思います。内容は、イエス・キリストの教えに関して、真意が誤解されて伝わっているので、たださなければならないというご主張と共に、この方の主張に賛同し、その内容を広く伝えたいという人は、連絡してほしいというものでした。私は、一読して、私が聖書から理解している、主イエスキリストの教えと、封書を送られた方のご主張があまりにも違うものでしたので、即、ご返事を書いて郵送しました。それに対してのご返事は、いまだにいただいておりませんが、この方がご自分の信じるところを広く、多くの人に伝えたいという情熱をお持ちの方ですし、お手紙を受け取った私は、それが、聖書の伝える真理を正しく表現していないと確信していますので、ブログに両方の意見を掲載して、ご覧くださる皆様のご判断にゆだねたいと思います。

梅野(仮名)さんからのお手紙  
※文中に挿入されたローマ数字は、私がご返事を書く際に言及するため便宜上つけたものです。
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イエス・キリスト様の真意を伝えんが為に

 見ず知らずの者が、突然お手紙をお出ししてすみません。そのご無礼を最初にお詫び申し上げます。私はこのメッセージを、これだけはお伝えしなくてはという込み上げてくる内なる衝動に従って書かせて頂くことに致しました。

 早速本題に入らせて頂きますが、約二千年前に、イエス・キリスト様によって宣べ伝えられた神様からの真理の教えの多くは、今日、その真意が理解されずに伝えられているように見受けられます。このことは誠に遺憾であり、今の今こそ、その過ちが認識され、真意が回復されなければなりません。

 イエス・キリスト様は、私達とは全く異質の私達の決して及ぶことの出来ない特別な雲の上の人としてお生まれになったのではありません。イエス・キリスト様は、私達一人一人が、父なる神様との関係において、イエス・キリスト様と父なる神様がそうであったところの正にその同一の関係に私達を導き入れんが為にお生まれになったのです。イエス・キリスト様の教えは、その為の道そのものなのであります。(I)

 従いまして、その道とはイエス・キリスト様だけでなく、私達の誰もがイエス・キリスト様のように、神の子となる道であると言うことができます。

 神様は、私達から遠く離れた外界の天空高い所にある、ある特別な場所だけにいらっしゃるのではなく、私達の手足よりも身近な所である私達一人一人の内にもおられ、そこから常に私達に働きかけておられるのです。そして、そのみ心を行うようにと常に促しているのです。それは、私達が神様のみ心を行うことにより、イエス・キリスト様のように、神様の賜る大いなる栄光に浴するためであります。このことは、私達にとって何と有り難いことでしょうか。

 そのような私達を心から愛しておられる神さまが、私たちを罪に定めるようなことがあるはずがありません。(II-A)  私たちには、元来、罪はなかったのです。(II-B)? 神の子としての本当の生き方を知らない私達が、神様のみ心に反した生き方をした分だけ、元来無かったはずの罪が生み出されたのです。ですから、もし私達が、神の子としての本当の姿を知り、行いを正し、神のみ心にかなった生き方を始めれば、罪は跡形も無く消え去るのです。(II-C)   

 神様のみ心から迷い出た私達が造り出してしまった罪をあまりにも強調しすぎることは、私達を、元来存在するはずもない罪に、堅く縛りつけることになってしまいます。

 さて、イエス・キリスト様の教えの中で私達の多くが罪の場合と同じように強調してきたものに、悪魔(サタン)の存在があります。ところで、神様についてよくよく考えてみたいと思います。神様は、全知全能であられ、自らこの世をお造りになり、どこにでも遍在されております。そうしますとこの宇宙で神様のいらっしゃらない所はどこにもございません。もし、神様と共に、悪魔(サタン)が存在するとすれば、神様の遍在性は失われ、(III-A)? 又、それと同時にその全能性も失われてしまいます。(III-B) ?これでは真理に矛盾をきたしてしまいます。

 悪魔(サタン)とは、どこにでも遍在され万物を通して御身を現わされている神様が、私達一人一人が神の子としてイエス・キリスト様の歩まれたような神様のみ心を行いゆく道を歩んでいく上で、五感の誘惑に打ち勝たんが為に、そして、私達の内を通して働いておられる神様の勝利のラッパを吹き鳴らさんが為に設けられたものなのです。悪魔(サタン)とは、私達を神の子としての正道から踏み外させんとする五感の惑わしのことであり、(III-C) ?それを克服し、内を通して働きたまう神様の勝利を宣言した時に、私達の元から消え去るべく定められているものです。私達の多くは、罪と同様、あまりにも悪魔(サタン)の存在とその私達に及ぼしうる力を強調するあまり、それが神様と対立して厳然と存在するかのような幻想に捕らわれてしまっています。神の子として真実を見抜く目を養う為にも、私達は一刻も早く、このような架空の幻想を捨て去らなくてはなりません。(III-D)

 ところで幻想と申しますと、私達の抱きやすいものがもうひとつあります。それは天のみ国に対するものであります。天のみ国とは、外界のはるかかなたに存在しているものではなく、私達の内にあるのです。このことは聖書の中ではっきりと示されています。(IV) ?ですから、私達が神の子として神様のみ心にかなった生き方を始めるならば、天のみ国、すなわち神の国の住者となるわけです。

 しかし、私達の多くは、この確固たる自覚を持っていません。神様も天のみ国も、天空はるかかなたに在り肉体の死後、あるいは、ある一定期間経過した後に、イエス・キリスト様のみ力によりて入れて戴けるものと思っているのです。神様も天のみ国も、天空はるかかなたに在り肉体の死後、あるいは、ある一定期間経過した後に、イエス・キリストのみ力によりて、入れて戴けるものと思っているのです。神様も天のみ国も私達のまっただ中にあり、私達は今の今、天のみ国の住者となれるのであるということをよくよく認識すべきであります。

 最後になりますが、イエス・キリスト様の宣べ伝えられた教えの中で最大のかなめとも言える永遠の生命に触れて、筆を置かせて頂きます。

 イエス・キリスト様は、イエス・キリスト様と同じように神の子としての道を歩む者に対して、永遠の生命を約束されました。(V-A) ?他に並ぶべきものなど何ひとつないほど素晴らしきこの永遠の生命ですが、これは、私達が未来のいつの日か授かるものではないのであるということを悟得することは、非常に重要なことであります。

 もし、私達に今、このような永遠の生命が与えられておらず、将来のいつの日にか与えられるものであれば、それは取るに足りないものになってしまいます。自分の内に元来備わっていないものは、いずれは失われてしまうものであり、求める価値に値しないものであるからです。真実は違うのです。私達は誰でも、永遠の生命の種子を、私達の内に今、現在宿しているのです。ところが、残念なことに、五感の惑わしや、罪の意識によりそれを覆い隠してしまっていて、その存在に全く気付かないままでいるのです。しかし、希望はあります。私達が、イエス・キリスト様の歩まれたように神の子としての自覚をしっかりと持ち、(V-B) 内を通して働きたまう神様のみ心のまま、道を歩んでいくならば、(V-C) 五感の惑わしも、元来存在すべく定められていなかった罪の意識もことごとく消え去り、(V-D) 確固とした永遠の生命の自覚がおのずと現れてくるからです。(V-E) この輝かしき自覚は、私達の肉体の死が私達の生命の中断を意味せず、私達の生命にいかなる影響も及ぼすことができないのであるという確信を与えてくれます。私達には、恐れるべきものは何もありません。この肉体の死でさえ、恐れるに足るものではないのです。(V-F)

 今日、二千年前にイエス・キリスト様がこの地上に誕生されて、自らの人生のすべてを父なる神様に捧げ尽くすことによって、そのみ力により宣べ伝えられた尊きみ教えの真意が、私達一人一人によって深く理解されることを念願してやみません。

 主のご祝福が、このメッセージを読まれるかたにとこしえにあらんことを 
                           アーメン

          平成4年11月15日 午前11時 自宅にて

 当メッセージに盛り込まれているイエス・キリスト様の真意に賛同してくださり、自らもその普及にご尽力したいとお考えの方は、お手数ですが、下記までご連絡ください。

[連絡先(仮名と架空の住所、電話番号)]  
       ? ? ? ? ? ? ? ? ?  〒244 横浜市戸塚区舞岡町 9876-1-012
                  ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?梅野 弘二
              ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 045-888-1225


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梅野さんへのご返事

 主イエス・キリストの十字架の御業を讃美申し上げます。
 このたびは、梅野さんの熱心な求道、探究の結果である「イエス・キリスト様の真意を伝えんが為に」を私のところへもお送りくださいましてありがとうございました。内側から込み上げてくる情熱をもってお書きくださり、心より尊敬申し上げます。

 さて、梅野さんが私にぜひ知ってほしいとおっしゃる点を誤解のないように、まず要約させていただき、私たちが聖書から教えられていますことを述べさせていただき、私のご返事といたします。

梅野さんのご主旨

? ?. 道について
   イエス・キリスト様の教えは道そのものである。

??. 罪について
  A. 愛の神が私たちを罪に定めるはずがない。
  B. 私たちには元来罪はなかった。
  C. 人間は、神の子としての本来の姿を知り、行いを正し、神のみ心にかなった生き方をはじめるなら罪は跡形も無く消え去る。

?. サタンについて
  A. 悪魔の実在を認めると神の遍在性が失われる。
  B. 悪魔の実在を認めると神の全能性も失われる。
  C. 悪魔とは、私たちの五感の惑わしのことである。
  D. 真実を見抜く目を養うため、悪魔の存在などという幻想は捨て去らなければならない。

??. 天の御国について
?  天の御国は私達の内にある。

??. 永遠のいのちについて
? ? ? A.イエス様と同じように神の子としての道を歩む者にイエス・キリスト様は永遠のいのちを約束された。
? ? ? B.イエス様のように私達も神の子としての自覚をもつべきだ。
? ? ? C.内に働かれる神のみ心のままに道を歩むべきだ。
? ? ? D.そうすれば五感の惑わしや、本来ありはしない罪の意識はことごとく消え去る。
? ? ? E.確固とした永遠のいのちの自覚はおのずと現れてくる。
? ? ? F.私達には恐るべきものは何もない。


 以上のような要約で梅野さんのご主張をまとめさせていただいてよろしいでしょうか。もし私の誤解している点がありましたらご指摘ください。 

 次に私が聖書の御言葉から、真理であると信じております点から梅野さんのご指摘くださっている一つ一つの項目をみさせていただき私のご返事とさせていただきます。


? I. 道について
  ? 私の聖書ではイエス・キリスト様の教えが道だとは書いてございません。
  ヨハネ14:6でイエス様は、「私が道であり、真理であり、命なのです」とおっしゃったのです。

