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宮沢賢治の“雨にもマケズ”に描かれた人

宮沢賢治の“雨にもマケズ”に描かれた人物にはモデルがあったということは、よく言われています。インターネットのサイトにもそれに関する情報を掲載してあるものがいくつかあります。その主なものを以下にまとめて見ました。それぞれの直接のサイトをご訪問なさって、詳しくご覧になると良いかと思います。



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NHK デジタル教育チャンネル で以下の番組が放送されました。





こころの時代?宗教・人生



“デクノボー”という生き方?宮沢賢治と斉藤宗次郎の交流



放送日 2005年6月12日



http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090506130030126/d





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二荊自叙伝



作者: 斎藤宗次郎, 栗原敦, 山折哲雄



岩波書店 出版



http://d.hatena.ne.jp/asin/4000242342



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斎藤宗次郎





出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





斎藤 宗次郎(さいとう そうじろう、1877年2月20日 - 1968年1月2日)は、「雨ニモマケズ」のモデルとも言われるキリスト教徒。岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)生まれ。





目次





    * 1 内村鑑三との交流



    * 2 宮澤賢治との交流



    * 3 著書



    * 4 外部リンク





[編集] 内村鑑三との交流





斎藤は内村鑑三の弟子の無教会主義キリスト教徒である。





日露戦争の際、内村に影響され、本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をする。心配した内村が花巻を訪れ、説得し斎藤は翻意するが、すでに県当局からにらまれ、小学校教員の職を失う。その後は新聞取次店を営みながら生計を立て、清貧と信仰の生活を送る。画家の中村不折は彼を「花巻のトルストイ」と呼んだ。晩年、多くの弟子に裏切られ、「弟子を持つの不幸」という文まで書いた内村に終生尽くし、昭和5年(1930年)の内村の死の際には隣室に泊り込んで日夜看病した。





[編集] 宮澤賢治との交流





同郷の出身で日蓮宗(国柱会)の信者だった宮澤賢治とは宗派を超えた交流があり、大正13年(1924年)の日記には賢治の勤めていた花巻農学校に斎藤が新聞の集金に行くと賢治が招きいれ一緒に蓄音機で音楽を聞いたり、賢治の詩「永訣の朝」らしきゲラ刷りを見せられたという記述が見られる。また、賢治の散文詩「冬のスケッチ」には斎藤をもじったと思しき「加藤宗二郎」という人物が出てくる。





一部には「雨ニモマケズ」のモデルであるという説がある。これについては、岩波書店から刊行された日記「二荊自叙伝」の解説で賢治研究者の栗原敦が、「雨ニモマケズ」には賢治の嘆きや弱さがにじんでおり、安易に斎藤に重ねることは、迫害に耐えた斎藤の強固なキリスト者としての独自性を見逃すおそれがあると指摘している。







昭和2年(1927年)、上京。昭和43年(1968年)、91歳で死去。





[編集] 著書





    * 「花巻非戦論事件における内村鑑三先生の教訓」(クリスチャン・ホーム社)



    * 「ある日の内村鑑三先生」(教文館)



    * 「二荊自叙伝」(上下、岩波書店)





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E8%97%A4%E5%AE%97%E6%AC%A1%E9%83%8E





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平和の光  Hebaragi7



2005/05/28



雨ニモマケズ





雨ニモマケズ





風ニモマケズ





雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ





丈夫ナカラダヲモチ





慾ハナク





決シテ瞋ラズ





イツモシヅカニワラッテヰル





 





よくご存知の宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩の一節です。5月22日付けの朝日新聞の朝刊に、5月12日に有楽町の朝日ホールを会場にもたれた日本文化研究所(日文研)主催のシンポジュームに関する記事がありました。テーマは「『雨ニモマケズ』の心を探る」というもので、そこに、宮沢賢治と岩手県花巻市の斉藤宗次郎(さいとう・そうじろう)氏との関係について語られていました。





日文研の元所長、山折哲雄氏の基調講演によると、日本近代の幕開けに貴重な役割を果たした内村鑑三と宮沢賢治の研究の中から、岩手県出身の斉藤宗次郎というキリスト者が浮かびあがってきたといいます。





