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言葉の大切さについて

言葉の大切さについて


初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 ヨハネ1:1ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネ1:14主イエスキリストは、ヨハネの福音書で、「ことば」というお名前で紹介されています。このお方は、ことばだけでなく、行いにおいても力ある方でした。人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」 ルカ4:36イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 ルカ24:19そして、イエスさまが語られたおことばは、この宇宙が滅びてもなお滅びることがない、永遠に変わらない、信頼できるおことばであることを聖書は宣言しています。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 ルカ21:33旧約聖書には、このような御言葉が記されています。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。 イザヤ40:8創造主のロゴス、ことばであるお方、このお方が主イエス・キリストなのです。
私たちは、「ことば」でいらっしゃる創造主に似せて造られました。ですから、私たちも「ことば」を与えられています。そしてイエスさまは、私たちに対して「ことば」の使い方に注意深くあるよう勧め、警告しておられます。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」  マタイ12:36-37
「口には税金がかからない」と言って、好き放題、言いたいことを言うという人がおられます。「言うだけ言って、すっきりしたい」と言う人もいます。しかし、何でも言いたいことを言うという態度は、気をつけないと、自分のことだけを考え、他の人を傷つけてしまう結果をもたらしてしまうことがあります。
ソロモンの知恵の書にも同様のことが、こう記されています。軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。 箴言12:18
よく言われることですが、私たちには耳は二つあるのに、口は一つだけしか与えられていません。それは、他の人の語っていることには、注意して耳を傾け、自分の意見を主張するのは、その半分くらいにしていたほうが良いという意味です。ソロモンは、その長い人生、いろんな人と出会い、語り合った後、こう結論づけました。軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。 箴言29:20箴言12章には、私たちがどのように口を用いたらよいかについて大切なことが教えられています。愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。 箴言12:15-18


ある歌舞伎役者の方がこうおっしゃったそうです。「言葉というものは、カミソリの刃のようなものでございますね。使い方を誤ると自分を傷つけたり、人様を傷つけたりすることさえあるのですから・・・。」聖書は、軽々しく人を攻撃する人がいることを教えています。そして、そのような言葉づかいは、他の人を傷つけるだけでなく、その人本人にとっても害をあたえるというのです。軽率で攻撃的な発言は、人を剣で刺すような傷害を与え、聞く人の心に深い、大きな傷をおわせます。心に受けた傷は、傷口から血を吹き出しています。なかなかその傷は治りません。メンソレータムやオロナイン軟膏を胸の回りや、頭、こめかみに塗ったくったところで心の傷は癒されないのです。相手の事情や、立場をほとんど考慮せずに、一方的に非難する、攻撃的な言葉、批判的な言葉を語る人がいます。


残念ながら、牧師にもそのような人がいるというのです。組織神学で博士号をお持ちである上沼昌雄という先生がおられます。上沼先生はクリスチャニティー・トゥディという雑誌の2005年1月号に掲載された記事(The Church: Why Bother?  煩わしい思いをしてまでなぜ“教会”ですか?)について報告してくださっています。この記事によりますと、アメリカの教会で、クリスチャンの信徒たちが、信仰を失ってしまったわけではないのに、教会に集わなくなる人が増えてきていると言います。教会と関わりを持ちたくないと思う人々が、増えているというのです。クリスマスや復活祭の時だけは、教会に行くが、普段の日曜日礼拝に出席しない、そういう人が、増加しているというのです。その割合は、信仰を持っているクリスチャン12人に対して一人という割合だと報告されているそうです。


そして、この記事によると、そのようになった理由の一つが、牧師の説教に関係しているといいます。上沼先生はこう報告しておられます。「多くの場合に牧師は、教会員を非難し、ただ叱咤激励するメッセージを繰り返している。信者がますます教会から離れてしまう。教会のことで傷を受けている。記事の中に牧師が引退するのを20年間待ち続けた信者の話が載っている。冗談とも本気ともとれる話である。」


もちろん、世の終わりが近づくと、人々は自分に都合のよい話だけを聞きたがり、耳が痛くなるような話は避けるようになると聖書は警告しています。神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。  2テモテ4:1-4


しかし、牧師が、講壇から「あてつけ」のような鋭い、攻撃的、批判的なことばを、ある特定の人に向けて意識的に説教で語るようなことがあったとしたら、問題です。信徒の名前をあげて、非難し、みんなのまえでその人に恥をかかせるような牧師がいるということを聞いたことがあります。それは、聖書の原則から逸脱した行為です。公の前で、その人を辱めるのではなく、もし、その人にどうしても忠告してあげなければならないような問題があるとすれば、その人と個別に、一対一になって話すべきです。一方的に非難するのではなく、その人がそのように振る舞う背景についても十分耳を傾けて聞くことがまず成されなければなりません。また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。  マタイ18:15


中学一年生の時、音楽の授業中、なにげなく教師の語ったことばに傷つき、一生その影響下にあるという人の話を聞いたことがあります。音楽の教師が不用意にこうその一年生の子に言いました。「君の歌は、調子っぱずれで、間の抜けた歌だね。」音程が狂い、リズムもうまくとれていないという意味です。この人は、みんなの前で恥をかかせられました。彼はこの一言で、「自分は一生、歌を唄わなくなった」と言います。


また、ある人は、幼い時からお母さんに、「おまえは、不器用だから・・・」と言われ続けたといいます。そう言われ続けて育った彼は、大人になっても釘一本打てず、ネジ回しも使うことができない人になったそうです。そして、靴のひもさえ自分一人では満足に結ぶことができないような人になったといいます。なにげなく言い放たれたことばでも、その言葉が、ひとたび誰かの心の隙間に入り込むと、そこで根を張ることがあります。ぶっきらぼうで乱暴な、心ない言葉、配慮に欠けた言葉は、その人の一生を左右するほどの恐ろしい影響力を残すこともあるのです。


13世紀の神聖ローマ帝国皇帝フレデリック(フリードリッヒ)2世が行ったある実験があったそうです。(飯島登著 胃袋 講談社ブルーバックス;金子耕弐著 家族に送るとっておきの話 Vol.1)この王様は、人間が最初に語ることばはいったい何だろうと疑問を持ちました。そしてそれを知ろうとある実験を思いついたのです。そうです。赤ちゃんに何も話しかけないで育てたら、一体どんな言葉を話し出すのだろうと興味を抱いて、50人の赤ちゃんを集めました。この赤ちゃんたちに乳母達をあてがい、王はこう命令を下しました。「赤ちゃんにおっぱいを飲ませ、おむつを換え、お風呂に入れ、寝かせなさい。ただし、一言も話しかけてはならない。抱いて可愛がる事も禁じる」そのようにして育てたら、きっと人間が、自分で自然に話し出す最初の言葉を知ることができるとこの王様は思ったのです。この実験の結果は、予測外の結果となってしまいました。50人全員が、一歳の誕生日を迎えることなく死んでしまったと言うのです。十分な栄養が与えられ、清潔に保たれていた環境にも関わらず、赤ちゃん達は全員死んでしまったのです。人間は、「ことば」を必要としている生き物として、最初から創造されたものなのです。しかもその「ことば」は、愛情に満ちたものでなければなりません。