 太平洋でおぼれている泳げないカナヅチの人がいるとしましょう。この人にとって命の恩人(救い主)とはどのような人のことをいうのでしょうか。

 一人の人がボートに乗ってやって来ました。フトコロから「あなたも三分間で必ず泳げるようになる」という本をとり出し、ポイとおぼれている人めがけ投げてやりました。このような人を梅野さんは命の恩人と呼びますか?この人は泳ぎ方の方法を教える教師と言えるかもしれませんが救い主とはいえませんね・・・

 イエス・キリストも確かにすばらしい教師であられました。  キリストの教えに何か間違いがあったわけではありません、教えどおりに手足を動かせない私達に問題があるのです。

 丁度泳げない人にとって泳ぐ方法を教えた教本を投げ入れてもらってもその人が泳げなかったのと同じです。

 私達に必要なのは救い主(命の恩人)であって、良い教えではありません。
 以下の聖書のことばを声に出してお読みになってみてください。    
ローマ5:6?8
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

ローマ4:4?5   
働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

ヨハネ10:9,11
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

また、ルカ23:33?43までをお読みください。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 ここに十字架につけられた犯罪人が二人イエス様の両側に登場しています。一人は滅びに行き一人は救われました。

 このパラダイスを約束された犯罪人は「イエス様の教えを聞き、生活の中で実践できたからごほうびとして永遠の命の自覚がめばえたのだ」と書いてありますでしょうか?彼は自分の罪深さを本来なかったものと自覚したのではなく実際自分の手におえない責任のとりようもないものとして認めたのではないでしょうか。

 自分の罪を認め、次にイエス様の無罪性に望みをたくし、イエス様こんな私ですがよろしくお願いしますという気持ちで、「私を思い出して下さい」と言ったのではないかと私は考えます。その時、イエス様は彼に何とおっしゃったのですか、「あーぁ、もう少し早く気づけばよかったのにな、もう遅いよ、おまえの人生はやり直しがまだきく時に五感の惑わしを克服し、神のみ心を生活の中で実践すべきだったね、残念でした」と本当におっしゃったのでしょうか。 

 私の聖書では、イエス様は彼に天のパラダイスの約束をプレゼントとして、彼の信仰に応答するかたちで与えられたように書いてあります。すなわちこの犯罪人は、イエス様が教えた道徳的なルールを守るということとは無関係に、イエス様ご自身を信じ、命の恩人として受け入れたことのみをもって救われたのです。

 私もイエス・キリストを単に教師としてでなく、救い主(命の恩人として)信じたので救われました。

?II. 罪について
? ? A. 愛の神が私達を罪に定めるはずがない?
   ?確かに神は愛のお方です。ですから私達を罪に定めるはずがないというのも一理あります。
   わたしたちの罪が裁かれなければならなかったのだということも神が聖なる義なるお方としては当然のことだと私はうけとめています。
   この神の義が満足されるために私が本来受けなければならなかったところの罪の罰をイエス・キリスト様が身代わりとなって受け十字架で血を流し、つぐないをなしとげてくださったのだと私の聖書は教えています。

ローマ3:23   
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ローマ6:23   
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

詩篇19:9   
主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。

ヘブル9:27   
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

コリント第二5:18?21
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

? ? B. 私達には元来罪はなかった?
?  ? 私達には元来罪はなかったと梅野さんはおっしゃいますが、おそらく梅野さんが罪という単語で表現していらっしゃることと、聖書が罪とよんでいるところのものとは、全然違うものなのかもしれません。
?  ? 聖書は私達人間には罪があることを教えています。
?   リンゴの木はリンゴの実を実らせたのでリンゴの木になったのではなく、リンゴの木は実が実る前からリンゴの木だったので、リンゴの実を結ぶのだと私は考えます。すなわち人間は五感の惑わしを経験したから、罪びとになったというのではなく、最初から六感をも含めてアダムが罪を犯したため、その子孫は、すべて罪人としてゆがみをもったまま生まれて来るのだと聖書は教えています。

  ? ?人は罪人であるが故に感覚においてもゆがみをもっており結果として五感の惑わしも受け罪の現実の実を結ぶのだと聖書は伝えています。  

詩篇51:5
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

ローマ5:12?21
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

? ? C. 人間は、神の子としての本来の姿を知り、行いを正し、神のみ心にかなった生き方をはじめるなら罪は跡形もなく消え去る?)
   ?罪の解決はどのようにしてもたらされるのかということについてですが、梅野さんのお考えでは、
? ? ?? 神の子としての本当の姿を知ること
   ? 行いを正し
   ? み心にかなった生き方をはじめれば
   ? 罪は跡形もなく消える
ということですが、聖書はそのように教えていません。

   まず、すべての人間は"神の子"ではありません。         
すべての人間はイエス・キリストによって創造された「被造物」ではあっても、「神の子」ではないのです。

?   聖書によると「神の子」とさせていただくのは特権であります。ヨハネ1:12をお読みください。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

   この方とはイエス・キリスト様のことです。ここでもイエス・キリストの教えを信じ、従った者はとは書いてありません。そうではなく、「この方を受け入れた人」と書いてあります。すなわちその名を信じた人と言い換え意味を明白にしています。イエス・キリストの名とはわかりやすく申しますと、イエスは救い主であるということです。私達の理解しやすい表現を用いるなら、イエス様は永遠の命の恩人であられるということです。そして「神の子」としていただけるのは特権であり、神のプレゼントなのです。
   13節にこの「神の子」という立場は、梅野さんがおっしゃるように、
   ? 自然に誕生した者は皆、神の子であるとか
   ? 人間の努力や、意欲に対するごほうびとしてもらえるものだとか、いうものでは決してないと説明されています。
    
   梅野さんは、行ないを正し、み心にかなった生活をすればとおっしゃいますが、人間の神に対する反抗的態度の具体的な罪のうち何%を正したら十分なのですか?
   次に、もし梅野さんがとても立派な方で100%罪を犯さない決心をなさってそれができたとしましょう。でもその状態が何分間続けられたら十分なのですか?
   罪は跡形もなく消えるとおっしゃいますが、人間が人間を見た場合、そのようなことがあったとしても天の義なる神様の前でそうなれるでしょうか、罪とはそんなに簡単な、私達の手におえるようなもののことを指しているのでしょうか? 

ヨハネ第一の手紙1:8、10をご覧ください。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

ガラテヤ3:10?11,2:16をご覧ください。 
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。

しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

  ? 私達の罪は私達がどんなに歯をくいしばってみても自分の意志の力や努力では解決できるものでも、消滅するものでもないというのが聖書の教えです。

イザヤ書64:6
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

エレミヤ13:23。
クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。

   私達に必要なのは、罪の生活改善や変化ではなく、罪の赦しと救い主です。

III. 悪魔について
? ? A. 悪魔の実在を認めると神の遍在性が失われる?
? ? ? ?悪魔の存在を認めると、神さまの遍在性が失われるというご指摘ですが、私たちは、神が時と空間に支配されないお方であると認めますが、悪魔を遍在する者としてはとらえません。聖書は悪魔について決してそのようには教えていません。サタンは、デーモン(悪霊)という手下を地球上に多く配置してはいますが、サタン(悪魔)そのものは、同じ時に、一つの場所にしかいることできません。従って、悪魔の存在と神の遍在性との間には何の関係もないということになります。

? ? B. 悪魔の実在を認めると神の全能性も失われる?
? ? ? ?以上のことからも、悪魔は、その能力においても神に敵対できる存在ではありません。神に反逆したため、悪魔は滅ぼされる運命にあるものです。神の全能性と悪魔の実在は全く矛盾など致しません。
? ? ? ?おそらく、梅野さんが、幻想と呼び、非難していらっしゃるのは、聖書の教える、又、キリスト教徒が信じているところの悪魔観ではなく、道教の影響を受けた善悪二元論的悪魔観なのではありませんか。イエス様も悪魔を人格的存在として、霊的被造物である天使のひとり、ルシファーが堕落したものとしてお取り扱いになっておられます。
   「使徒の働き」の中でも、悪霊どもは、イエス・キリストの御名と十字架の血潮、死からのよみがえり、に反対し、イエス・キリストの御名によって追い出されています。そしてこれは、現実の歴史的記録なのです。

? ? C. 悪魔とは、私たちの五感の惑わしのことである?
? ? ? ?悪魔(サタン)とは、私たちを神の子としての正道から踏みはずさせんとする五感の惑わしのことだと梅野さんはおっしゃるのですが、そのことを明確に教えている聖書の聖句はありますか? ヤコブ4:1?3には、私たちの欲望や、悪い動機が、争いの原因だという教えはありますが、欲望や悪い動機そのものが悪魔なのではありません。

ヤコブ4:1?3
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

悪魔がそれらを利用することがあっても、欲望そのものがサタンではありません。もし、欲望がサタンであるという仮説が真理ならば、梅野さんの心の内には、神の子も、サタンも同居していることになります。それこそ矛盾と感じられませんか?サタンは遍在する者ではありません。

   又、神さまが遍在のお方であるということは、汎神論の意味での、すべてに神が宿っておられるというような意味とは、著しく違うのです。梅野さんの御主張のIII-Aで、遍在という用語を神に対して用いていらっしゃる時は、キリスト教的な遍在という意味よりは、汎神論的な意味、即ち、神々が万物に宿っておられるというような意味で、お用いになっておられるようですね。

? ?D. 真実を見抜く目を養うためには、悪魔の存在などという幻想は、捨て去られなければならない?
? ? ?神の子として真実を見抜く目を養うために必要なのは、サタンの存在を無視すること、サタンなど幻想だと片付けることだと梅野さんはおっしゃるのですが、聖書は、はっきりとサタンの実在、そして彼の惑わしのテクニックがあるので、騙されぬよう、目を覚ましていなさいと教えているのです。

2コリント11:14
しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

エペソ6:11-12  
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

ヤコブ4:6-7 ?
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

1ペテロ5:8-9
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

   サタンが、人間の五感の惑わしにすぎないと、思い込まされ、サタンの実在を信じないようにさせられてしまうこと自体が、サタンの嘘であり、惑わしなのです。

?IV. 天の御国について
? ? ?天の御国が私たちの内にあるというのが梅野さんの御主張ですね。しかも、「このことは、聖書の中ではっきりと示されています。」と梅野さんはおっしゃいます。聖書のどこの何章何節にそのことがはっきり書かれてありますか?教えていただけませんでしょうか。

? ? ?多くの方々が、よく間違って解釈なさる聖句にルカ17:20-21があります。この「神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」というεντοs ? υμων(エントス ヒュモン)を人の内側、心の中というように誤解する人がおられますが、イエス様は、ここで神の国が私たちの心の中にあるとおっしゃられたのでは決してありません。英語の訳で見れば、神の国が within you 又は、within your heartだというのではなく、in your midst というのがイエス様のおっしゃられた意味です。直訳すれば、 "the kingdom of God in the midst of you" というのが正しい訳なのです。

? ? ?パリサイ人たちの間に(in the midst)立っておられたイエス・キリストがイスラエルの王様としてお出でになられたお方であったので、彼らが、イエス様を王として受け入れたならば、イスラエルの王国が樹立するということを主はおっしゃられたのです。しかし、パリサイ人たちは、イエス様を王として受け入れず、拒絶したため、御国の成立は引き延ばされてしまったのです。

ルカ17:25
しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。 ? ?