宗次郎は明治10年花巻に生まれ、地元の小学校教諭となりました。23才で内村鑑三の影響を受けてキリスト教に入信、明治36年日露戦争の開戦に反対し、兵役と納税の拒否を決意しました。学校でキリスト信仰に基づく非戦論を教えたことから退職に追い込まれそうなことを知った内村鑑三は急きょ花巻を訪れましたが、時すでに遅く彼は退職をしてしまった後でした。以後20年間にわたって新聞配達業を天職と考えて配達に従事しました。配達をしながら神に祈ることや、人々と接することを通して髪を伝えることが、宗次郎にとって何よりの喜びであったということです。





賢治は20才近く年の離れた宗次郎を父親のように慕い、宗次郎は子どものような年齢の賢治を「先生」と呼んで慈しんだそうです。山折氏によれば「キリスト信仰の精神に支えられて懸命に配達を続ける宗次郎の姿は『雨ニモマケズ』の『デクノボー』と重なるのではないか」ということです。





 





 賢治の生家は浄土真宗で、幼いころには親鸞の教えにふれました。中学時代はキリスト教の影響もあり、後に法華経へ関心を寄せるようになりました。内面においてさまざまな宗教遍歴を持つ賢治の平素の生活は、あるときは春画を集めたり、クラシック音楽に傾倒したりするという放蕩性が指摘されることもしばしばあります。こうした相反する内面に加え、結核に冒されたことにより、賢治は自らの生の限界も知る者でした。キリストの教えに一途に生きる宗次郎の生き方は、賢治の心に鮮烈に残ったことと思います。





http://jbutpc.spaces.live.com/blog/cns!A308C9A4C37EB559!131.entry





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赦すこと





              「雨にも負けず」







1. みんな仲良く!





 「みんな仲良く!」。これは私の今年のモットーです。うわべだけでなく、心からみんなが仲良くできたら、生きていることが楽しくなります。生活の最も基本的なルールは、「人と仲良くする」ことだと思うのです。言い換えれば、「お互いに赦し合い、お互いに愛し合う」ということです。





 どこの国の道徳や法律も、「人と仲良くする」ことが、基本的なベースになっています。相手を赦し、お互いに愛し合って、みんなが仲良くしていると、すべてがうまくいきます。なにをしても楽しく、どんなこともうれしくて、笑いがあふれます。みんなで建設的なことを話し合い、新しいことを一緒にやろうとします。赦し合い、愛し合っていれば、道徳や法律も必要ありません。「ああしてはいけない。こうしなければならない」とか、「権利や義務」などは、話題にもなりません。なにか問題が起きても、話し合えばすぐに解決してしまいます。





 ところが、「お互いに赦し合い、お互いに愛し合って、みんなが仲良くする」という基本がくずれると、すべてがうまくいかなくなってきます。愛がなければ、相手を赦し、相手を信用することができませんから、なんとかして自分の権利を守り、自分の利益を優先しようとします。そうすると、いろいろなことで他の人とぶつかって、利害の調整をしていかなくてはなりません。道徳や法律の規準に従って、利害を調整しなければならなくなるのです。





 でも、道徳や法律の解釈が微妙に食い違っていると、利害の調整がうまくできません。この微妙な食い違いが、初めのうちは心の不満に留まっていますが、次第に態度に現れ、やがてはことばの言い争いになってきます。最後には暴力沙汰に発展していくこともあります。暴力沙汰になると、力の強い者が一方的に勝ってしまい、社会生活の平和が乱れ、公平な解決はできません。





 暴力は放っておくと、個人から家族ぐるみや集団の暴力に発展し、国と国との戦争にまで拡大する危険をはらんでいます。





2. 「雨にも負けず」





 宮沢賢治の有名な詩、「雨にも負けず」の中に、すばらしいことばがあります。



 



   「北にけんかや訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、、、」





ということばです。「雨にも負けず」の主人公は、けんかや訴訟をしている人のところに行って、「つまらないからやめましょうよ」と言っていたというのです。





 実は、「雨にも負けず」の主人公は、宮沢賢治が理想として描いた架空の人物ではなく、実在した人だったのです。宮沢賢治は、同じ郷里の岩手県花巻の斉藤宗次郎をモデルにしてこの詩を書いたのだ、と言われています。禅寺の三男として生まれた斉藤宗次郎は、内村鑑三の感化によりクリスチャンになったがゆえに、石を投げられ、親から勘当され、小学校の教師を辞めさせられ、何度も家のガラスを割られたりしました。9歳の長女は、「ヤソの子ども!」と言われて、みんなからいじめられ、ついにはおなかを蹴られて腹膜炎を起し、亡くなってしまったのです。