三浦綾子さんが、ご自分のお母さんについての思い出を回想し、次のようなエピソードを書いておられます。夕食を終えた時、幼い弟が母を手伝おうと思って、ご飯茶碗を四つ、五つ重ねて茶の間から台所に運んで行こうとした。「落としたらいけないから、運ばなくてもいいよ。」と声をかけた私に、弟は、「大丈夫だい」と言い放った。その瞬間、弟は何かにつまずいたのか、つんのめって茶碗を取り落とし、二つの茶碗が割れた。「だから言ったじゃないの」と私は叱り、茶碗のかけらを拾いながら、なおもしかり続けた。母はしきりに弟を慰めていたが、後で私を物陰に呼んで、「綾ちゃん、一生、自分は茶碗を割らない人間であるかのように、人を叱っちゃいけないよ」と言った。その言葉にハッとした。私たちは、自分のことは棚に上げ、人の失敗をあざわらい、非難しやすいものです。三浦綾子さんのお母さんは、綾子さんに注意をする時も、わざわざ物陰に呼んで、誰も他に見ている人がいないところで綾子さんを諭しています。とても知恵深い方だと思います。箴言に次のような言葉が記されています。知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。 箴言16:23-24


23節の部分は、新共同訳ではこう訳されています。知恵ある心は口の言葉を成功させ、その唇に説得力を加える。  箴言16:23


ニュー・キングジェームズ訳では、こうです。The heart of the wise teaches his mouth,And adds learning to his lips.  Prov. 16:23賢い人の心は、自分の口を教え、自らの唇に学ぶことを付け足す。


The English Bibleは次のように意訳しています。Intelligent people think before they speak; what they say is then more persuasive. Prov. 16:23賢い人たちは、語る前に考える。そして彼らの語ることは、(そうでない人たちよりも)より説得力を持つ。


私たちは時として、早とちりをしてしまい、他の人の間違いに対して腹を立て、攻撃的なことばを口にすることがあります。そのことを戒めるため、イエスさまの弟だったヤコブはこう言いました。愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。 ヤコブ1:19


パウロはコロサイのクリスチャンたちにこう言いました。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。 コロサイ4:6


エペソのクリスチャンたちには、パウロはこう勧めています。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 エペソ4:29


また、テサロニケのクリスチャンたちには、パウロはこう書き送って、イエスさまを救い主として信じ受け入れた者たちが、あらゆる良いわざと、ことばとが生活の中で顕著にあらわれるようにと勧めています。ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。 2テサロニケ2:14-17


私たちも「ことばの大切さ」について、慎重に考慮しつつ日々生活する者とされたいものです。



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あらゆる恵みに満ちた神

あらゆる恵みに満ちた神                                      リチャード・シーモア博士



原始的な宗教であるかないか、あるいは形式的であるかどうかを問わず、全ての宗教に共通して見られる一つのことは、永遠の命を得、神に受け入れてもらうためには、人間の側でのなんらかの貢献が必要だと考えることです。別の表現で言えば、善行です。人間自ら犠牲を払って、神のご機嫌を取らなければならないと言うのです。そのため、宗教的に熱心と見受けられる人ですら、自分が永遠の祝福に入れるかどうかについては自信がないのです。「あなたは自分が天国に入るという確信をお持ちですか?」と尋ねるなら、ほとんどの人は、以下のような答えをします。「そうだといいですね。」「行けるといいなと思います。」「確信はありません。」「行けるかも知れません。」「良い行いが十分あればね。」「神様にしか分かりませんよ。」「そのときになってみなきゃね。」これらは、神に受け入れていただくための条件として、聖書が語っていることとは、なんとかけはなれ、違った意見でしょう。私たちが神に受け入れていただくための条件は、実は、たった一つです。それは、創造主の比類なき、すばらしい御恵みです。ギリシャ語ではカリスという言葉が、恵みと翻訳されています。その意味は、「受ける資格が全くない者に注がれる親切な好意、人間の貢献とは一切関係なく、創造主の側から一方的に与えていただくことのできるご好意」という意味です。ある人はこう言いました。「神の愛が行動となってあらわれたもの」このカリスという語が名詞の形をとった語は、カリスマです。恵み深いプレゼント、与えれる特権という意味です。
これから新約聖書をご一緒に見てまいりましょう。創造主の御恵みがいかに素晴らしく、また、その御恵みなしでは、私たちには希望がないということをどうぞ、ご自分の目でご確認下さい。私たちが救われるのは創造主の御恵みによる聖書によれば、私たちが救われるのは、神の恵みによります。


あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 エペソ2:8-9


神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、 2テモテ1:9 


もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。 ローマ11:6


一貫してこの恵みという主題が取り扱われていることにご注目下さい。そうです。私たちの救いは、神の御恵みのみによるのです。人間の努力や、善行によるものでは決してありません。神がお与え下さるプレゼントなのです。キリストを信じる信仰を通し、お受け取りするのです。


ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 ローマ3:24 


価なしにと訳された部分は、「支払うべき代価を要求されない」という意味です。ですから、私たち人間の側で神の御前に立つために、支払わなければならない代価は、全部、キリストが代わりに支払ってくださったので、私たちは支払わなくともよくなったというのです。御子イエスキリストが、死をもって償ってくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。 テトス3:7

恵みによって、キリストの内に入れられ、神に受け入れていただくことができるそれは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 エペソ1:6キリストの内に入れられることのみによって、神に受け入れていただくことができるのです。教会員であるとか、バプテスマという儀式を受けた、献金を献げたということなどによってではありません。イエス・キリストに信仰を置くことのみによって私たちは、父なる神に完全に受け入れていただくことができるのです。


恵みによって訓練されるというのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 テトス2:11-13 


恵みのもとに生きるという生活こそが、私たちに、敬虔で正しい落ち着いた生活をもたらすのです。これは、人間によって定められたルールや規則を守ろうと、もがく生き方がもたらすものとは正反対です。