   神の御国は、主イエス・キリストが再臨される時、イスラエルのエルサレムを首都とする千年間に渡る王国が樹立し、御国は現実のものとなります。心の気休めや、「あると思えばある。無いと思えば無い。」というような唯心論的観点から、聖書は「神の国」を説いてはおりません。

? V. 永遠のいのちについて
? ? A. イエス様と同じように神の子としての道を歩むものに、イエス・キリスト様は、永遠のいのちを約束された?
? ? ? ?聖書は、永遠のいのちが、イエス様の模範に従い、神の子としての道を歩むならば、ご褒美としていただけるものだなどとは、決して教えておりません。
ヨハネ5:39-40
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

ローマ3:23-24
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を(ご褒美としては)受けることができず、ただ、神の恵み(創造主の一方的な気前よさ)のゆえに、価なしに(無料のプレゼントとして)義と認められるのです。(一度も罪を犯したことが無いかのように宣言していただけるのです。)

ローマ6:23
罪から来る報酬(報い、ご褒美)は死です。しかし、神のくださる賜物(ギフト、贈り物、プレゼント)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

   B. 私たちもイエス様のように「神の子」としての自覚を持つべきだ。そうしたら私たちも永遠のいのちが与えられる?

? ? ? ? イエス様が「神の御子」であられたのと同じような自覚を人間がいだくことによって永遠のいのちが与えられるということを教えている聖句はありません。梅野さんのお持ちの聖書で、そのようなことが明確に教えられている聖句がありましたら教えてください。

? ? ?C. 内に働かれる神のみ心のまま道を歩むべきだ。そうしたら私たちも永遠のいのちが与えられる?

? ? ? ? 神のみ心にかなった行いや生活をすることができたら、そのご褒美として永遠のいのちが与えられるというのも間違いです。完全に神のみ心に従う生活は不可能だからです。ヨハネ6:28-29を見ますと、神の業を行うために何をしたらよいかとの質問に対し、主は、「わたしを信じる」ことだと言われました。

ヨハネ6:28-29
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

ちょうど、十字架上の犯罪人のひとりも、この「神の業」、即ち、「イエス・キリストを永遠のいのちの恩人として信じ受け入れる」ことのみによって、パラダイスを約束していただき、永遠のいのちをプレゼントとして頂戴することができたのです。永遠のいのちが、私たちの良い行いや、義の業に対する報いではなくて、一方的な創造主の愛と恵み(気前よさ)のゆえに与えられるプレゼントであることは以下の聖句も明確に教えている真理です。

エペソ2:8-9 ?
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

テトス3:5 ?
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

使徒10:43; 13:38-39
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

   D. 「そうすれば、五感の惑わしや、本来ありはしない、罪の意識はことごとく消え去る」という梅野さんの御主張について

? ? ? ? 人間の性善説を信じ、神のみ心に従って良い生活を続ければ、五感の惑わしや、罪意識もなくなるというのが梅野さんの御主張であり、このことは大変重要であり、必要だとおっしゃっておられます。しかし、このことも聖書の中には全く教えられていない事です。逆に、先ほども申し上げましたことですが、「自分は罪を犯していない」と思うほど高慢になった人は、神の真理の光で自分の心を照らしてみることを拒否している人であることを次の聖句は明確に教えているのです。

1ヨハネ1:7-8
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

   E. 確固とした永遠のいのちの自覚はおのずと現れてくるという梅野さんの御主張について

? ? ? ? 永遠のいのちの自覚がおのずと現れてくるというような教えも聖書の中には見あたりません。永遠のいのちは、バーゲンセール(人間の良い行いと引きかえに買うもの)ではなく、イエスキリスト様からのプレゼントです。ですから、それを受け取った人は、持っていますし、まだ、自分のこととして受け入れていない人は、持っていません。人類はこの二つのうちどちらかに分けることができるというのです。

1ヨハネ5:11-12
そのあかし(証言、真実を伝えるお知らせ)とは、神が私たちに永遠のいのちを与えられた(プレゼントしてくださった)ということ、そして、このいのちが御子(イエス・キリスト)のうちにあるということです。御子を持つ者(イエスキリストを救い主として信じ受け入れた人)はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

? ? ? ?永遠のいのちの自覚と確信とは、神の御言葉が真実であること、そして、イエス様の約束のお言葉が信用できるものであることのみにかかっているのです。私たちの神に従う生活の自負心から来る、高ぶりの結果として、おのずからくるといったようなものでは決してありません。

   F. 私たちには恐れるべきものは何もないという梅野さんの御主張について
? ? ? ?「私たちには恐れるべきものは無い」と梅野さんはおっしゃいますが、聖書には、イエス様のお言葉で、「肉体の死をもたらす者をいたずらに恐れるよりは、肉体も、魂の死をももたらすことのできるお方を恐れなさい」という真理が教えられています。マタイ10:28 ?そして、箴言1:7; ?9:10には、人間が持つべき最初の知恵、知識は創造主を恐れるということであることが明確に教えられています。

箴言1:7
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

箴言9:10
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

    自分の義や正しさ、宗教熱心さに信頼を置き、誇っている人がいるとしたら、その人は、創造主を恐れるべきなのです。

ガラテヤ3:10
というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。 律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。

    けれども、イエス・キリストの十字架上でのお苦しみと流された血によって、私たちの罪は赦されるのです。イエス様を救い主、永遠のいのちの恩人として信じることによって罪赦され救われた人々は、死を恐れる必要はないのです。なぜなら、十字架で神のみ怒りはなだめられ、永遠のいのちがキリストの復活の故に無償で提供されているからです。私たちは、その永遠のいのちをプレゼントとして頂くことができるからです。

1コリント15:50-57 ?コロサイ2:13-14 ?ヨハネ3:16-18をお読みになってみて下さい。

1コリント15:50-57
血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

コロサイ2:13-14
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

ヨハネ3:16-18
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

?   最初に話しました海でおぼれている人を救出する命の恩人についての話に戻りましょう。二つ目のボートが来て、乗っていた人は、海に飛び込みおぼれている人の前で、クロールやバタフライの模範を見せてくれたとしましょう。そして、彼は、「ホラ、こうやったら君も泳げるようになるよ。」と言いました。でも、おぼれている人は、夢中で手足をバタバタさせるだけで、水を飲むばかりでした。この二番目の人も自分だけボートに戻り、エンジンを吹かして去っていきました。梅野さん、このような人を救い主、命の恩人と呼べるでしょうか?

? ? ? ?イエスキリストを良い道を示してくれた教師、良い人生のお手本、模範として信じている方々は、世界中にたくさんおられます。確かにイエス・キリストは良い模範をたくさん残されました。キリストの模範に間違いはありません。しかし、その模範通りにできない私たちの側に問題があるのです。

? ? ? ?イエス・キリストは、良い教師や、良き模範であられただけでなく、「救い主」であられました。おぼれている人を抱きかかえ、ボートに乗せ、岸まで連れて来てくれる人を私たちは「命の恩人」と呼びます。

? ? ? ?梅野さん、梅野さんはもう、主イエス・キリストをご自分に代わって、救いを完成してくださった「永遠のいのちの恩人」として、100%信頼し、自分の正しさに見切りをつけ、創造主の御恵みだけにお委ねするというそのような契約を神と結んだ経験をお持ちでしょうか。もしまだでしたら、今、キリストを永遠のいのちの恩人、救い主としてお受け入れになり、キリストのみに信頼なさってください。

? ? ? ?この事に関し、私がもしお手伝いできますようでしたらおっしゃってください。主イエスキリストの御恵みをお祈りいたします。


? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 主にありて、

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ?敬愛する 梅野弘二 様

? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 池田 豊



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マタイの7章が教えていること

                                                     池田 豊



「東京キリストの教会」というグループがあります。アメリカではボストン・ムーブメントという名称でも呼ばれる、熱心なキリストの弟子となることを永遠の命を得る救いの条件とする神学のもとに、他教派に属する信徒に積極的にアプローチしてきます。そして、彼らがボストン・ムーブメントで教えられた弟子としての律法的諸条件を他教派のクリスチャンたちは満たしていないといって攻撃してくる特徴をもっている人々です。



  私もお茶の水クリスチャンセンターの中にあるCLCというキリスト教書店で、このボストン・ムーブメント、東京キリストの教会に属する宣教師の一人に声をかけられ、お話しを伺ったことがあります。彼らは、自分たち以外の他教派に属する信者たちを、なまぬるい、偽りのクリスチャンではないかと疑い、積極的に語りかけてきます。そして、キリストの弟子となる訓練を受けるようにと挑戦してきます。他教派でバプテスマを受けた人であれば、そのようないいかげんなバプテスマは無効であるから、ボストン・ムーブメントの「キリストの教会」(正統的な他の「キリストの教会」とは区別されなければならない)で再度、バプテスマを受けなおさなければならないと主張してきます。



 自分たちのムーブメントに他のクリスチャンを勧誘するための聖句として、彼らが好んで用いる聖句はいくつかありますが、そのうちの一つは、マタイの福音書七章十五節?二十三節です。しばらくこの聖句を考察してみることにいたしましょう。



 ボストンムーブメント「キリストの教会」の主張によると、クリスチャンでも『不熱心な、いいかげんな信仰の信者は、天の御国に入れない』という教えの根拠として、この聖句が用いられるべきだということのようです。出会うクリスチャンにこの聖句を示し、挑戦的に語り、不安に陥らせようとするのが、被らのテクニックの第一段階です。