 このような苦しみの中で、斉藤宗次郎は神に祈り、ただ「神のみこころが成りますように!」と、くじけることなく、神に従いつづけました。普通なら何度もけんかし、何度も裁判をしていたはずです。しかし、宗次郎は、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」道を選び、決して怒らず、決して争わず、地元の人たちに愛をもって熱心に福音を伝えたのです。





 それは、「東に病気の子あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人があれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、、、」という宮沢賢治の詩に表れています。牛乳配達と新聞配達のために一日40キロの道のりを、10メートル走っては神に祈り、10メートル歩いては神に感謝をささげたという宗次郎の姿が目に浮かびます。





 「けんかしたって、裁判したって、本当の解決はないからやめなさいよ。それよりも、相手を赦して仲良くしたらどうですか」。斉藤宗次郎は自分の体験から常々こう言っていたのでしょう。本来冷静な議論をして衡平な判断を求めるべき裁判の場が、お互いの利害打算をむき出しにして感情をぶつけ合う戦場になっていることを、よく知っていたのだと思います。





 もちろん、国の政治や行政にかかわる問題とか、人権にかかわる重大な社会問題等は、裁判によって公正な判断がなされなければなりません。しかし、「個人同士のもめごとは、けんかや裁判で解決するよりも、愛をもって相手を赦すとか、お互いによく話し合うとか、誰か信頼できる人に仲裁に入ってもらうとかした方が、はるかによい解決がもたらされる」というのが、私の長年の弁護士生活の結論です。



 宮沢賢治の「雨にも負けず」は、人間としての理想的なライフスタイルを描いた詩です。相手を赦し、相手を愛して、みんなが仲よくしていけば、すべての問題は解決してしまうのです。







                          ささき みつお (弁護士)





http://blogs.yahoo.co.jp/dreamtaji8524/14396533.html





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「  雨にもマケズ・・  」   



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆







岩手県が生んだ詩人、童話作家に宮沢賢治がいます。彼の作品に有名な「雨ニモマケズ」という詩があります。この詩は彼が晩年に使っていた手帳に記されたものですが、そこには病気の苦しみや、どうしたら病気から逃れることができるかという思い、死ぬかもしれないという死の恐怖、そういう気持ちを映し出す言葉がところどころに書きつけられてありました。この手帳の真中あたりにぽつんと現れてくる「雨ニモマケズ」の詩には、最後の方で「デクノボウになりたい」という言葉が記されています。







苦しみと不安の中で賢治はそう書いているわけですが、「デクノボウ」とは何のことなのか、誰のことなのか良くわかりませんでした。最近になってわかったことですが斉藤宗次郎という実在した人物そのモデルになっているというのです。







斉藤宗次郎は花巻のあるお寺の出身ですが、小学校の先生になったころ内村鑑三の影響を受けクリスチャンになりました。内村鑑三はクリスチャンとして日本の近代思想史に大きな史跡を残した人です。斉藤宗次郎は内村の教えを受け学校でも子供達に非戦の思想を教えました。







当時は日露戦争のまっさい中でしたので、そのような行動は公務員として相応しくないと小学校をくびになってしまいました。そこで始めたのが牛乳配達の仕事でした。やがて新聞配達をするようにもなります。花巻中の街から街へ、家から家へ走り回って、毎日のように新聞を届けながら、宣教活動をやっていったのです。1日40kmの道を配達して歩いたと言います。十メートルいっては神に祈り、さらに十メートル歩いては感謝し、木陰や小川のほとりで祈りを捧げたというのです。







面白いことに、そのうちに宮沢賢治と知り合うようになりました。斉藤宗次郎は新聞配達の途中、子供達に会えばアメ玉をやり、病気の人があれば、そのベッドサイドまでいって慰めの言葉をかけるというありさまだったようです。まさに斉藤宗次郎こそ、西に病気の子供があれば看病してやり、東に疲れた母親がいれば代わって稲の束を背負ってやるという生活を普通にやっていた人間でした。そういう斉藤宗次郎の生活ぶりを見ていて、宮沢賢治がだんだんクリスチャンである彼の世界にひきつけられていったのでしょう。