律法のもとにではなく、恵みのもとにあるというのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 ローマ6:14


恵みを基盤とした生き方こそが、罪に勝利する秘訣です。律法を守ろうとすることによるのではありません。律法のもとに生きる生き方は、私たちに罪の自覚をもたらすだけで、決して律法を克服する勝利の力をもたらしてはくれません。
与えられた恵みによって、私たちはキリストに仕える者としてふさわしい生き方ができるしかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。 エペソ4:7 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ヤコブ4:6


しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 2コリント12:9


私たちが困難に直面し、あがき苦しみどうしようもない時、私たちが困難を経験する中でも霊的に強められ前進していくことができるよう、神の恵みが示されます。そして私たちを助け、救い出して下さり、力づけてくださるのです。
恵みのもとに成長する愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。 2ペテロ3:17,18


ここで語られていることは、神の恵みのもとで成長することを止めてはならないということです。成長が止まると、私たちの霊性はよどんでしまいます。そうするとこの罪に汚れた世で、あなたはキリストのために役立つ者として影響力を発揮することができなくなります。


恵みによって強められなさいそこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。  2テモテ2:1律法主義的な強迫観念に突き動かされたり、人の意見、古くからの人間の言い伝えに熱心になるということで強められるのではありません。そうではなく、神の恵みによって強められることを聖書は教えています。さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。 ヘブル13:9


奇妙な新しい教えや、惑わしから私たちが守られるのは、神の恵みに私たちの信仰の根をしっかりと下ろすことによります。恵みが私たちを保護してくれるのです。


エペソの長老たちを前にして、パウロは決別の辞をこう語りました。


いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。 使徒20:32


けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。 使徒20:24


あなたも私も同じことです。神の恵みの福音をあかしする任務が与えられています。それを果たし終えることができたらこれに勝る喜びはありません。パウロは、自らのゴールと生きる目的が、この神の恵みをあかしすることであり、それを邪魔するものが何もあってはならないと言っています。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。 コロサイ4:6


神の恵みの御座に大胆に近づく私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 ヘブル 4:15,16


神の子とされた私たちにとって、神の御座は、裁きの座ではなく、恵みの座です。必要な時に神の恵みが与えられます。なんとすばらしい天の父を私たちは与えられているのでしょう。


すべての恵みに満ちたお方主は「すべての恵みに満ちた神」として紹介されています。単に恵みに満ちた神というのではなく、全ての恵み、あらゆる恵みに満ちたお方です。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。 1ペテロ5:10


パウロは、アダムによって罪がもたらされ、モーセによって律法が与えられることで罪の意識があきらかとされたことと、キリストと対比し、う言っています。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。 ローマ5:20


私たちの創造主は、あらゆる恵みに満ちたお方なのです。このお方を信頼し、前進していきましょう。
                                                       Richard A Seymour Clarity Trumpet #62



ローマカトリック教会の公式文書は聖書と矛盾するの?

ローマカトリック教会の公式文書は聖書と矛盾するの?


 
一般に聖書を信仰と行いの基準として尊重しているキリスト教会の中にローマカトリック教会とプロテスタントの諸教会があると思われています。ところが、ローマカトリック教会の公式文書を見てみますと聖書の主張とは正反対の教えが真理として堂々と述べられています。
なぜそのような立場をとっておられるかと言いますと、現在聖書として認められている文書を創造主からの啓示の書物であると認証してあげたのが、ローマカトリック教会の教会会議なのだ、という考えに立脚しておられるからだと思います。言いかえれば、ローマカトリック教会に連なる信仰をおもちの方々は、「聖書の権威」よりもカトリックの教会会議のほうがより権威があるという立場に立っておられます。そして、教会会議の頂点に座しておられるローマ法王さまが、聖書の教えと違うことをお語りになったときには、聖書よりもローマ法王のお言葉のほうが、創造主の御心として正しいと理解するというのが、ローマカトリック教徒の一般的なお立場です。というよりも、「聖書の解釈」ということを論じますときに、一クリスチャンが、自分の理性で聖書を読んで、ある判断にいたるとき、ローマカトリック教会の教えと矛盾するようなことがあった場合は、ローマ法王、つまり教皇と教会会議の方が絶対的に正しいと理解なさるようです。
その結果、ごく普通の方が、聖書を前後の文脈に注意しながら、読んで理解していきますと、どうしてもローマカトリック教会が公に教えておられることと矛盾すること、全く正反対の事柄があることに気づくようになります。そして、聖書のみを権威のよりどころとしていては、決して考えつくこともないような、風習や取り決めがローマカトリック教会の中で発案され実行されていることに気がつきます。 以下、ローマカトリック教会の公式文書に見られる教えと聖書の主張(誰が読んでも同じ結論に立つに違いない)を比べてみましょう。


1.聖書の解釈


ローマカトリック教会の公の教え  


正統に神のみことばを解釈する役目は、教皇と、教皇に一致した司教団とに、単独で委ねられてきたものである。 (Catechism of the Catholic Church,#100,p30. 1994)


聖書に見る真理


ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、  非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日  聖書を調べた。 使徒17:11


聖書の教えによるとこのベレヤという地域のクリスチャンたちは、テサロニケのクリスチャンたちよりも勝っていたそうです。そして、その勝っていた点とはどのようなことかといいますと、彼らは、熱心に創造主のみことばを求めていた人々であったということです。そして彼らが、創造主のみ心や教えが何であるか判断する正しい規準をどこに見出していたかといいますと、決して一人の教皇のような人物にお伺いをたてたのではないようです。そうではなくて、彼らは、毎日、聞いたことが果たしてそのとおりかどうか聖書を調べていたというのです。言い換えたら、彼らは、自分で読んで、聖書研究をしていたということなのです。 


 


2.啓示としての聖書の充分性


ローマカトリック教会の公の教え  


教会は、啓示されたすべてのことについて、聖書だけから自分の確信を得るのではない。それゆえ、[聖伝と聖書の]どちらも同じ敬虔と敬意をもって受け入れられ、尊敬されるべきである。  (1965,1994)第二バチカン公会議、神の啓示に関する教義憲章9、 「第二バチカン公会議公文書全集」、p.26    


聖書は実質上、(つまり内容的に)十分とは言えず、神の啓示の全体像を正確に捉えるためには、補足として、口頭伝承を必要とする。  (1967)New Catholic Encyclopedia, cvol.14,p.228


聖書に見る真理


私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加えるものがあれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を除かれる。 黙示禄22:18?19


