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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(33)

                                                  池田 豊

 アブラハムは行いによらない信仰のみによって義とされ「神の子」とされました。しかし、行いに表れた信仰の故に「神の友」と呼ばれたのです。人は、行いに表れない信仰のみによって創造主の御前で「義」とされます。しかし、行いに表れた信仰によっても「義」とされるということがあるのだとヤコブは言います。それは、人々の前における「義」です。ラハブも行いに表れない信仰を創造主に対して抱いていたことを、イスラエルの使者を受け入れ、窓に赤いヒモを結びつけるという行為を通して、その信仰を表現したのです。 



肉体から魂が取り去られてしまうと、死体となるのです。死体は、もはや生きていたときのように人々のお役に立つということはないのです。信仰が行いによって表現されないならば、他の人々にとって役に立たないという意味では、死体とおなじだとヤコブは言いたいのです。

しかし、死体があるということは、かつてその肉体は生きていたのだということを意味するように、行いに表れない信仰がヤコブによって叱責されているということは、かつてはその信仰が行いに表れていたことを示唆しているのです。死んだままで良いのだとしたらヤコブはあえてこのような手紙は書かなかったでしょう。ましてや死んだような信仰、言い換えるなら、現在人々の役に立っていない信仰をもったクリスチャンたちのことをヤコブはニセの信者だと決めつけているのではないのです。



無条件で救いにあずかったクリスチャンたちに向けて語っているのだからこそ、ヤコブはその彼らの信仰を行いに表したらどうなのですかとチャレンジしているのです。



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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(32)

                                                          池田 豊

 ラハブは、道徳的にとても模範と言えるような生活を送っていた人ではありませんでした。しかし、創造主がお遣わしになったイスラエルのスパイを受け入れ、かくまったのです。そして創造主のお言葉通り、指示に従い赤いヒモを窓からぶらさげたのです。その事の故に彼女は殺されずにすむのです。これは一方的な恵みでした。そして、この異邦人であり、売春婦という当時の社会でも穢れた女性の代表とされていたラハブでしたが、なんとメシヤの血筋、家族の一員に加えられているのです。罪人のかしらと自らも自覚するラハブが、創造主の救いの保証に信頼し、赤いヒモを窓からぶらさげるという行為で信仰を表現したのです。



ヤコブが言いたかった「行いに現された信仰」というのは、単なる善行や宗教熱心さのことを意味していません。そうではなくて、創造主の御恵みのみによって信じるだけで、罪を一度もおかしたことがないかのように見なしていただけることを本当に信じ、知っているのであれば、その「気前よい」、「えこひいきのない」創造主の愛を表現することについても真剣に考えなさいとヤコブは言いたかったのです。アブラハムもラハブも自らの善行や業績、宗教熱心さゆえに正しいと宣告されたのではないことを声を大にして伝えたかったのです。そしてそのことこそが、行いに表れた恵み故に救われる信仰だったのです。



行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(31)

 アブラハムと並んでヤコブが行いに表れた信仰の実例として用いているのはラハブという女性です。不思議なことにこのラハブについての記述を見てみますと、ヤコブがここで言わんとしている行いを伴った信仰というのが必ずしも道徳的な善行や、熱心な宗教活動、倫理的な悪習慣の変革を意味しているのではないことがわかります。



 ところが、良い行いや自分の努力による生活変革を救いの条件にしようとするニセ教師たちが好んでヤコブの手紙、特に二章を引き合いに出して論ずる場合は、行いの伴った信仰とは倫理的な生活変革であったり、熱心な宗教活動のことだというのです。



 ラハブという女性は、遊女でした。ヨシュア記を読んでみますとラハブの信仰が行いに表れたというのは何を実際に意味していたのかといいますと、ラハブが売春行為から足をあらったとか倫理的、道徳的悪習慣や罪を悔い改めてに聖い人になったとかいう理由からではありませんでした。ヨシュア記の記録に残っている彼女の行いに表れた信仰とは何かといいますと、

?イスラエルの主、ヤーウェが遣わされた使者を受け入れかくまったということ、そして、

?使者が指示したとおり、救いの印である赤いヒモを窓に結んだというこのことだけでした。



 彼女は自分の自己変革や宗教活動を通してなす、良い行いを根拠として命を守ってもらったというのではなかったのです。イスラエルの主の恵みのお約束の故に、使者を受け入れかくまったということだけで救いの保証を頂いたのです。ただ、その印としての血の色をした赤いヒモを窓に結びぶら下げたのです。これがラハブの行いに表された信仰でした。聖書のどこにもラハブが遊女をやめ、道徳的に立派な人になったので、殺されずにすんだとは書かれていないのです。



行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(30)

                                               池田 豊

 アブラハムが創造主の御前で義とされたのは、神の律法の基準を守ることができたからではありません。モーセによって律法が与えられる実に430年も前にアブラハムは、神の前で行いに表れる信仰によって獲得する義とは別の方法で神の御前で義と宣告されたのだとガラテヤ書は明言するのです。



ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。ガラテヤ3:16-18



 モーセによって律法が与えられる以前には、行いによって従うべき神の正しさの基準が人間に啓示されていなかったのでしょうか。もちろんそうではありません。人間の良心の内に創造主の律法は書き記されていました。アブラハムはそのような意味でも神に従おうとしていた人であることは疑問の余地がありません。しかし、そのようなアブラハムが自分の正しさを主張する方法では、人々の前では義なる人と認められるようなことがあったかもしれませんが、創造主の御前では絶対に義とされることはないとローマ書、ガラテヤ書は断言するのです。創造主の御前で義とされるのは、唯一の救い主、メシヤ、キリストが与えてくださる恵みの約束が信仰によって適用される場合以外にはないというのです。



行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(29)

                                                  池田 豊

アブラハムが創造主の御前で義と認められたのは、行いに表れる信仰の従順があったからではありません。そうではなく、行いと無関係に創造主の約束を信頼する信仰、すなわち創造主の約束の真実性故に義とされたのです。そのことはガラテヤ書が力強く解説しています。



あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。

ガラテヤ3:5-6



そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。ガラテヤ3:9-11



ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。ガラテヤ3:16-17



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