宮沢賢治の詩に以下のようなものがあります。







雨にもまけず





風にもまけず





雪にも夏の暑さにもまけぬ





丈夫なからだをもち





欲はなく





決して瞋(いか)らず





いつもしづかにわらっている





一日に玄米四合と





味噌と少しの野菜をたべ





あらゆることを





じぶんをかんじょうに入れずに





よくみききしわかり





そしてわすれず





野原の松の林の蔭の





小さな萱ぶきの小屋にいて





東に病気の子供あれば





行って看病してやり





西につかれた母あれば





行ってその稲の束を負い





南に死にそうな人あれば





行ってこはがらなくてもいいといひ





北にけんくわやそしょうがあれば





つまらないからやめろといひ





ひでりのときはなみだをながし





さむさのなつはおろおろあるき





みんなにでくのぼーとよばれ





ほめられもせず





くにもされず





そういふものに





わたしはなりたい





(宮沢賢治)









*宮沢賢治の詩のモデルとなった斉藤さんと言う人(あんまり知ってる人はいないでしょう)、誰も知らないところで命が輝ける人生・・一所懸命な人生(注:コラム「ん?一所懸命?」ぜひ読んでみてください)を送りたいなあって思いますね。







これから、どう生きますか?







あなたのようになれたらなぁ・・ そう言われる人生、素敵ですね!





ブログ 僕の生きてた生きてる生きる道 By じょぶ2122



http://plaza.rakuten.co.jp/jobujobu/4006





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RE・ホーム ひろば





宮澤賢治の雨にも負けずにはモデルがいた!!



雨にも負けず





雨にも負けず 風にも負けず





雪にも夏の暑さにも負けぬ



丈夫な体を持ち





欲はなく決して瞋(いか)らず



いつも静かに笑っている





一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ





あらゆることを自分を勘定に入れずに



よく見聞きし分かり そして忘れず





野原の松の林の蔭の



小さな萱葺きの小屋にいて





東に病気の子供あれば



行って看病してやり





西に疲れた母あれば



行ってその稲の束を負い





南に死にそうな人あれば



行って怖がらなくてもいいと言い





北に喧嘩や訴訟があれば



つまらないからやめろと言い





日照りのときは涙を流し



寒さの夏はおろおろ歩き





皆にデクノボーと呼ばれ



ほめられもせず 苦にもされず





そういうものに 私はなりたい







参考:以下の文章に出てくる斉藤宗次郎とは、宮沢賢治作の『雨にも負けず』の実際のモデルとなった人です。





 斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1887年に禅宗の寺の三男として生れました。彼は、小学校の教師になりますが、内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。



しかし、それからが大きな戦いのはじまりでした。





 当時は、キリスト教は、「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていました。彼は洗礼を受けた時から迫害を受けるようになり、石を投げられ、親には勘当さえ、小学校の教師を辞めさせられてしまいました。それだけではありません。



迫害の手は、家族にも及んできました。近所で火事が起きたとき、全然、関係がないのに、嫌がらせで、放水され、家を壊されたことがありました。何度もガラスを割られることもありました。そして、さらにひどい迫害が起こりました。



9歳になる長女愛子ちゃんが「ヤソの子供」と言われてお腹を蹴られ、腹膜炎を起こして亡くなってしまったのです。亡くなる時、愛子ちゃんは讃美歌を歌って欲しいと言い、讃美歌を歌うと「神は愛なり」と書いて天に召されたそうです。





 宗次郎はそのような苦しみの中で、神に祈りました。そして、彼は「御心がなりますように」とくじけることなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。普通なら、迫害のない違う土地へ移るところですが、宗次郎は、むしろ、その土地の人々に神様の愛を持って仕えることを選びました。牛乳配達と新聞配達のため一日40キロの配達の道のりを走りながら迫害する人々にキリストを宣べ伝えました。10メートル走っては神に祈り、10メートル歩いては神様に感謝をささげた話はあまりにも有名です。





 そして、子供に会うとアメ玉をやり、仕事の合間にも病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り続けました。



彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、働き続けました。彼は「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。そして、1926年に彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことになりました。





 花巻の地を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。





 それは、彼が「御心がなりますように」と祈り、神様の御心に従った強い信仰と、どこまでも人々を愛し続けた愛の業がそうさせたのだと思います。この人こそ、東に病気の子供があれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負いという宮沢賢治の詩にあるようなことを普通にやっていた人でした。そういう宗次郎の生活ぶりを見ていた、宮沢賢治が「こういう人になりたかった」という思いを込めて、「雨ニモ負ケズ」という詩を書いたのではないかと言われています。





http://www.h4.dion.ne.jp/~rehome/051011hiroba/hirobatop.htm





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めんどり通信 (31)/ 2002年  斉藤宗次郎と宮沢賢治