創造主からの啓示である聖書は、日本の歴史で言えば、弥生式土器中期のころに完結したのであり、この聖書の教えに人間が、付け加えたり、勝手に会議で取り決めをし、聖書の教えを水増ししたり、削除したりしてはならないというのです。ところが、ローマカトリック教会には、およそ、聖書からは逸脱した伝承や聖書に反する言い伝えを堅持する慣わしがあるのです。ですから、マルティン・ルターが聖書をドイツ語に翻訳して一般の人民も聖書を読み創造主の御心を理解できるようにと活動をしたとき、ローマカトリック教会は、ルターたちを迫害し、ドイツ語に訳された聖書を焼き払ったりしたのです。聖書を人民が読むことはローマカトリック教会にとって当時、都合が悪いことだったのです。 
現在、ローマカトリック教会の信徒の方々は聖書をお読みになられますが、ローマカトリック教会の公文書による教えと聖書の教えが相反する部分があることに気がついている方はあまり多くないようです。一言で言えば、聖書を読んでいるだけでは、ローマカトリック教会が作り上げたしきたりや、伝承を権威づけることができないので、聖書以外の権威をローマカトリック教会は信者に鵜呑みにさせなければ立場を保持できないのです。


 


3.罪の赦しと神父介在の必要性


ローマカトリック教会の公の教え  


我々が神ご自身に隠れたところで罪を告白しても神はそれをお赦しになることはできるのであるが、しかし、神はそうなさるとは約束されなかった。しかし、神は、もし我々が罪を神の司祭に告解するならば、それを赦すということは、約束してくださっているのである。  (1921,1998)The Baltimore Catechism, Lesson17, question#740,
  司祭は、あなたがたの罪を赦してくださるように神に求める必要はない。(中略)あなたがたの罪は、司祭によって赦されるのである。  それはあたかも、あなたがたがイエズス・キリストの御前にひざまずき、キリストご自身に罪を告白したのと同じことになるのである。  (1976) Instructions in the Catholic Faith, p.105.


聖書に見る真理


神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それ  は人としてのキリスト・イエスです。 1テモテ 2:5
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。 1ヨハネ  2:1     もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 1ヨハネ1:8?9


聖書の御言葉は、私たちの罪の赦しのために創造主と私たちとの間に旧約聖書時代の祭司のような仲介者が必要だとは教えていません。むしろメルキゼデクの位に等しい大祭司としての主イエスキリストが直接、罪びとである私たちの罪をきよめ、とりなしをしてくださると教えています。


    しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。   ヘブル7:24?28


また、主イエスキリストが十字架におかかりになったとき、神殿の聖所と至聖所との間にあった仕切りの幕が下から上にではなく、上から下に裂けたことが記されています。これは、主イエスキリストの身代わりの死のゆえに、罪びとが大胆に創造主の御前に直接出ることを許可されたことまた、主イエスを信じる者は、罪赦され復活のいのちが保証されることを象徴的に物語るものです。
    そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て聖都にはいって多くの人に現われた。 マタイ27:50?53
聖書の中で、聖徒という言葉が使われていますが、この用語は、現在ローマカトリック教会が用いているような意味での一般の信者とはかけ離れた特別、業績を残した、信仰者のエリートという意味ではありません。その証拠に、コリント人への手紙をみますと、コリントのクリスチャンたちは信仰的にも社会的にもたいへん乱れた問題だらけの人々だったようですがパウロは、彼らを「聖徒」と呼んでいます。これは、創造主の憐れみと恵のゆえにキリストにあって罪の赦しを頂いた人たちという意味です。


 


4.ローマ法王(教皇)の絶対性について


ローマカトリック教会の公の教え  


我々[教皇]は、この地上において、全能なる神の地位を占めるものである。 (1894、1992)The Great Encyclical Letters of Pope Leo XIII, "The Reunion of Christendom," p.304.      


教皇は、使徒たちの頭、聖ペテロの後継者である、キリストの真の代理者・全教会の頭・全キリスト信者の父・教師である。(中略)これが、カトリック教会の教えであり、この教えから離れることは信仰と救いを失うことである。  (1870,1992)第1バチカン公会議、第4総会、キリストの教会の教会に関する第1教義憲章、第3章、 「教皇の首位権の本質と権能」、「カトリック教会文書資料集」3059?3060番、Hデンツィンガー編、p.459.   


 ローマ法王は、地上でイエズス・キリストの位置を占めるものである。教皇は、誤りのない支配者、(中略)真理の普遍的支配者、世の仲裁者、天と地の最高裁判官、すべての者の裁判官、誰によっても裁かれることのない者、地上での神ご自身である。  New York Catechism, quoted from the transcript of the The John Ankerberg show video entitled "Roman Catholicism series," pp.26?27


聖書に見る真理


    そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 マタイ20:25?27


すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 ローマ3:23?24 


ローマ法王は、人間であって、アダムの子孫ですから罪びとの一人です。後で考察するマリヤも同じように創造主の前では罪びとです。自分を神と同じ位にしようとする試みはサタンと同罪であり、そう主張しようとすればするほど罪を犯していることになります。


 


5.創造主の前で義とされ救われるためには、カトリック教会が必要か


ローマカトリック教会の公の教え


  我々は、以下のことを宣言し、断言し、定義し、また公言する。すなわち、すべての人にとって、ローマ教皇への服従は、救いに不可欠である(救われるために必要なことである。)  (1302,1992)、ボニファチウス8世、大勅書「ウナム・サンクタム」、「カトリック教会文書資料集」875番、H.デンツィンガー編p.203. 


   カトリック教会の外においては、誰一人として救われないというカトリックの教理は明らかである。この教会の権威に反対し、教皇の権威と決定に頑固に反対する者は、永遠の救いを得ることはできない。  (1863,1981)Pope Pius IX, Quanto Conficiamur Moeore, sect.8,Claudia Carlen, The Papl Emcuclicals 1740-1878, p.370.
  聖なる教会会議[第二バチカン公会議]は、(中略)聖書と伝承に基づいて、この(中略)教会が救いのために必要であると教える。  (1964,1996)第2バチカン公会議、教会憲章14.1、「第2バチカン公会議公文書全集」、p.58.  