 ところが、ここで、イエス様は、本当に、自分の信仰が徹底しているかどうか自信のないクリスチャンを、不安がらせる目的でこの言葉を語られたのでしょうか。



 文脈に沿って読んでみれば、どなたにも明らかなことは、以下のことです。



 1.この御言葉は、なまぬるい、不熱心な信者をマークし、『まともな熱心な信者に変えよう』とする目的で、キリストが語られた言葉ではありません。



 2.そうではなく、羊のなりをして入り込んで来る、貪欲な狼のような偽預言者にだまされないように、とういう警告を発する目的でキリストは語られたのです。



 3.偽預言者たちは、羊のなりをしてやってくるので、『彼らの宗教活動や良い行ない、ライフスタイルを見ただけでは、狼だとは誰も気づかないのだ』とキリストは言っておられるのです。



  4.すなわち、「キリストの教会」が、主張しているように、行ないが熱心である人は、天国に入ることができ、マイペースの不熱心なクリスチャンは天国に入れないということであったなら、これは、誰にでも容易に見破ることができます。誰が見ても、『宗教活動に熱心な人とそうでない人は、明らかに判断できる』からです。「キリストの教会」の主張どうりだと、警告にならないのです。



 5.実によって彼ら、偽預言者を見破ることができる、と主がおっしゃった時、主は、どのような意味でこの「実」という語を用いられたのでしょうか。「キリストの教会」が主張するように宗教的に熱心な良い行ないのことでしょうか。そうではありません。偽預言者たちは、「主よ、」とキリストを呼び、キリストの名によって預言をし、聖書を教え、キリストの名を用い、悪霊を追い出すように見える宗教活動をさえなし、キリストの名を用い、たくさんの奇蹟的とも思える良い行ない(v.22 wonderful works)をしているというのです。



 ですから、主がここで、「実」という言葉で意味しておられることは、宗教的な活動や行動、熱心な行ない、全収入の十分の一献金や布教活動などではないことは明白です。それらが「実」であれば、だまされることになってしまい、警告とはなりえないからです。それら、つまり従順そう、敬虔そうに見える宗教活動や信仰生活が「実」であれば、判断を見誤ることになってしまいます。



 6.フロリダ聖書大学のシーモア博士は、次のような示唆を著書の中で示しておられます。(All About Repentance p.95)
 『「実」という言葉が、行動や、観察できる人格を意味していない、とするならば、偽預言者を見破るための「実」とは何なのだろう。・・・ルカ十二章一節で主は、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは、彼らの偽善のことです。」と言われた。また、マタイ十六章六節でも「パリサイ人やサドカイ人のパン種には注意して気をつけなさい。」と主は言われた。弟子たちがその意味を理解できないでいると、主は、説明を付け加えられた。それで、弟子たちはやっと理解した。彼らは、十三節で、そのパン種とは、パリサイ人やサドカイ人の教え(教理)のことであることを悟ったと書かれている。(十二節)



 従って、これらのことから、偽予言者を見破るために二つの事柄があることを教えられる。
 第一は、行動と観察しうる外見からは、彼らは偽善者であるということ。つまり、本当はそうではないのに、うまくごまかしている人々であるということである。
 第二は、彼らは、偽りの教え、すなわち間違った教理を信じているということである。



 7.次に「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいる」と主が言われた、「父のみこころ」とは何かということです。ヨハネ六章三十九、四十節によると「父なる神のみこころ」とは、御子、主イエスキリストを信じる者(信頼する者)がみな永遠のいのちを持つということであると書かれています。



 しかし、神のわざ、行ないはどうなのかと疑問を持つ方がおられます。



 ヨハネ六章二十八節を見ますと、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」という問いが、イエスキリストに投げかけられている場面があります。ここで主は、「キリストの教会」が主張しているように、救いの条件としての良い行ないのことや、悪い生活習慣を改善しなければならないとか、罪をもうおかさない一大決心をして、一定期間、聖い生活を送り、教会の指導者に認められなさいとか、水のバプテスマを受けなさい、あるいは、キリストに生活の細部にいたるまで服従しなさいなどというようなリストで答えられたのでしょうか。いいえ、そうではありません。



 主は、「あなたがたが、神が遣わした者(イエスキリスト)を信じること、それが神のわざです。」と言われたのです。



 8.とは言っても、二十四節以下で、主は「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができる」とおっしゃっているのだから、信じるだけでは不十分で、良い行ないがなければ、永遠のいのちが与えられないのではないか、と疑問に思う方がおられるかもしれません。イエス様がここでおっしゃった、行ないとはなんであって、なんでないかということを注意して見ることが大切です。イエス様は、七章の一節で、「さばいてはいけない」とおっしゃいました。偽予言者たちは、人を宗教活動の熱心さや、行ないの素晴らしさで判断し、人を評価し、見下していました。丁度、ボストン・ムーブメントのキリストの教会の信者が、他教会でバプテスマを受けたクリスチャンに向かって、「あなたは、本当に神の前で罪を悔い改め、全てを捨てて、神に従っていますか?違うでしょう。あなたの受けたバプテスマは、基準が低すぎます。『ボストン・ムーブメントのキリストの教会』が授けるバプテスマこそが、正規のバプテスマです。このバプテスマを受けていない人は、自称クリスチャンといえども、本当には救われていないのですよ。」というような発言をもししていたとしたら、そのことそれ自体が、パリサイ人たちがしていたことと全く同様の、主が禁止された「偽善者の行ない」なのです。



 また、だれでも「求める者」には、神様は、気前良く良いものを与えて下さるお方なのだと、主は続けておられます。(七節?十一節)ですから、広く一般的に誤って考えられているように、主は、永遠のいのちの祝福を、なかなか得ることができないもの、つまり、献身的に宗教活動を行う人々への御褒美として、エリートのみに与えるものだとはおっしゃいませんでした。「だれにでも」、意志の強い人にも、弱い人にも、熱心な人にも、そうなれない人にも、「求めさえすれば」神様は、御自身の恵み探さのゆえに、良いものはみな、ただでお与え下さるプレゼントだというのです。



 その次に、自分にしてもらいたいと思うことは、ほかの人にもそのようにしなさいという命令があとに続いています。この順序を逆にしてはなりません。すなわち、自分にしてもらいたいと思うことを、ほかの人にもそのようにできるようになったら、「聖霊」と「良いもの(救い)を」報い、ご褒美としてあげる、と主はおっしゃったのではありません。



 そして、次に、偽預言者たちは、自分の良い行ないを誇り、他人を裁き、もっともらしく語るというのです。けれども、それこそが、広い道であると言って良いのです。多くの人は、「あのような立派な、神のわざに(宗教的な活動に)熱心な人こそ、天の御国に入るのにふさわしいだろう」と考えるに違いないからです。でも、だまされてはいけません。いのちにいたる門は、狭く(自分の良い行ないに頼らず、イエスキリストを永遠のいのちの恩人と信じることだけによります)、その道も狭い(イエスキリスト御自身のみが道である ヨハネ十四草六節)のであって、それを見いだす者はまれです。と主は言われたのです。



 世界中の宗教を見てごらんになれば、わかりますが、ほとんどの宗教は、良きわざにたいする報いとしての救いを教えているではありませんか。「イエスキリストを信じること以外に救いはない」と言うと、そんな了見の狭いことを言うものじゃないと言われます。「お釈迦様でも、観音様でも、麻原さんでも、鰯の頭でも、何であろうと、ただ熱心に信仰してさえいればいいでのはないですか。そんな偏狭な、心の狭い主張をするものではないですよ。これだから、キリスト教はだめなんですよ。」そう言われかねません。そうです。永遠の滅びにつながっている広い道、広い門と、永遠のいのちに直結する狭い道、狭い門があるのです。



 偽預言者たちは、自分たちが、天の御国に入れないと宣告された時、自分の宗教的な業績や実績をもとに、自分たちが、天の御国にはいって当然であり、十分な資格があるかのように言います。彼らは、「私は、あなたの名によって、これこれの行ないをたくさん行なったではありませんか。」と不満げに、主に<ってかかるに違いないと主はおっしゃいました。しかしながら、真実は、主イエス様の恵みとあわれみのみによって私たちは、天国に入れて頂けるのだと聖書は主張しているのです。



 これらのことを注意ぶかく聞いて、だまされない人、このイエス様の語られるとおりに人生を築く人が、賢い人なのだということなのです。このことを聞いていても、行ないを誇る偽預言者たちにだまされ、人を表面的な宗教活動や、教会のプログラム、宗教指導者に従順になるということで自己満足をする人がいたり、又、他人の信仰を裁き、おせっかいをやいて、「あなたの目のチリをとらせてください」などと言っている人が、もしキリスト教書店に出没していたら、その人たちこそが、砂の上に家を建てている愚かな人たちだと言っても良いのではないでしょうか。



 9.もう一つ注意をしておかなければならないことは、次のことです。すなわち、「これらのことばを聞いてそれを行なう人は、永遠のいのちを持つことができる。」あるいは、「天の御国に入ることができる。」と主は言っておられるのではありません。聖書解釈の原則の一つに「聖書が語っていないことにも注意しなさい」という原則があります。この岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人のたとえは、主の語られた一つ一つのお言葉を全部遵守したら、永遠のいのちの救いがご褒美として与えられるのだということを教えるために、主が語られた箇所ではありません。



 自分の行いに頼らないで、救いの岩であるイエス様を信仰によって受け入れた人々は、その岩(キリスト)の上に家を建設するのです。その家を建てることが主の語られた、この一連の警告に従うことなのです。それらの人々は、岩の上に家を建てた人のように賢い人たちだというのです。そのことは、コリント人への第一の手紙3章11節から15節でも教えられています。正しい土台と共に、家の建て方も大切であることは、家を建てる資材に何を使うか注意するよう勧められていることからもわかります。しかし、土台は、他のものを据えることはできないと書かれています。その土台とはイエスキリストご自身のことなのです。(1コリント3:11)



 一方、砂の上に家を建てた人も、家を建設しているという意味では、同じです。彼らも良い行いを積み上げてはいるのですが、土台が、自分自身の熱心さであり、忠実さ、誠実さなのです。イエスキリストの恵みのみの上に家を建てているのではないのです。



 ですから、ここで、主の語られたことを実行する人とは、主の下さる「聖霊」と「良きもの(永遠の救い)」を無償で受けた人々が、自分の行いを誇る偽預言者たちにだまされないための主のインストラクションを実行していくならば、賢い人であると言うのです。しかし、主イエスキリストのみが私たちの救いの土台であることを無視し、パリサイ人や偽預言者に騙されてしまう人がいるならば、その人は愚かな人だというのです。