”宮沢賢治”と言えば  <雨にも負けず、風にも負けず・・・>の詩が有名ですが、クリスチャンと何か関係があるなどと、知る人はあまりいないでしょう。 しかし、一般的に知られていること以上に よく調べておられる方がいます。 下記の情報も久保有政氏とケン・ジョセフ氏の本「聖書に隠された 日本・ユダヤ 封印の古代史2(仏教・景教篇)」から得たものです。 法華経信者の宮沢賢治が書いた詩、<雨にも負けず、風にも負けず・・・>のモデルはクリスチャンだったのです。







★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:1,2



   こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。





●1877年、岩手県花巻で、禅宗の寺の三男として斉藤宗次郎は生まれた。 15歳の時、母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となった。 彼は小学校の先生となった。 一時、彼は国粋主義に傾くが、やがてふとしたきっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになった。 1900年、信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになった。 花巻の地で第一号のクリスチャン。 斉藤宗次郎が洗礼を受けたのは12月の朝6時、雪の降り積もった寒い朝、豊沢川においてだった。珍しいことだと、橋の上には大勢の人が見物にやって来た。





これは、基督教が「耶蘇教(やそ)」「国賊(こくぞく)」などと呼ばれて、人々から激しい迫害を受けていた時代のこと。 洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなった。 親からは勘当され、以後、生家に一歩たりとも入ることを禁じられてしまった。 町を歩いていると「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられた。 それでも彼は聖書の神を信じた喜びにあふれて信仰を貫いていた。 主が彼を導いておられたのである。 しかし、いわれのない中傷が相続き、ついに彼は小学校の教師を辞めなければならないはめになってしまう。 





迫害は彼だけにとどまらず、家族にまでも及んでいった。 長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こし、何日か後、9歳という若さで主の御元へ行った。 その葬儀の席上、賛美歌が歌われ、天国の希望のなかに平安に彼女を見送ったが、愛する子を、このようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の内なる心情は、察するに余りある。 彼はその後、新聞配達をして生計をたてるようになった。 朝3時に起き、汽車が着く度に何度も駅に新聞を取りに行き、配達をするという生活だった。 重労働の中、彼は肺結核をわずらってしまい、幾度か喀血(かっけつ)した。 それでも、毎朝3時に起きて、夜9時まで働くという生活を続けた。 その後の夜の時間は聖書を読み、祈る時とした。 不思議なことに、このような激しい生活が20年も続いたが、体は支えられた。





朝の仕事が終わる頃、雪が積もると彼は小学校への通路の雪かきをして道をつけた。 小さい子どもを見ると、だっこして校門まで走った。 彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けた。 自分の子どもを蹴って死なせた子どもたちのために。



新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めた。



やがて、1926年、住み慣れた故郷を離れ、東京に移る日がやって来た。 花巻の地を離れるその日、‘誰も見送りに来てくれないだろう’と思って彼は駅に行った。 ところが、そこには、町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、またたくさんの生徒たちが見送りに来てくれていたではないか。 神社の神主や僧侶もいた。 さらに一般の人たちも来て、駅じゅう人々でごったがえしていたのだ。 宗次郎がふだんからしてくれていたことを、彼らは見ていたのだ。



彼は、人にほめられたいなど、人を基準にしていたのではなく、ただ、神、主イエス・キリストを基準に 物事を考え、思い感じることができるように 変えられていたのだ。 人々は宗次郎の内から、かもし出されていたキリストの香りを感じ、宗次郎を通してあらわされたキリストを見ていたのだ。 人々は、感謝を表しにやって来ていた。 身動きできないほど多くの人々が見送りに来てくれた。 そのなかのひとりに、宮沢賢治がいた。 宮沢賢治は、斉藤宗次郎が東京に着いてのち、彼に最初に手紙を出した人である。





宮沢賢治はその後5年後、有名な「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくった。 この詩は、最後は「そういう者に私はなりたい」という言葉で締めくくられている。 この詩のモデルになったのが、この斉藤宗次郎である。





【「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、決して怒らず、いつも静かに笑っている。 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを自分を勘定に入れず、よく見聞きし分かり、そして怒らず、野原の松の林の陰の小さな藁葺きの 小屋にいて、東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、日照りのときには涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶(でぐ)の坊と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされずーーそういう者に私はなりたい。」】