聖書に見る真理    


イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」 ヨハネ14:6    しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストは生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」  ヘブル7:24?26    こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 ヘブル10:19?20 


 


6.バプテスマの儀式を受けなかったら救われないか


ローマカトリック教会の公の教え  


「洗礼を受けるか受けないかは自由である。すなわち、洗礼は救いのために必要ではない。」と言う者は、排斥される。[呪われて地獄に堕ちるようにという意味]  (1547,1992)トレント公会議、第7教会、秘蹟についての教令、洗礼の秘蹟について、5条、「カトリック文資料集」1618版H.デンティンガー編、p.286 


     水による洗礼は、(中略)例外なくすべての者にとって、救いに絶対に必要である。  (1955,1974)Ledwig Ott Fundamentals of Catholic Dogma, sect.4.1,p.356      洗礼を受けずに、非常に良い生き方をしていても、その者は、天国に入ることはできない! (1976)Instructions in the Catholic Faith,p.87.    天国を失う危険にさらされないよう、すべての新生児は、できるだけ早く洗礼が授けられなければならない。  (1967,1977)matthias Premm, Dogmatic Theology for the Laity, p.337  


  (ローマカトリック)教会は、洗礼以外に永遠の至福[すなわち、天国での永遠のいのちと幸福]への確証を与えるものとして、他のどのような手段も知らない。  (1994)CCC,#1257,p.320      


聖書に見る真理     


私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。私は、ステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、言葉の知恵によってはならないのです。 1コリント1:14?17


パウロは、コリント教会のクリスポ、ガイオそしてステパノの家族以外の人々に水のバプテスマを授けなかったことを喜んでいます。   もし、永遠の命の救いが水のバプテスマによって与えられるのだとしたら、パウロはコリントではほんの数人しか救いに導かなかったことを喜んでいると言うことになってしまいます。


    十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けている0ではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思いだしてください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 ルカ23:39?43 


   この犯罪人の一人は、自分の罪の償いをする余裕もなければ、よい行いによって自分の信仰が真実であったと証明する間もありませんでした。そればかりか水のバプテスマを受ける機会もなかったのです。しかし、主イエスキリストを信じたことのみによって、彼は主御自身のお言葉によりパラダイスの救いを保証されたのです。


 


7.偶像と祖先・死者礼拝の教えについて


ローマカトリック教会の公の教え


  [神は]ご自分の容貌に似せて人間をお造りになられたので、聖画像に写し出されたご容姿も、礼拝を受けることができるのである。  1994 CCC, #477, p.121  キリスト、聖母、諸聖人の聖画像を教会堂内に置き、それらにふさわしい崇拝をささげるべきである。 1563,1992 トレント公会議、第25総会、聖人の取り次ぎと崇敬、遺物、聖画像についての教令、「カトリック教会文書資料集」1823番、 H.デンツィンガー編、p.315


  聖画像への崇拝は、神のみことばが肉体を取られたことの神秘に基づいている。それは、十戒の第一戒を破るものではない。  1994 CCC, #2141, p.518


  日本カトリック司教協議会・諸宗教委員会の教え  


*家庭祭壇を安置し、故人の写真、マリヤやキリストの像、十字架、ろうそくなどを置きましょう。カトリック信者はこの前で、故人の魂の冥福を祈らなければなりません。  *カトリック信者でも仏教のこのような葬式に参加するべきです。  なぜなら、先祖のまつりが、仏教とカトリックの二本立てになることは、信教の自由を考えれば、当然のことだからです。


聖書に見る真理    


あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あ なたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、地の下にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。 出エジプト20:3?5a        ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。・・・私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、創造主にではなくて、悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。  1コリント10:14,19?20        というのは、彼らは創造主を知っていながら、そのお方を創造主としてあがめず、・・・自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の創造主の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。・・・それは、彼らが創造主の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。 ローマ1:18,22?25    


子供たちよ。偶像を警戒しなさい。 1ヨハネ5:21


 



8. マリアを礼拝することについて


ローマカトリック教会の公の教え  


悪魔は、聖母マリアを恐れるばかりでなく、(中略)マリアの御名を聞いただけで、はげしい火に追われているかのように、逃げうせる。(中略)悪魔は、マリアの御名を聞くと、天からくだった雷に打たれたかのように、平伏し、打ち倒される。  1750,1996 聖アルフォンソ・リゴリオ著「聖母マリアの栄光」p.181  ああ、マリアよ(中略)三位一体の主は、御子の御名についで、すべての御名にまさるこの御名を御身にお授けくださった。そして、この御名(マリア)に尊厳と力とを賦与なさって、天においても、地においても、地獄においても、すべての被造物が、この御名を聞いただけで、あなたをあがめ、その御前にひざを屈することをお求めになったのである。 1750,1996 「聖母マリアの栄光」 p.338


  すべてが、神、御自身さえもマリアの配下にある。(中略)これは、神は、マリアの祈りを、ちょうど命令のようにお聞きいれになる、という意味である。 同、p.226


  御子を通してでなければ、誰一人として父のみもとに行くことができないのとほとんど同じように、聖母を通してでなければ、誰一人としてキリストに近づくことはできないのである。  1891,1992 カトリック教会文書資料集3274番H.D.編、p.489


  マリアは(中略)神と罪びととを和解させる仲介者のようになったのである。(中略)私たちにとって、神のゆるしは、マリアのおんとりなしのみにかかわるのである。  「聖母マリアの栄光」.pp.91?92


  われわれは絶えず、無原罪の神の母、乙女マリアを呼び求める。マリアは神へのとりなし手として、最もふさわしく力があり、また、恵みと憐れみの母でもある。  (1854,1981)Pope Pius IX, Apostolicae Nostrae caritatis, sect.6, Claudia Carlen, The Papal Encyclicals 1740-1878, p.333


  マリアは、天においてわれわれのためにとりなしをするゆえに、あらゆる恵みの仲介者である。これはつまり、マリアなしにはどのような恵みもわれわれのもとにはもたらされないという意味である。(中略)神の御心により、マリアの協力なくしては誰のもとにも恵みは授けられない。(1988) Karl Keating, Catholicism and Fundamentalism, p.279


  マリアは天にあげられた後も、この救いをもたらす務めを放棄せず、かえって、数々の取り次ぎによって、われわれに永遠の救いのたまものを得させるために続けている。(中略)このために聖なる処女は、教会において、弁護者、扶助者、救援者、仲介者の称号をもって呼び求められている。    (1964,1996) 第2バチカン公会議、教会憲章62.1,「第2バチカン公会議公文書全集」、pp.94-95.