 律法主義的な人々や、宗教的良い行ないと活動を救いの条件として強調する偽教師たちにだまされると、いのちにいたる小さな門、狭い門を見過ごしてしまい、神の「恵みのみによる救い」を見失ってしまうからです。「騙されぬよう注意しなさい!」という主の警告があることだけは、私たちは決して忘れてはならないのです。



正統と異端・異教の間を見分ける

正統と異端・異教の間を見分ける
                                            牧師 池田 豊



 日本福音自由教会には、聖書を基磐として異端・異教の教えと異なる点を見分ける「ものさし」としての十二箇条が信仰の遺産として与えられている。しかし、教えの「風」はいつも手を変え、品を変えて吹き荒れ、光の天使に変装したサタンとその手下どもに、信仰を揺るがされる小羊がおり、時には、羊の皮をまとった狼に餌食にされてしまうことも残念なからあるようである。異端・異教に惑わされないために役立つかも知れないと筆者が日頃思わされている点の一部をあげさせて頂き、諸教会の牧会における参考資料としてお読み頂ければ幸いである。



見分け方(1)権威
 正統的な信仰と異端・異教とを区別する、もっとも基盤となるのは「権威」の問題であろう。我々が何をもって「正統」と主張するのかは、何に「権威」を認めるかにかかっていると思う。
 「聖書」に絶対的な権威を認めるのが我々の立場であるといえる。カトリック教会は、66巻の書物を「神の言葉」と認め、権威づけをしたのが「教会会議」であるから、「聖書」よりも「ローマ・カトリック教会」により絶対的な権威があるという。だから、その頂点に立つローマ法王の「おことば」や、カトリック教会会議での決定は聖書の主張よりも「神からの言葉」としてより信頼され、認められるということになる。その結果、聖書の中に「外典」を付け加えるような決議をしたり、「マリヤの無罪性」、「神父の独身制度」、「煉獄」などの聖書には教えられていない教理の発明を堂々とするのである。「免罪符」の考案などが行なわれたこともその延長線上にあったことは歴史の証言するところである。
 新正統主義者たちは、実存主義的哲学の影響を受け、人間理性と体験とを権威として位置づけ、客観的な権威としての「聖書」を否定している。
 「聖霊の第三の波」に代表される、福音派の中でカリスマ・ペンテコステ主義に影響された方々は「ロゴス」と「レーマ」を人為的に区別し、「1OO%の正確さはないが神からの言葉である」と自称する「レーマとしての預言」に権威をもたせようとしている。多くの場合、占い師のアドバイスに似たような指示が信者に向かって語られる。
 「小羊の群れ」も同様なことをしている。



 聖書解釈において、我々の立場は、歴史的、文化的、言語的正確さと文脈、言い換えれば、誰にたいして、いつ、どのような状況と目的で書かれた部分であるかという事を大切にして解釈する立場をとる。
 異端・異教に見られる「聖書」に対する解釈のアプローチは、ほとんどにおいて、客観的な背景や文脈は無視され、「観察と解釈」はいいかげんにしかなされず、いきなり「適応」がなされるといった特徴がある。その場合、その団体でしか通用しない私的解釈が、いかにとっぴであったとしても、そのような解釈をすることのできる独自性こそか被らの自己歎まん的「権威」として確立させられてしまうのだ。
 例としてあげれば、「ものみの塔」はその代表である。宗教組織とその組織を運営しているブレーンのみが「権威」なのである。その点では、ローマカトリック教会と類似している点があるといっても過言ではないであろう。
 皮肉にも、宗教組織を否定するという吉祥寺キリスト集会、ベック氏の教会論における独善的立場にもその傾向が見られる。



見分け方(2)人間理解
 聖書の立場では、人間は「アダムにあって罪をおかした」ので、生れながらの人は霊的に「死んだもの」であると教えられている。
 人間は具体的な「罪(複数形の)」をおかしたから「罪びと」になったのではなく、「罪びととして生れた」から罪をおかしてしまうのである。
 林檎の木は、林檎の実を実らせたので林檎の木になれたのではない。種の時から林檎の種だったので、林檎の実を実らせたのだ。人間の罪性と具体的な行為としての罪との関係もこれと同様である。
 しかし、神道の人間観をみても、サイババの教えをみても、生れつきの人間は、聖い、罪のない者で、まわりの環境のゆえに「ホコリ」や「ゴミ」がつくように、罪、穢れが付着するのだとする立場をとる。
 キリスト教の歴史においても、ペラギウス主義神学は、“アダムの罪は、アタムだけに影響している”のであって、人間は本来、生れつき、堕落前のアダムがそうであったように、聖いと教えたのである。アウグスチヌスとの間で激論が変わされ、事態の収拾に苦慮したカトリック教会は、418年のカルタゴ会議を開き、431年のエペソ会議でペラギウス主義を異端として退けた。
 しかし、その後、修正案として、半ペラギウス主義が、羊の皮をかぶった狼(マタイ7:15)のように教会に入り込んできた。カトリック教会は半ペラギウス主義を公の立場として採用することとなり、それ以降、カトリック教会の立場は、人間はアダムの罪の結果、肉体的、精神的堕落は受け継いだが、「意志」的部分は全く影響を受けていないと考えるようになったのである。その神学の延長線上「人間の意志を、神の救いの業に服従させ、生活改善と努力によって、救いの完成に協力させる」手段があるとし、そのひとつとして、必然的ともいえる形で考案されたのが「免罪符」である。
 ペラギウス主義は、人間を「健康」であると理解し、半ペラギウス主義は、「病気ではあるが、神に協力し努力しさえすれば健康になれる」と理解する。しかし、聖書によれば、生れながらの人間は、神の御前では、「死んだ者」であると宣告されている。(エペソ2:1?5)



見分け方(3)救いの条件、
 人間が、霊的に健康か、病気か、死んだ者であるか、いずれに解釈するかで救いの教理が定まってくる。
 ペラギウス主義的な異端は、神の義の基準(律法)をさししめされた人間は、努力してそれらを守ることによって救われると「行ないに対するご褒美」の救いを主張する。現代ではユニテリアン系の神学である。
 半ペラギウス主義的な立場は、救いの方法は神によって備えられており、恵みによって救いが始められるのだけれども、人間が聖霊に協力して、努力を続けなければ、救いは保持されないと主張する。ちょうど、ガラテヤ教会に入ってきた律法主義者たちのように、霊において始まった救いは、神に喜ばれる義の基準(律法)を守ることによって、肉(生活改善と宗教的善行)において完成されるという立場をとる。この立場は現代ではボストンムーフメントのキリストの教会や、セブンスデー・アドベンチスト教会系の救いの教理などにみられる。それに対してパウロはガラテヤ2:16、3:1?3で「救いは神の恵みだけによる」と反論している。
 ある人が断崖絶壁から滑り落ち、意識を失い、途中の灌木に引っかかり、絶体絶命の状況にあるとしよう。この状況をたとえとして、前述の三つの神学的立場を説明してみることにする。



 ペラギウス主義の神学では、主イエス・キリストが救助のために上からロープを垂らしてくれるという。そのローフは「神の恵み」と理解されるというのだ。しかし、そのロープをよじのぼってくるのは、その人の責任であり、努力し、力のある人だけが救われるという。



 半ペラギウス主義的神学の教えでは、主はロープを垂らしてくれるだけでなく、声をかけ、元気を回復させてくれ、その人がロープにつかまったら、引っぱり上げようとさえしてくださるという。しかしながら、人間がロープにしっかりとしがみついていなければ、おっこちるという。
 恵みにより「救い」は開始されるのだが、「救いの保障」は人間の側での善行とクリスチャンらしい生活改善にかかっているというのだ。



 主の「恵みのみ」による救いの立場は、主が声をかけ、意識を回復させてくださり、救いの招きに対し、我々が「救って下さい、宜しくお願いします」というなら、主はロープをつたって哀れな罪びとのところまで降りてきてくださり、抱きかかえ、救い出してくださるのだと主張する。
 聖書は、エペソ2:8?9、テトス3:5、ローマ4:2?5、使徒13:38?39、ピリピ3:12などの個所で人間に如何なる良きわざをも「誇らせない」ために、救いは完全に「神の恵み」のみによると主張している。主のみが我々の救いの磐であり、保障であられる。罪びとにできることはただ一つ、主の救いの問いかけに対し、「こんな私ですが、宜しくお願いします。」と信頼を表明する応答のみなのだ。そしてそれこそが救いの唯一の条件である。(ルカ23:4O?43)



 しかし、異端や異教の教えは、主イエス・キリストの十字架と復活に示された「神の恵みのみ」「信じるだけで永遠に救いか保障される」とは決して教えない。主の十字架以外に「誇り」とするものを必ず付け加える。そのような教えは、主の十字架の御業だけに信仰をおかず、自分の「信じ方」そのものや、神に従う決意と意志の強さに信頼するよう働きかけるのである。



メタノイア⇔悔い改めについての混乱

メタノイア⇔悔い改めについての混乱



AGM The Abundant Grace Ministries     池田 豊



 主イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」(マタイ9:12?13)と言われました。



 盲腸炎の痛みで、額に脂汗を浮かばせ、苦悶に顔を歪めた人が一人、病院にやって来ました。長時間またされ、やっとのことで医師と会うことがゆるされ、診察室に入りました。



 その時、医者が、このように語ったとしたらどうでしょう。「いやあ、痛そうですなあ。どうしたんですか、いったい。何? おなかが痛い? それは、あなたの不摂生が悪いんですよ。涙を流して、後悔することですな。まず、バランスのとれた食事が何よりも大事、そして、適度な休養と、運動です。それが身につかないようじゃ、うちの病院に来ても、だめですな。
 かわいそうですから、まあ、特別にあなたには、こうしてあげましょう。」と言って、この医者は、おもむろに看護婦に命じて、手術用のメス、針、そして糸をもって来させました。そして、こう言葉を続けました。「あんた、これを貸してあげますから。家に帰ったら大きな鏡をとりだして、お腹を出し、下腹の、そう、ちょうどおヘソの右下あたりを映してみなさい。そして、このメスでエイッと切り込む、少々赤いものがでるが、あまり、気にしない、気にしない。ティッシュか何かで、拭けばよろしい。えっ、何? 痛いだろうって? そのくらいは我慢しなさい。そして、中から化膿している盲腸が見つかったら、切り取りなさい。後はネ、傷口をこの針と糸で縫っておきなさい。くれぐれも消毒は、しっかりやるようにね。成功を祈る。グッド・ラック。