●宮沢賢治は斉藤宗次郎の生き方に深い共感を覚えたようである。 たとえ迫害されても決して怒ることをせず、自分の利益を追求せず、神の御言葉に従って生きていた人だった。



宗次郎は有名な人ではなく、 むしろ名も知れない人。 しかし、名も知れず、このようにキリストの足跡を辿って(たどって)行った人が まだまだ、いる。 彼らは、この世においては、名誉も地位もないが、神から見たクリスチャンである。





しかし、彼らが、主を信じた当初から そうだったわけではない。 主が彼らひとりひとりと共にいてくださって、聖書の約束どおりキリストのごとく変えてくださったのだ。 宗次郎をはじめ彼らが、絶えずしたことは、祈りつつ聖書を読み、祈り、交わりであった。 その結果が、その人を通してキリストの香りが言動を伴ってあらわれたのである。 主は、私たち、主イエス・キリストを受け入れ、神の子となったものたちを、キリストのごとくに変えようと、主の方が望んでくださっている。 主に、よりすがり、主キリストを求めている者を 必ずつくり変え、満たしてくださる。 





★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:22?26



   しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、様々の情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 互いにいどみあったり、そねみあったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。





http://mendoritusin12.sakura.ne.jp/2002/31.htm





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あんな話 こんな話  リック秋田谷



JCCA(日系カナダ市民協会)『月報』





★ 2004年 JCCA『月報』  12月号より







 気になる記事に目が留(と)まった。宮沢賢治(1896?1933)の代表作、「雨ニモマケズ」の詩にはモデルがいた可能性があると書かれてある。賢治の友人、斉藤宗次郎(1877?1968)がその人で、「雨ニモマケズ」の生き方をソックリ実践(じっせん)した人らしい。





斉藤宗次郎なる人物の略歴を要約すると次のようだ。





「賢治と同郷の岩手県花巻市生まれ。地元にて小学校教論の職を得る。教師時代、無教会主義キリスト教者の内村鑑三に心酔。聖書の教へや日露非戦論を生徒の前で述べたことが元で退職に追いこまれる。退職後は新聞配達業を天職と決め、29才から49才までの20年間を新聞配りで送る。雨の日も風の日も朝3時に起床し、25キロにも及ぶ新聞の束を背負って駆け足で配る。配達や集金のあいまに病人を見舞い、道ばたの子供たちに菓子を分け、人々からの相談にも誠実に応える。やがて、キリスト教への使命感から配達業をたたみ上京。内村鑑三の弟子として伝道に半生を捧げる」





ちなみに、賢治の方は熱心な法華教信者である。さて、宗次郎は21才から死にいたる頃までを克明に日記に綴(つづ)っている。それによると1921年から1926年の5年間は、当時、花巻農学校教論だった賢治と親交を深めていた時期に当たる。宗次郎が44才から49才の頃であり、上京するまで親交は続いていたことになる。





 このたび、ある大手出版社が宗次郎の日記を編纂(へんさん)し、「二茨(にへい)自叙伝」として出版するという。編集を担当した某文化研究センター所長も、宗次郎こそ「雨ニモマケズ」のモデルではと推測する一人らしい。





 賢治ほどの感性と想像力豊かな人がモデルを見て「雨ニモマケズ」を書き上げたとは私は思えない。宮沢賢治に対する少なからぬ思い入れがあり、感情先行で否定するきらいもあるが…、しかし根拠がない訳でもない。





『雨ニモマケズ』の詩は、賢治の死後一年ほどしてから発見されている。トランクに残された手帳の中に綴られていたという。賢治がこの詩を書いたのは死の二年前、1931年のことで、宗次郎との親交が薄れ始めてからすでに5年の歳月が経過しているのだ。モデル説に疑問を抱く根拠の一つである。じつは1928年(詩が生まれる3年前)に賢治は急性肺炎で倒れ、それ以来、亡くなる1933年まで何度か病臥(びょうが)している。おそらく急性肺炎を体験してからは死を身近に感じていたはず。事実、『雨ニモマケズ』を手帳にしたためる一月ほど前、旅先で病魔に襲われた彼はその時遺書を作成している。





 