  マリヤの受けた苦しみの大きさ、また苦しみ死にゆく御子とともに自らも死ぬほどであったこと、さらに、御子に対する母親としての権利を、人類の救いのために明け渡し、御子をいけにえとして捧げたこと(中略)により、マリアがキリストとともに協力して人類をあがなったというのは正当なことであろう。   (1918,1967) Pope Benedict XV, Inter sokalicia, New Catholic Encyclopedia, vol. 9,  J.B.Carol, "Mary, Blessed Virgin, II," p.369


  良心の呵責を覚えるような行いをした者たちには、神の大いなる好意を得ている取り次ぎ手、絶望している者たちの頼みを拒まれないあわれみ深いお方がいる。(中略)マリアこそがこの栄えある仲介者である。マリアは、全能なる神の力ある御母である。しかも、さらに慕わしいことに、柔和で、きわめて心やさしく、限りなく慈しみ深い。神はそのような者としてマリアをわれわれにお与えくださったのである。  (1891,1998) Pope Leo XIII, encyclical on the rosary Octobri Mense, sevt.4, taken from the Internet at the site www.ewtn.com/library/ENCYC/L13RO1.TXT on April 15, 1998


  わたしたちがイエズス・キリストによりたのむときは、イエズスが私たちの審判者であり、私たちの忘恩を罰する任務をおもちの御方であることを、忘れることができない。ところが、マリアの任務はただあわれみだけである。マリアは私たちの弁護者であり(中略)それゆえ、私たちはもっと安心し、もっと深く信頼することができるのである。  (1750,1996)聖アルフォンソ・リゴリオ著「聖母マリアの栄光」、 P.168


  ヘブル人への手紙の筆記者がイエズスについて述べていることを、われわれは[マリア]についても述べることができる。すなわちマリアは「罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)マリアはしみのない、無原罪の、罪のない者であった。  (1994 Liguori Productions, Preachand Teach: The Marian Collection, taken from the article "TheImmaculate Conception of the Blessed Virgin Mary." 1995 by Catholic Online  処女マリアは、(中略)原罪のすべての汚れから、前もって保護されていた。  (1854,1992) ビウス9世、大勅書ineffabilus Deus, 「カトリック教会文書資料集」2803番、H.デンツィンガー編, p.429.  神の恩恵により、マリアはその全生涯の間、あらゆる個人的な罪を犯すことなく過ごした。 (1994) CCC,#493. p.124.  


聖書に見る真理  


マリアは主イエスの母となるため特別に選ばれた女性でしたが、私たちと同じように罪人です。カナの結婚式で葡萄酒がなくなったとき、マリアは、主イエスに向かって「葡萄酒がありません。」と言いました。その時、主イエスは、ご自分が公にメシアとして登場される時はまだであることを含む、柔らかな叱責のことばを母マリアに告げておられます。    すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」  ヨハネ2:4


また、主イエスが12歳になられた頃、エルサレムの神殿に両親と行かれたとき、ヨセフとマリアは主イエスを見失ってしまったことがありました。その時も、マリアは主イエスの叱責を受けています。    両親は彼を見て驚き、母(マリア)は言った。「まあ。あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを探し回っていたのです。」するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。  ルカ2:48?50


マリア自身、主イエスを聖霊によって身ごもった時、自らが罪びとであることを謙虚にかつ正直に認める祈りをささげています。


    マリアは言った。「わがたましいは、主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主は、この卑しいはしために目を止めてくださったからです。・・・」  ルカ1:46?48
私たちの救いのために私たちと創造主との間に立ち中保者となって下さるお方は、主イエスキリストお一人です。マリアでも法王でも司祭、神父でもありません。


    神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは、人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人(マリアをも含む)の贖いの代価としてご自身をお与えになりました。 1テモテ2:4?6a


 


9. 煉獄と免償(カトリックの文書では「練獄」)について  


ローマ・カトリック教会の公の教え  


[練獄とは]来世の状態、場所、あるいは状態であり、それは、最後の審判まで続く。そこには、恩恵の状態のうちに死んだ者の魂が、(中略)赦されている罪のためにも、一時的な罰を受け、そうすることで天国に行く前に清められるのである。  (1967)J._F.X.Cevetello,"Purgatory,"New Catholic Encyclopedia, vol.11,p.1034
  免償とは、すでにゆるされた罪にともなう有限な罰のゆるしである。  (1967,1980)ハウルス6世、回勅「インドゥルジェンチアルム・ドクトリナ」Norm1, 「免償」、1章1番、中央出版社、1980
  免償を与える権能は、キリストによって、教会に与えられたものである。(中略)免償は無益であると主張したり、教会が免償を与える権能を持つことを否定する者を排斥する。  (1563,1992)トレント公会議、第25総会、免償についての教令、「カトリック文書資料集」1825?d番、H.デンツィンガー編、p.316
  小さな祈り、すなわち、「イエズスの聖心よ、私はあなたを信じます」を一日100回唱える者は、3万日分の免償を得る。また、多くの者がしているように、この祈りを1000回唱える者は、毎日30万日分の免償を得るのである!(中略)さらに、ロザリオを用いて天使祝詞を唱えるごとに、2千日分以上の免償が獲得できるのである!  (1936,1992)Fr. Paul O'Sullivan, O.P., How To Avoid Purgatory,  Chapter10, "Indulgences and Purgatory," p.p.19-20
  練獄における最も小さな痛みでも、この世における最も大きな苦しみを超越している。(中略)地獄で神に見放された者たちを苦しめるのは、練獄で義人たちを清めるのと同じ火である。  (13th century, 1947, 1998), St. Thomas Aquinas, Summa Theologica, Benzinger Bros., 1947 eddition taken from the internet site www.ewtm.com/library/SOURCES/63XP99SP.TXT on March19, 1998  


聖書に見る真理    


もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 ローマ4:2-5      


このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。ヘブル10:10      


キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 ヘブル10:14        


あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。  エペソ2:8-9      


 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 テトス3:4-5        こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。ローマ8:1-2        


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 ローマ8:32-34



エホバの証人の実態

エホバの証人の実態


  
以下の記述は、新生運動発行、ウィリアム・ウッド著、「エホバの証人もキリスト教の一派?」、新世界訳研究会発行、中澤啓介著、「ものみの塔の源流を尋ねて:創設者ラッセルの虚像と実像」をもとに編集したものです。


あなたはエホバの証人(ものみの搭)の訪問を受けた事があるでしょうか。それとも、すでに家庭聖書研究をしておられますか。あまりよく知られていないかも知れませんが、エホバの証人の実態について、ぜひ知って下さい。