 それでね。エエー、一、二週間もしたら、痛みも引きはじめるだろうから、そうしたら、もう一度、当病院に来なさい。入院の手続きをしてあげますから。そうそう、それまでに、私が言ったバランス食、適度な休養、そして運動のライフスタイルをしっかり、身につけておくようにね。そうでないと、入院しても、他の人に迷惑がかかるし、あなたが、本当に、自分が不健康になった原因を徹底的に反省し、悔い改めているかどうかがわからないのでね。そこのところがしっかり、徹底してマスターされていないと、当病院にとっても迷惑ですからな。模範的ないい入院患者になってくださいね。よろしいですか。」 



 現実的にはこのような医者はいないだろうと思いますが、霊的な病、罪の問題になると、この医師のような発言をする宗教家は世界中にたくさんいるようです。
 多くの場合、「悔い改め」という宗教用語が用いられ、創造主の恵みと、赦しを頂くための必要不可欠な条件として、罪びとが、「罪を認め」、「深く悲しんで」、「もう決して罪を犯さないと強く決意し、その罪と手を切る」必要があると主張します。一言で言えば、自分の意志の決断でなされる生活変革が、救いの条件であると教えるのです。 



 幸福の科学という新・新興宗教団体の代表、大川隆法という人は、自分の罪を悔いて、改める、自己反省と善の実践が救いの条件であり、前世からのカルマを変えるために必要不可欠であると教えています。 



 統一協会の文鮮明も、蕩減復帰(とうげんふっき)の原理という言葉で教えています。先祖からの悪い因縁や、自分の罪を悔い改めなければならないということです。そして、徹底的に罪を憎み、罪を犯さない者となるために、文鮮明の指導を受け、善行を積み上げなければならないというのです。 



 オウム真理教の尊師、麻原彰晃こと松本智津夫も「えんじょい・はぴねす」という印刷物を通し、「麻原尊師の運の良くなるザンゲコーナー」で真の悔い改めについて具体的に教えています。1993年の1月号では、妄語の戒について以下のように教えています。
 「妄語とは、二種類の嘘を指します。まず、第一の嘘は積極的嘘、…もう一つは、沈黙をもって、正しいことを言わないという嘘の二種類があります。…さあ、あなたも、これからは、ついた嘘をザンゲし(悔い改め)、タマスのエネルギーを取り払い、真実を語る実践を行いましょう。」
 そして、オウム信者は、善のみを実践する者となるために、出家し、サティアンでの修業に励むことを指導されるのです。



 キリスト教を背景とし、「悔い改め」を似たような形で教えているグループは少なくありません。



 一例をあげれば、エホバの証人を指導しているものみの塔は、罪の指摘を非常に徹底して教えます。彼らによれば、輸血をすること、誕生日を祝うこと、選挙の投票をすることなども罪です。ものみの塔が、聖書の教える罪と解釈しているすべての罪を悔い改め、意志の決断でエホバに忠誠を尽くすことが救いの条件であると教えています。



 モルモン教徒も、捨てるべき罪のリストに多少違いはありますが、基本的には罪を犯さない決意を救いの条件としているという点では同じです。



 ボストン・ムーブメントのキリストの教会でも、救いの条件として、「罪の悔い改め」と指導者への従順が徹底して教え込まれます。生活改善、自己変革が見られない信者は、信仰が不純であるとみなされます。



 福音主義の教会の牧師や伝道者でも、「悔い改め」を救いの条件として教えておられる方々がいるようですが、その具体的な意味について注意深く拝聴してみますと、上記した宗教指導者たちの教えと五十歩百歩、あまり、変わらないようなことを言っておられるように聞こえるメッセージもあります。



 日本語で「悔い改め」と翻訳されてしまったために、この混乱が起こってしまったのではないでしょうか。



 筆者は、神学生時代に、ギリシャの元アテネ市長の娘で、コンスタンチーナという学生に、この日本語で「悔い改め」と訳されてしまった「メタノイア」という言葉の意味について、質問したことがあります。
 「メタノイア」という語は、はたして悪いことをしていると罪に気づき、すまないと思い、悲しみ、もう決してしないという意志の決定をあらわす単語なのかどうか問いました。彼女は「メタノイア」自体には、そのような意味は全くないと言いました。確認のために三度私は聞いて、自分の聖書に、コンスタンチーナが言ったことを彼女に頼んで書いてもらいました。
 彼女によれば、「メタノエオ」とは、今まで比較的良いことばかりしてきた人たちが、「正直者がバカをみるのはもうたくさんだ」というので、これからは悪いことをしようと考えを変える時にも、「メタノエオした」と使うことができる単語なのだそうです。
※「メタノイア」は名詞。「メタノエオ」は動詞。



 旧約聖書で用いられている、新約のメタノエオにあたるヘブライ語は、「ナハム」という言葉ですが、筆者が学んだフロリダ聖書大学のディック・シーモア博士によれば、43回用いられているそうです。
 皆さんは、その43回のうち、もっともナハム(悔い改め)を多くしたのは誰だと思われますか。ダビデでしょうか。ソロモンでしょうか。もし、日本語に「悔い改める」と訳されたところのギリシャ語のメタノエオが、罪に背を向け、罪を犯さない決心をするという意味だというなら、当然、ヘブライ語の「ナハム」も罪を悔い改め、罪を犯さない決心をしたという意味になってしまいます。しかし、もし、そうだとしたら、以下のことはどう説明がつくのでしょうか。



 ヘブライ語のナハム、シュブやギリシア語のメタノエオ、メタノイアが英語の欽定訳(キングジエームズ訳)で英語に訳された訳語は以下の通りです。
 repent(45回), repentance(26回), repented(32回), repentest(1回)
 repenteth(5回), repenting(1回), repentings(1回)



 その内、英語の欽定訳旧約聖書では「ナハム」という語が43回、「シュブ」という語が3回、repent悔い改め(リペント)という訳語に英訳され用いられています。
 全部で46回ですが、その主語はだれか、つまり、誰が旧約聖書中、一番多くリペントしているかということになると、多くの人々の期待が裏切られます。



 この46回の内、人間が主語でリペント(悔い改め)しているのは、たったの9回しかありません。なんと、その他の37回は、すべて天地を創造された主なる神が、リペントした、あるいはリペントされなかったと記されているのです。
もし、この英語でリペントと訳された言葉の意味が、「罪や悪事、悪習慣を悔いて、改め、もうそのようなことをしない決心、つまり、罪を犯さない決心をする」ということだったとしたらどうでしょう。私たちの神さまは、大変意志薄弱な、罪ばかり犯しては、悔い、もういたしません、と詫びてばかりいる神だということになってしまいます。



 実は、欽定訳に聖書が翻訳された頃、repentという単語そのものには、現代英語の用法のように「罪や悪事を悔いて、改める。後悔する」という意味などなかったのです。だから、翻訳者は、「神が悔い改めた(リペントした)、あるいは、悔い改めない(リペントしない)」と平気で訳していたのです。



 創世記の6章7節には、創造主がノアの家族だけを残し、その他のすべての人々を滅ぼされる際の記述が記されています。新改訳聖書では、こう訳されています。



 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。
創世記6章7節



 この翻訳ですと、創造主があたかも人間を欠陥品に造ってしまったことを後悔して、悔いているような印象を読者に与えます。この訳ですと、私たちの創造主が、「しまった!変な粗悪品を造ってしまっちゃった。ごめんなさい!やり直します。悔いて改めます。」と残念がっているような意味にしかとれません。
 ところが、ここで 悔やみ、残念に思ったという意味の日本語に訳されてしまったヘブライ語が、ナハムという語なのです。ナハムという語の語根は5:29と同じ言葉で「慰め」の意味です。先ほど申しましたように英語のキングジェームズ訳(欽定訳)聖書の旧約聖書で、Repent(悔い改め)と訳されたのは、ナハムという語で43回あります。シューブという語がRepentと訳されたのは3回です。合計では46回あります。



 誰が悔い改めているのかと主語を見てみますと、前述しましたように 37回は、創造主がRepentしたり、しなかったりしているのです。そして、人間が主語で使用されているのはたったの9回だけです。



 筆者の恩師、高木慶太先生は、創造主がナハムされた、あるいはされなかったと記されている箇所を研究なさり、「ナハムしない」と書かれている聖句は以下のように8箇所あり、主が「ナハムされた」ことが記されているのは29箇所であることを筆者に教えてくださいました。



 創造主は「ナハムしない」と書かれている全8箇所
 1. 民数23:19 神は・・・悔いることがない
 2. 1サムエル15:29 主は・・・悔いることもない
 3. 1サムエル15:29  この方は・・・悔いることがない
 4. 詩篇110:4  主は誓い・・・みこころを変えない
 5. エレ4:28  わたしは悔いず、とりやめもしない
 6. エゼ24:14  わたしは思い直しもしない
 7. ホセア13:14  憐れみ(ナハム)は私の目から隠されている
 8. ゼカ8:14  わざわいを思い直さなかった



 また、創造主が「ナハムされた」と書かれているのは29箇所あり、このヘブライ語の「ナハム」は英語ではrepentと訳されていますが、新改訳では以下のような日本語に翻訳されています。



 ?思い直す:17回  ?憐れむ、憐れみ:8回  ?残念に思う:1回 
 ?悔いる、悔やむ:3回



 これらの箇所は、創造主が悔いて、「あんなことしなけりゃよかったな?と思った」という意味ではありません!そうではなくて、哀れに思われた、かわいそうに思われた、惜しまれたの意味もあるのですが、根本的には、創造主のお考え、あるいは主の物事の対処の仕方、対応の仕方についてのお考えが変わる(考えが変わった)ということを意味するのです。



 新改訳聖書で、「ナハム」を悔い、後悔するというような意味に訳してある箇所を具体的に見てみましょう。



 1. 創世記6:6  人を造ったことを悔やみ(新改訳)
 2. 創世記6:7  人を造ったことを残念に思うからだ(新改訳)
 このような訳では、前述しましたように、私たちの創造主が自分の創造の御業に欠陥があったことを苦にして、悔やみ、自己反省し、やり直しますと言っているかのごとく受けとられかねません。しかし、それでは、混乱を読者に与えてしまうのではないでしょうか。むしろこの箇所の正しい意味は、当初、創造主が人間を造った目的を変更することができないので、罪を犯し、堕落してしまった人類を滅ぼすことに主のお考えが変わったという意味に理解すべきだと筆者は思います。