これらの背景を考え合わせると、モデルとは関係なく賢治の心境変化が書かせた詩と考えるのが自然である。病弱になってしまった自分が口惜しく、ならば郷土の人たちのために、残る命を燃焼したいと願う心境があの詩を創造させたように思う。万が一モデルがいたのだとすれば、賢治が敬(うやま)ってやまなかった日蓮(にちれん)上人(しょうにん)あり、夭折(ようせつ)した心優しい妹のトシであり、そして交流をかわした幾多の善人たちの集合体であったろう。





宮沢賢治は数多くの童話をこの世に残した。そのうちの幾つかしか私は親しんでいないが、小学生の時、国語の教科書を通して知った童話に「よだかの星」があった。不幸な夜鷹の境遇と、目出たしめでたしで終わらなかった孤独な末路。子供心にいたたまれなさを感じたのを覚えている。知っていたそれまでの童話は、すべて、苦労や悲しみの果(は)ては幸せになる結末であっただけに、星になったという結末だけでは満たされぬ哀(あわ)れさが残った。同時に、現実世界の厳しさを垣間見た気がした。





数年して、小学校の講堂に全校生がすわって見た映画、賢治原作の「風の又三郎」も幻想的で印象が深い。調べてみると、1957年に制作された映画とある。主人公役は、当時まだ少年の久保賢(十年後、「二人の銀座」という映画主題歌を和泉雅子とデュエットした男優といえばお分かりだろうか)、松山省次(松山英太郎の弟)の名もある。





「どっどどどどうどどどうどどどう、 青いクルミも吹きとばせ すっぱいカリンもふきとばせ…」と又三郎が映画の中で唄う嵐を巻き起こすメロディは、47年を経た今でも口ずさむことが出来る。当時10才ほどのわたしは、主人公のマネをして嵐を巻き起こそうと何度も試みたものだった。メロディを覚えているということは、きっと何十回と口ずさんでいたに違いない。





 「雨ニモマケズ」も小学校の時に教えられた詩であり、先生の後からオウム返しにみんなで輪読した記憶があるが、当時は、つまらぬ詩だと思っていた。共感し始めたのは30才を過ぎてからだろうか…。共感の度合いは歳を重ねるごとに深まってゆく。





心身ともに健康でありたい。博愛の心を持ち、しかも実践(じっせん)する者でありたい。清廉(せいれん)、且(か)つ清貧を旨(むね)としたいと賢治は詩(うた)う。そして最後の節は、体裁とか、行為の代償とか、世間の評価などという煩悩(ぼんのう)を超越した無私の心を詩いあげている。





心惹(ひ)かれる、最後の一節を下に引用したい。





 





「日照りの時は 涙を流し、 寒さの夏は オロオロ歩き、 みんなに木偶(でく)の坊と呼ばれ、 褒(ほ)められもせず 苦にもされず、そういう者に 私は成りたい」











★ 2004年 JCCA『月報』  11月号より







著名なシナリオライターの一人に山田太一さんがいる。直接お会いしたことはないが、雑誌や映像からは穏やかで優しそうな人柄が伝わってくる。そんな氏の書いた随筆を先日読んだ。笑顔にまつわる話だった。「もう、43年も前の出来事だけれど…」と前置きして次のような内容を述懐(じゅっかい)されている。





当時、まだ20代の山田さんはシカゴの街を歩いていた。公衆トイレの掲示が目に止まる。掲示に従って進むと、前方にその建物が姿をあらわした。入口の手前まで来てそこが女性用であることに気付く。すましてクルリと向きを変えた時、すぐ後ろからやってきた20代前後の女性と目と目が合った。次の瞬間彼女が吹き出すように笑い、山田さんにうなずいて女性用へ入っていったそうだ。氏の文章を引用しよう。





「その笑顔がとてもよかった。邪気のない笑いで、それはたとえば、目前で小学3,4年生の男の子が同じ間違いをしてすまして引き返すのを見た大人の女性がつい笑ってその子にうなずくというような状況に近いけれど、そういう上下がなかった。もっと対等で、友人が思わず笑ってうなずいたような親密さがよぎり、あっという間にいなくなってしまった。あけっぴろげなのに、同時に目の中に節度もはじらいもあったように思う――――――――。その女性がとりわけ美人だったということはない。容姿より何より、とてもいい人柄とすれちがったという後味が残った」