1. 家庭分裂・破壊 「ものみの塔」によって破壊されてしまう家庭が、この日本でもたいへん多くなっています。もっとも、一般的なケースとしては、奥さんが「エホバの証人」になり、熱心のあまり家族を放置し、子供を連れて伝道に歩き回るようになることから、問題が起こってきます。家庭をしばしば空ける妻への対応に手を焼いたご主人が、途方に暮れ、最終的には別居したり、離婚したりせざるを得なくなります。 妻を戒め、その信仰にブレーキをかけようとしたところ、妻からも子供からも「悪魔」と呼ばれて、計り知れない苦痛を覚えている男性もいます。妻に家出をされてしまった人もいます。悩みに悩んだすえ、自殺したご主人もいるのです。
多くの場合、上品で、非常に物腰の柔らかい、そつのないエホバの証人が訪問してきて「幸福な家庭生活を築くために一緒に聖書を学びませんか」と誘われたことが悲劇の始まりでした。


2. 恐怖の預言によってかりたてられる布教活動 エホバの証人の出版物によると、ものみの塔だけが「神の代弁者」、「神の唯一の見える組織」だということです。そして被らの組織(ものみの塔)だけが、地上における唯一正しい宗教組織であると書かれています。1959年に出版された「神の目的とエホバの証人」という書物、また1993年発行の「エホバの証人ー神の王国をふれ告げる人々」によれば、旧約聖書のアベルから、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセなども皆、すべてエホバの証人だそうです。そして、一世紀のクリスチャンたちもエホバの証人だったと言います。ところが、一世紀の後半から19世紀後半までの長い期間、大規模な背教が起こったために、ほんとうのエホバの証人は、いなくなってしまったようです。すくなくともほんとうのエホバの証人を指導する組織は存在しなかったようです。ところが1884年にラッセルがものみの塔組織を創設した時、神の真理が再度明らかにされ、ほんもののエホバの証人が再組織されたのだそうです。ところが、このラッセルという人は、1869年にアドベンティストという、ミラーという人が始めた、キリストが再臨される日を予告し信者を獲得するという特徴を持った宗教団体の信者になった人です。アドベンティストの牧師から聖書を教えてもらいました。ですから、エホバの証人の教えには、アドベンティストに影響されたと考えられる部分が多くあります。
それなのに、エホバの証人は、自分たちの組織だけが、神の「真の預言者」であると信じています。(ものみの塔誌1972年7月1日号 P406)そしてものみの塔こそが神の預言者だ称して、訪問先の人々に世の最終戦争、つまりハルマゲドンという大戦争がまもなく起こると脅かすのです。エホバの証人でない人々は、エホバ神の怒りによって、皆滅ぼされてしまうと断言します。このような「滅びの預言」を用いて、人々を不安がらせ、彼らの組織に入らなければならないと言い広めているのです。
もし彼らの「滅びの預言」が本当であり、組織が主張しているとおり、ものみの塔だけが、唯一正しい神の組織であるならば、エホバの証人がしていることは正当化されるでしょう。しかし、もしそうでないならば、この世がまもなく終わると信じて熱心に一軒一軒を回り布教活動をしているエホバの証人たちは、いったい何をしていることになるのでしょう。
ものみの塔組織が過去に出した預言の歴史を詞べてみると、その答が明確になります。驚くことにハルマゲドン戦争によって、世の終わりがまもなく起こるという預言は、1890年代から少なくても5回出されているのです。つまり、預言がはずれてしばらくすると、次の預言が出て、また、はずれ、今度は本当ですと言いながら、またはずれる。この連続なのです。この手法は、ラッセルが影響を受けた、アドベンティストの開設者ミラーのやり方そっくりです。
ものみの塔出版物によれば、預言された世の終わり(最終戦争)の年代は・・・・    1914年(ものみの塔1892年1月15日号 P22)  1918年(聖書研究第7巻1917年 P485)  1925年(ものみの塔1924年7月15日号 P211, 立証1931年P146, P147)  1941年(ものみの塔1941年9月15日号 P288,メッセンジャー1940年9月1日号 P6)  1975年(ものみの塔1968年11月15日号 P686,神の自由の子1967年 P29,30)   上記の預言は、ミラーの預言がことごとく外れたのと同様、また他にもあるものみの塔が出版物を通して予告した多くの預言同様、すべて実現しませんでした。しかしながら、このような一連の預言が出された結果、ものみの塔の会員数は急激に増加しました。この組織が出し続けた嘘の預言で、布教活動は大成功したのです。 しかし考えてみて下さい。聖書の真の神(エホバ神)は、嘘をついたり、偽預言者を用いる神であるはずがありません。(旧約聖書をお待ちの方は、民数記23章19節、申命記18章20節?22節をご覧になって下さい。)
嘘だらけの預言ばかり発表してきた過去があるにもかかわらず、現在もエホバの証人は、自分たちの組織こそが、唯一の正しい組織だと思いこんでいます。エホバの証人たちは、ものみの塔こそが、神の真の預言者だと信じるよう教えられるからです。また、さらにものみの塔が発表する世の終わりの預言を新たに信じて会員になってくれそうな人を見つけようと、家々を訪問し、探し回っています。
皮肉なことに、エホバの証人が持って歩いている聖書(新世界訳)の中には、次のように、彼らのことが警告されているのです。
「そして多くの偽預言者が起こって、多くの者を惑わすでしょう。」 マタイ24章11節「もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない。」 申命記18章22節「イエスは言われた、「惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て、『わたしがそれだ』とか、『その時は近づいた』とか言うからです。そのあとに付いて行ってはなりません。」 ルカ21章8節


3. 個人的な言動はできない エホバの証人」は生活のあらゆる面において、聖書にもとづくと称する組織の規則に支配されています。たとえば・・・
1.輸血をしてはならない。2.誕生日、クリスマス、母の日、父の日などを祝ってはならない。3.選挙の時、投票をしてはならない。4.自衛隊員、警察官、政治家になってはならない。5.年賀状、お中元、お歳暮を送ってはならない。6.乾杯、万歳斉唱、おめでとうなどの挨拶をしてはならない。7.募金、署名活動に参加してはならない。
他にも多くの規則がありますが、これらは常識をはずれているだけでなく、聖書の教えではありません。(世界中の正しいキリスト教会ではこのようなことを教えていません。) 彼らの間では、自分の意志であると言いつつも、結果的には個人的な言動はできません。従うときにはほめられ、逆らうときには批判されたり無視されたり、「霊的でない」と言われたりします。また、ものみの塔組織にとどまっていなければ滅びると徹底的に教育されているので、彼らにとって組織を離れることは非常な恐怖なのです。 ですから、ほとんどの場合、たとえ疑問を感じたとしても、指導者を喜ばせ、仲間としてとどまるために言われたとおりの行動を取るようになります。1985年6月に川崎市であった小学生輸血拒否死亡事件は、このような中で起きたのです。