 3. 1サムエル15:11  私はサウルを王に任じたことを悔いる
 4. 1サムエル15:35  主もサウルをイスラエルの王に任じたことを悔やまれた



 これらの箇所も、創造主がサウルを王様にしたことを後悔し、「ごめんなさい」したという意味でも、「失敗しちゃった。悪い!」とおっしゃり、悔いた、悔い改めたという意味でもありません。また、当初、人間を創造された時の創造主の御心が変わったとか、サウルを王に任じられた目的が変化したということでもないのです。そうではなくて、むしろ、初めの創造主のご計画、ご目的を主は、ナハムすること(考えを変え変更すること)ができないため、しかたなく、人間を取り扱うその取り扱い方法を変えざるをえなくなった、「ナハム」(考えを変える)せざるをえなくなった、ということを意味するのです。



 「人間のほうが主に対し、罪をおかしたゆえに、つまり人間が、態度を変えてしまったので、主も人への取り扱い方を変更せざるをえなくなった」というのが、本来の意味です。サウル王の場合も創造主の不変性のゆえに、人の心変わりと背信の結果、しかたなく主の態度や処置が変わるという意味です。そのように理解しなければ混乱が生じてしまいます。決して創造主が心情的に後悔したとか、「悪かった、失敗しちゃった」とかいうような悔悛や、悔い改めの意味に理解してはならないと思うのです。ナハムという語そのものには、そのような意味はありません。



 あとシューブという語が英語でrepentと訳されているのは3箇所だけあります。



?1列王記8:47  ?エゼキエル14:6  ?エゼキエル18:30



 この用例を見ますと主語はすべて人間です。しかも異邦人や未信者ではなく、ヤハウェとの契約関係をすでに結んでいるイスラエルがその契約を破棄してしまった時のみに用いられています。



 シューブの意味は、もとに戻る、帰る、回復するという意味です。創造主を信じ、契約関係に入れられた人々が、創造主を裏切り、契約を破棄しているような状態にあるとき、その罪から離れ、主のもとに戻り、帰ることの必要を教えているのが、これらの箇所です。この意味では、クリスチャンが主のもとを離れ、罪深い生活にどっぷりと浸かってしまった場合、その生活を悔い、反省して教会の交わりに立ち返る必要があることと共通すると言って良いでしょう。この場合、具体的に数えることのできる複数形の罪の悔い改めについての教えだと申し上げて良いと思います。



 詩篇という個所は、人間の感情が非常に豊かに表現されている書です。ところが、この詩篇には、たった4回しか英語の聖書ではリペントという単語は用いられておりません。しかも、その4回とも、主語は全て、旧約聖書の創造主なのです。つまり、詩篇の中でリペント(悔い改め)しておられるのは創造主なる神様だけなのです。これだけみてもナハム(リペント)を「自己反省し、悔いて改める」という意味に訳したり理解してはならないことがおわかりいただけると思います。



 また、人間に道徳的な示唆を与え、他者との人間関係においても、神の知恵とみこころを教える最良の書といえば、クリスチャンならどなたも、箴言だとおっしゃるのではないでしょうか。ところが、この箴言には一度も、リペント(悔い改め)という語は用いられていないのです。



 ヘブライ語のナハムにも、ギリシャ語のメタノエオにも、又、欽定訳聖書が翻訳された当時の英語のrepentリペントという語にも、その語自体には、本来、「罪や悪事を悔いて、改める」というような意味など全くなかったからです。



 また、もう一つ、どなたもあまり気づいておられない事実があります。それは、聖書の中には、「メタノエオ」という単語が、「罪をメタノエオする」という形で表現されている聖句が一つもないということです。コンコルダンスで調べてご覧になれば、誰でもおわかりいただけると思います。日本語の新改訳聖書ではエレミヤ8章6節で、「私は注意して聞いたが、彼ら(ユダヤ人たち)は正しくないことを語り、『私は何ということをしたのか。』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。」と記されており、悪行をナハムするという表現が悔いると訳されておりますが、この場合も神との契約に入れられていたユダヤ人たちが、ヤーウェなる神に立ち返る場合のケースです。



 興味深いのはエレミヤ書の18章8節です。新改訳聖書ではこう訳されています。



 「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。」ここで悔い改めるならと翻訳された言葉はナハムではありません。逆に、創造主、ヤーウェなる神がナハムしておられるのです。新改訳聖書は、ここでは「悔い改め」などと訳さず、「思い直す」と正しく翻訳してくださっています。ナハムを「悔い改める」と訳してしまってはとんでもない誤解を読者に与えてしまうことの良い例です。民が悔い改めるならと訳された部分は、実は、ナハムではなくシューブです。シューブの意味は、もとに戻る、帰る、回復するという意味です。これは神との契約関係に入れられていた神の民が神から離れてしまった場合に、神に立ち返り、元に戻るようにというすすめがなされる際に用いられる時の用語です。



 ところで、ユダヤ人たちのように、アブラハムの子孫として神との契約関係に入れられた経験などはない、異邦人の未信者たちが、信仰によって永遠の命を受けとる際の前提条件として、「罪や悪習慣を悔いて、改め」その上で、イエス・キリストを信じるようにと彼らを教えさとしている聖句は一つもありません。
 つまり、具体的な数えられる(複数形の)罪の自己変革を、クリスチャンとなるための前提条件のように教えている聖句など、新約聖書には一カ所もないのです。



 多くの人々が救いに導かれるのに最も多く用いられているのは、ヨハネの福音書ではないでしょうか。しかし、そのヨハネの福音書の中には、一度もメタノイア、メタノエオ(repent)という語は使用されていないのです。



 では、罪についてメタノエオするとはどういうことを意味しているのでしょうか。聖書が教える真のメタノイアとは何なのでしょう。
 メタという言葉は、アフター(?の後で)という意味の語です。そしてノイアという部分はヌースから派生した語で英語のマインド、つまり「考え、思い」を表す言葉です。従って、メタノイアの純粋な意味は、「考えを後で変える、思い直す」という意味です。ですから、今まで良いことばかりしてきた人が正直者はバカを見ると考えを変えて「これからは、ずるがしこく悪いこともしよう」と思うときにもメタノイア、メタノエオを使用しても良いのです。もちろん後悔、反省し、道徳的に悪を退け、これからは善をするという決断をなす場合にもメタノエオを使用することはできますが、その正反対の場合にも使用できるのです。その意味は文脈が決定するのです。メタノイア、メタノエオ自体には、道徳的な善をする決断や後悔、反省するといった意味は、直接含まれてはいません。



 ですから、罪赦され、永遠の命を得るために必要な「考えの変化」とは、自分の様々な悪や罪、悪習慣を自分で改善する決断を意味しているのではなく、私たちの罪そのものについての理解や、正しさや義とよばれることへの理解、そして、裁きということについての理解、考え方を変えなければならないことと関係しているのです。医者に診察してもらい入院を許可してもらう前に、患者に対し、自分で病巣のもとを手術し除去するよう命令する医者などいないのと同じです。健康な人に医者はいらないのです。自分で自分を治せない病人こそ医者のところへ行くのです。手術は医者がしてくれるのです。患者は全身麻酔をかけられ、手術にまったく自らの意志で協力できなくても良いのです。 
 ヨハネの福音書16章7節?14節で、主イエス様はとても不思議な言葉を語っておられます。



 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去っていくことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去っていかなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者が、さばかれたからです。
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方をすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
ヨハネ16章7?14節



 ここで主イエス様は、生まれつきのままの私たち人間の理解には、誤りがあることを前提に語っておられます。私たちの考えは少なくとも3つの領域で間違った考え方をしているというのです。それらは、?罪についての考え、?なにが正しいことなのかという義についての考え、そして?さばきということについての考えです。主イエス・キリストが全人類の罪(複数形)のために十字架で死んでくださり、墓に葬られ、三日目に死からよみがえられ、天に昇って行かれることを通してはじめて、真理の御霊である聖霊が遣わされてくるのだと主は説明しておられるのです。この真理の御霊が来られると世の中の人々の考えを根本から変え、誤りを正し、真理に導いてくださるというのです。そして、この聖霊は、私たち人間のがんばりや、真面目さ、熱心さや意志の強さ、改善できたよい行いなどの栄光を褒め称えるのではなく、イエス・キリストの栄光を現わされるというのです。



 罪とはいったい何なのでしょうかと問いかければ、おそらくほとんどの宗教は、複数形の罪を列挙することでしょう。そしてそのリストは、ほとんどが共通したものや似たものとなっていることでしょう。人間は、数えることのできる複数形の罪を問題にします。悪い考えや人を傷つける言葉、ウソをつくこと、そして他の人に迷惑をかけ、良心を痛める様々な悪い行い、悪習慣などがそこには含まれることでしょう。ところが、日本語の聖書でははっきりわからないのですが、ここで用いられている聖霊が示される「罪」ということばは、複数形ではなく単数形なのです。主イエス・キリストが十字架におかかりになるとき、本来は私たちが責任を問われるべきだった複数の罪の罰を、私たちに代わって引き受けてくださるので、聖霊は、このイエス・キリストを救い主として受け入れない不信仰こそが「罪」であることをお示しになるということを聖書は告げているのです。



 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たち(聖書を筆記した人々)にゆだねられたのです。
2コリント5章19節



 聖霊がお出でになると、人々の罪についての考えを正されるというのです。それは、罪は人間が涙を流して、悔い、償いをなし、これからはもう決してこのようなことはいたしませんと決意することで赦されるようなものではないと考えが変わらなければならないことを教えられるのです。言い換えれば、私たちの犯している罪は実は、私たち自身の手におえるものではないのだ、と認識を変えなければならないのです。それが救いに必要な罪についてのメタノイア(考えを変えること)です。この私たちの複数形の罪を、全部ご自分の身に肩代わりし、身代わりとして死んでくださった、永遠の命の恩人であられる、主イエス・キリストを信じ受け入れるなら、私たちは、罪赦され救われるのです。しかし、この救い主イエス・キリストを拒絶し、信じないならば、その不信仰が罪になるのです。このイエス・キリストを救い主と信じない罪が単数形の罪であり、真理の御霊である聖霊が示してくださる罪についての理解だといってよいのではないでしょうか。