4. ものみの塔組織の奴隷 ものみの塔組織が過去において何回も何回も偽預言しているにもかかわらず、なおエホバの証人の方々は、ものみの塔組織の言うことを信じ続けて、熱心に布教活動をしています。それはなぜでしようか。その理由の一つは、エホバの証人の私生活が、自分の組織によってコントロールされているという事実にあります。つまり上に書いたように、何をしていいのか、何をしていけないのかという事がものみの塔に支配されているのです。それだけでなく、何を考え、そして何を考えてはいけないのかという事まで、組織によって指図されているのです。
たとえば組織に対する疑問や、否定的な考え、批判的な思い、不満などは一切捨てるように、また持たないようにと教育されています。外部の人から組織に対する正当な批判があっても、それを嘘だということにしたり、迫害だと言ったりして、絶対に受け付けません。こうしていかなる場合にも、組織が正しく、組織を疑う者が悪い、ということにされてしまいます。また、自分たちの救いは、ものみの塔組織に対する忠誠にかかっていると信じるよう、徹底的に教育されているからなのです。
こうして、ものみの塔組織に教育された人々は、自分の意志であると信じつつ、実際は文字どおり、組織の奴隷となってしまいます。自分一人で考えたり、判断したり、物事を決めたりできなくなります。人の話が聞けなくなります。常識が通じなくなります。


 


エホバの証人が訪問して来たら、次のような質問をしてみたらいかがでしょうか。


エホバの証人の方々は、以下のような特徴があると聞いたことがあるのですが、本当ですか。
エホバの証人になると、以下のようなことはしてはいけないのですか?
  1.輸血をしてはならない。  2.誕生日、クリスマス、母の日、父の日などを祝ってはならない。  3.選挙の時、投票をしてはならない。  4.自衛隊員、警察官、政治家になってはならない。  5.年賀状、お中元、お歳暮を送ってはならない。  6.乾杯、万歳斉唱、おめでとうなどの挨拶をしてはならない。  7.募金、署名活動に参加してはならない。


「一世紀の後半から、大規模な背教が始まってしまったため、キリスト教会は堕落してしまったので、ほんもののエホバの証人を指導する組織は存在しなくなった。けれども、1884年になっていきなりチャールズ・テイズ・ラッセルがという人が神の真理を啓示され、ほんもののエホバの証人を指導する組織が誕生した」というのは本当ですか。


エホバの証人になると、ものみの塔組織、統治体に対する疑問や、否定的な考え、批判的な思い、不満などは一切捨てるように教えられますか。



モルモン教会にご質問します

モルモン教会が教えておられると思われることについて、疑問がありますのでご質問します。



1. モルモン教会は、唯一の神ではなく、多くの神々があると教えていますか?旧約聖書イザヤ44:6, 8; 45:5, 6, 18, 21, 22 では、どう教えられていますか? モルモン経アルマ書11:26-31,35は「神は一つよりも多いか」というゼーズロムの質問に対して、アミュレクがそうではないと答えている部分がありますが、アミュレクは、間違った情報を天使から受け取ったのですか?



2. モルモン教会は、イエス・キリストがルシファーの霊的兄弟(spirit-brother)だと教えていますか?イエス・キリストは被造物であり、永遠の創造主ではないとモルモン教会は教えていますか?Journal of Discourses, Volume 13, page 282.の教えと、モルモン経モーサヤ3:8, 5:15の教え、すなわち「イエス・キリストは、天地の父、創世の時から万物をつくりたもうている造り主であり、その御名を信ずる信仰によってさえも救いを与えるために来こられたお方、全能の神である」という記述とは、どちらが正しいのですか?モーサヤ書15:1-4では、「御父と御子とは一つの神会を成し、かれらはまことに天地の真の永遠の父である」と教えられていますが、イエス・キリストが被造物であるとか、ルシファーの霊的兄弟だと教えている聖書の箇所、モルモン経の箇所はありますか?


3. モルモン教会は、イエス・キリストが、父なる神とマリヤとが性的関係を結ぶことによって誕生したと教えていますか?マリヤは処女であったが、聖霊によってイエス・キリストを受胎し、出産したと教えていますか?Journal of Discourses, Volume 4, Page218 は何と教えていますか?この教えと新約聖書マタイ1:23、そしてモルモン経アルマ書7:10の教えとではどちらが正しいのですか?


4. モルモン教会は、父なる神が骨や肉をもっておられると教えていますか?Doctrine and Covenants, Section 130の教理と、新約聖書ヨハネ4:24、ルカ24:39の教え、旧約聖書エレミヤ書23:24の記述とどう調和しますか?


5. モルモン教会は、父なる神は以前、人間だったと教えていますか?モルモン教会を設立したヨセフ・スミスの King Follett Discourse 最後の部分や、Journal of Discourses, Volume 6, pages 5-6 が、父なる神は以前人間だったのに神になったと教えていることと、モルモン経モロナイ書8:18で「神は変わりたもうことのない方で無限の過去から無限の未来にわたって同じ、不変のお方である」という教え、また、モルモン書 9:9,10,19に明確に教えられている、「神は昨日も今日も、いつまでも同じにましますお方、変わりたもうことのないお方である」ということとは、矛盾しませんか?どちらが正しいのですか?


6.モルモン教会は、私たち人間もモルモン教会の戒律を守るなら、やがて神になることができ、自分自身の惑星を与えられ、統治することになると教えていますか?Doctrine and Covenants, Section 130, 132は、どのようなことを教えていますか?私たちが戒律を守ることによって、やがて神になることができ、自分の惑星を所有し統治するということを教えている旧約聖書、新約聖書の箇所はありますか?あればどこですか?
7. モルモン教会は、イエス・キリストは、救いの道の一部分を成し遂げたお方でしかなく、人間はモルモン教会の戒律を守り、儀式(ordinances)を受けることによって自らの救いを完成させなければならないと教えていますか?もしそうならば、モルモン経アルマ書11:39-40の「神の御子は罪を贖うためにこの世に降臨し、その名を信ずるすべての者の罪とがを負いたもう。このような人たちは、永遠の生命を受ける者であって、そのほかには一人も救いを与えられない」という教えは不十分だったのですか。新約聖書エペソ2:8-9、ローマ4:4,5; 6:23、ガラテヤ2:16、テトス3:5、ヨハネ3:16-18、黙示録22:17は戒律を守ることや、儀式を受けることによってではなく、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れる信仰のみによって、罪の赦し、永遠のいのちが与えられると教えていますが、これらの聖書の記述をモルモン教会はどう理解されますか?



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