 次に、何が義であるかということについてですが、おそらくほとんどの宗教は似たり寄ったりのリストを私たちに示してくるだろうと思います。正しいこと、良いことを教えない宗教などはあまりないでしょう。人間がより良い人、善人となるための教えや模範、努力目標を宗教は提示します。しかし、それらは不完全であり、誤りだと主イエスさまはおっしゃるのです。聖霊が遣わされると、なにが正しい善で、義であるかということについて、私たちの考えを変え(メタノエオ)させてくださるというのです。私たちが提示できる最善、最良の良い行いや自己変革も創造主の御前では、実はまったく汚れたものであることを聖書は教えています。イザヤ書に次のような言葉があります。
 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。
イザヤ書64章6節



 私たちが精一杯で成した最高の善や正しさ、正義であっても、天地宇宙を造られた聖い、創造主の御前では、ヌルヌルでカビだらけになった、腐敗臭漂う、ボロ雑巾に等しいというのです。私たちは「義」について考えを変えなければ、決して天国に入れていただくことはできません。永遠の命を受けることはできないのです。イエス・キリストが私たち罪びとの身代わりになって十字架で死んでくださり、三日目に死からよみがえられたので、私たちにも永遠の命が無償で提供されたのです。そして、主イエス・キリストは天に帰られ、私たちの弁護人となってくださるので、私たちが罪を犯し、自分でどうしようもない状態にあるときも、私たちが確実に天国に入れていただくのに必要な、創造主とおなじ聖さの「義」、正しさが無料で与えられていることの確証となってくださっているのです。この主イエスさまの弁護が私たちにとっての唯一の「義」であるというのです。「義」について私たちは、自分の自己反省や努力で償いをなすこと、あるいは良い行いを自分の義として誇ることから、考えを変え(メタノエオし)、イエス・キリストの十字架と復活、昇天によって提供されている、私たちの罪を赦し、確実に天国に入る資格となる「神の義」のみに信頼する必要があるのです。そのことを真理の御霊である聖霊が私たちに教えてくださるというのです。



 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと、人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
テトス3章4?5節



 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神の御言葉は私たちのうちにありません。私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは(信じ救われたクリスチャンたちに対して)、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、御父の前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。このお方こそ、私たちの罪のための、―私たちの罪だけでなく、全世界のための、―なだめの供え物なのです。
1ヨハネ1章8?2章2節



 次に私たちは「裁き」についても考えを変えなければないことを聖霊は示されると言うのです。この世の人々の「裁き」についての共通する理解は、自業自得、因果応報ではないでしょうか。自分の罪や失敗は自分で責任をとらなければならない。裁かれて、償いや罰、呪いや祟りを受けなければならない、というのが一般的な理解であり、ほとんどの宗教の教えには、根幹にこの「裁き」についての考えがあります。ですから、ある宗教では以下のようなことをまことしやかに教えるのです。



 あなたの現在の「不幸」は、あなたが何か悪いことをしたか、あるいは親やご先祖が悪いことをしたので、その罰があたったのです。その悪い因縁を断ち切るためにあなたは償いをしなければなりません。ここに霊験あらたかな壷、印鑑、多宝塔があります。これらを精一杯の献げものをしておさずかりし、しっかりと供養をなさい・・・。



 このように人間が自分のした罪の裁きから逃れるためつぐないの業に励まなければならないと教える宗教は数多くあるのです。キリスト教の看板を出しているところでも、人間が自分の罪を懺悔し、悔いて改める、自己改善をすることで、神の裁きを逃れ天国や楽園に入ることができるのだと教えるグループは多くあります。



 しかし、聖霊がお出でになると「さばき」について私たちの考えを変えさせてくださるのです。私たちが自分の罪を自分では償いきれないので主イエス・キリストが遣わされたのです。主イエス・キリストが私たちの身代わりとなり、当然私たちが受けるべき「さばき」を受けて下さったので、主イエスさまを救い主と信じる人は裁かれなくともよいというのです。私たちの罪をあばき、告発しているのは実は、創造主なる神なのではなく、サタンだと言うのです。しかもそのサタン、悪魔が裁かれ、永遠の滅びに投げ入れられるのです。それこそが、聖霊なる神によって示される「さばき」についての真理なのです。



 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネ3章16?18節



 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ローマ8章1節



 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は罪を知らない方(罪を犯したことのない、完全な義をお持ちだったイエス・キリスト)を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、(この方のおかげで)神の義となる(創造主なる神様とおなじだけの聖さ、正しさを持つ者とみなされる)ためです。私たちは神と共に働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにして下さい。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに今は恵みの時、今は救いの日です。
2コリント5章19節?6章2節



 私たち日本人は、鰯の頭も、奇岩や死人、お客様でさえも神様にしてしまいます。そして、信じる真面目な心さえあれば何を信じてもみな同じだと思いやすいのです。しかし、私たちは創造主なる神と人間がこしらえ、あるいはまつり上げた神々とは違うのだと考えが変わらなければなりません。そして、神様は私たちの罪を見つけ次第、ジャイアントハエたたきのようなものを振り下ろして罰をあたえるようなお方だと考え、呪いと祟りにビクビクしている方がもしおられたら、そのような神についての考えを変えなければなりません。創造主は罪を犯し続けている私たちを憎み、裁こうとしておられるのではなく、主イエス・キリストの故に赦してくださる愛のお方であると考えを変えなければならないのです。



 また、イエス・キリストを単なる良い行いについての教えを語った教師であるとか、よいことの模範を示してくださったお方だと理解するだけでは不十分です。大川隆法さんやオウム真理教の麻原さんもイエス・キリストをそのような意味では信じ、尊敬しておられるようです。しかし、そのような考えは、変えられなければならないのです。イエス・キリストこそ私たちの罪の罰を身代わりに受けて下さった唯一の救い主、永遠の命の恩人であると考えを変え、このお方に信頼しなければならないのです。



 罪は、私たちの手におえるようなしろものではありません。そうではなく、罪をおかしたことのない主イエス・キリストが十字架で完成してくださった身代わりの死以外には、私たちの罪の赦しはないというのが聖書の教えです。



 このように考えが変わることこそ、聖書が教える「救い」に必要なメタノイアなのです。



 ところが、イエス・キリストを信じ受け入れる前に、自分で罪を悔い改め、自己改善することを救いの必要不可欠の条件として教える人々は、必ず、悔い改めが徹底しているかどうかということを問題にし、本物のクリスチャンかどうかを見極めるリトマス試験紙とします。しかし、その場合、筆者の心には少なくとも次のような3つの疑問がわいてくるのです。それらは、・・・



 ?私が日々おかしている罪の内、何パーセントが改善できたら、徹底した悔い改めをしたことになるのだろうか、合格点をもらえるのだろうかという疑問。一つだけでも改善できたら良いのでしょうか。
 ?そして、次に、合格点に達していることをいったい誰が(創造主や聖霊という答えではなく)認証、認定してくれるのかという疑問。自己採点で良いのでしょうか?自己採点でよいとすれば、几帳面で真面目な人であればあるほど、救われにくく、おおざっぱで、いい加減な人ほど救われやすいということになりはしないでしょうか?
 ?また、もし私が、必死の努力で自分の罪を100パーセント犯さない状態をついに達成できたとしましても、今度は、罪をおかさないその状態を何日間、いや、何分、何秒間維持できたら、「救い」に至る徹底した悔い改めをしたことになるのだろうかという疑問です。



 上記のような疑問だらけの私のような者のために、幸い、聖書には次のような慰めに満ちた御言葉が記されているのです。



 この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血(血統)によってではなく、肉の欲求や人の意欲(人間の側の努力や自己改善の意志の強さなど)によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ヨハネ1章12?13節



 聖書の御言葉が教えるとおり、私たちは、自ら、罪の性質を自分では変えることができないことを、悟らなければなりません。そして、主イエス・キリストの十字架でなされた身代わりの死と、復活の故に、「信じるだけで救われる」と伝えられている良い知らせを自分のこととして受け入れることです。それ以外に、私たちが創造主の御前で「義」とされる方法は、ないのです。そして、その救いは、本来、受ける資格がないのにいただくことのできる、特権なのです。



 この特権を受けるために必要な、考えの変化こそが、メタノイアの意味するところです。もし、それとは違う意味で、救いの条件を理解しておられる方がいらっしゃいましたら、是非この機会に、永遠の救いを受ける条件としての「悔い改め」について、今までとは違った考えをなさるようお勧めしたいと思います。



主イエスキリストの恵みの福音



聖書の福音(すばらしいグッドニュース)を簡単に説明すれば以下のようなものになります。
1.天と地を造られた真の創造主なる神は、あなたを愛していらっしゃいます。
2.ところが私たちには、創造主を無視して自分勝手に生き、自分も回りの人をも傷つけているという現実(罪)があります。
3.その責任を私たちがひとりひとり問われて当たり前なのに、イエス・キリストという罪の無い方が、十字架にかかられ、血を流して、私やあなたの代わりに償いをなしとげてくたさったと聖書は教えています。また、キリストは三日後に死からよみがえり、永遠のいのちを無償の贈物として私たちに提供しておられます。
 このイエスキリストというお方をあなたが、ご自分の救い主(永遠のいのちの恩人)として信頼するとき、すなわち「神様有り難うこざいます。こんな私ですが宜しくお願いします。」と申し上げるだけであなたの罪はゆるされ、心がきよめられ、永遠の命がプレゼントとして与えられるのです。良い行いや宗教活動の熱心さに対する報いとして引き換えにもらうということは決してできません。
聖書の言葉
「渇いている者は来なさい。誰でも、いのちの水がほしい者は、
それをただで受けなさい」
黙示録22章17節
 いかがでしょうか。 この素晴らしい神の愛をあなたも御自分のものとなさいませんか。キリストを救い主として信じ、創造主に「ありがとうこざいます」と申し上げませんか。以下の祈りをどうぞ、あなたも創造主なる神に向かって、声に出して祈ってみて下さい。
イエスキリストを信じ受け入れるお祈り
 天の神様、私はわがままでした。あなたに対して罪をおかし、他の人を傷つけ、自分も傷つきました。こんな私が裁かれてあたりまえなのに、罪のないイエス様が、十字架で血を流し、私の罪をつぐなって下さったと聞きました。また、死からよみがえり、永遠の命をプレゼントして下さることありがとうございます。今、私は、イエス様を私の罪からの救い主、永遠の命の恩人として信じ、お受け入れします。こんな私ですがどうぞ宜しくお願いいたします。                               アーメン
 もしあなたがこのお祈りを心からお祈りになられたら、聖書の権威によって申し上げます。あなたのすべての罪は赦され、創造主の愛の家族の一員として加えられました。新しい歩み、新しい人生がスタートいたしました。教会では、あなたのお越しを歓迎いたします。

AGM The Abundant Grace Ministries
池田 豊