山田さんはその後に続く数々の欧米旅行でも、もちろん日本の中でも、彼女のような笑顔に出会うことはなかったという。彼は随筆の最後をこう締めくくっている。





「見知らぬ人に、さらりと笑顔を向けること。それは難しい。とりわけ日本では難しい。しかし、私の中に40数年、数秒の笑顔が消えずにいるところをみると、小さなことに見えて、笑顔のあるなしは、相当大きなことなのかもしれない、と、いいつのりはしないが、今でも思い続けている」とある。もちろん、当時わたしは現場に居合わせたわけではないが、その笑顔がどのようなものであったかは想像できる。包み込むような、親愛感あふれる笑顔であったに違いない。





 





喜怒哀楽の中で、その人の気質が直截(ちょくさい)に現れるのが笑顔だという。確かに、緊張の伴わない自然な表情といえば笑顔であろう。その人、その人の気質や心のヒダまでもが投影されて、笑顔は様々なカラーに色分けされているのかもしれない。ともあれ、笑顔は人間関係を円滑にみちびく潤滑油(じゅんかつゆ)といえる。





だが、わたしたちは、周りからの笑顔によって日々癒(いや)されている事実に案外気付いてはいない。いや、気付いていたとしても、癒しの対象として過小評価してはいないだろうか。一方、自分たちのほうからは一体どれほどの笑顔を相手に発信しているのだろう…? 





笑顔を向けてくれる人に対して好感を抱くのは人情である。周りを見渡してみた時、親しき友ほどより多くの笑顔をこちらに向けてくれていることに気付く。彼らへの親しみが増してゆくのは当然の成り行きである。慇懃(いんぎん)な作り笑いや嘲笑(ちょうしょう)は別として、自然な笑顔は、寛容の象徴であり、「あなたに親近感を抱いていますよ」といった意思表示とも云える。もっとも、わたしの場合は、初対面の女性から放たれる社交スマイルも「親近感」と早合点するあまり、食い違いが多々生まれるのだが…。





人生は一度ポッキリのもの。しかめっ面で生きるのも人生、笑顔で生きるのも人生。心の持ち方次第でつまらなくも、楽しくもなる。ならば、なるべく笑うように、笑えるように自分を変えていくほうが得だ。自己を変えることで、幸せの濃度が少しずつ深まり、さらに相手の心までも和ませるというのであれば一石二鳥である。今日からさっそく始めようと思う。でも、ここで大切なのは笑顔の頻度(ひんど)。多すぎてもよくはない。締まりがないし、第一、「何か下心があるのでは…?」と疑われかねない。そのあたりの節度は難しい。





山田太一さんが随筆の中で紹介していたポール・オースターという人の言葉を最後に紹介しよう。この言葉は、エッセイ集、「トゥルー・ストーリーズ」の中の一節だそうな。「感動する言葉」として、ノートブックに早速したためた文章でもある。幸せになるための秘訣がこの一文にちりばめられている。





 





「街で他人に微笑(ほほえ)みかけること。知らない人に微笑みかけること。現金を渡してくれた銀行員に、食べ物を持ってきてくれたウェイトレスに、地下鉄で向かい合わせになった人に。誰か笑顔を返してくれる人がいるかどうかを見ること。それぞれの日に受けた笑顔の数をたどっておくこと。笑顔が返ってこなくてもガッカリしないこと。受けとった笑顔一つひとつを、貴(とうと)い贈り物と見なすこと」





 





 受け取った「笑顔」、まさに「貴い贈り物」以外の何ものでもない。





http://members.shaw.ca/akitayarick/2004-annahanashi.htm





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宮沢賢治「雨にも負けず・・・」の実在のモデルについて



雨ニモマケズ、風ニモマケズ」と言う宮沢賢治の詩はあまりにも有名ですね。



学校の教科書にも登場し、なかには一字一句覚えている人もいるかも知れません。





「雨にも負けず、風にも負けず、





雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、





決して怒らず、いつも静かに笑っている。





一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ





あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、





そして怒らず 野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、





東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、





西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、





南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、





北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、





日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、





みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、





苦にもされず そういう者に私はなりたい」





この詩の最後に書かれている そういう者に実在のモデルが居たことを、ご存知でしたか?



その人の名は斉藤宗次郎といいます。





宗次郎は1877年岩手県花巻市でお寺の子供に生まれました。



彼は小学校の教師になり、ふとしたきっかけで、聖書を読むようになりました。





そして1900年冬洗礼を受け、花巻市ではじめてのクリスチャンになりました。





この時代、キリスト教がまだ「耶蘇教」(やそ)となどと呼ばれ



人々から迫害を受けていた頃でしたので、クリスチャンになった日から親から勘当されました。



町を歩いていると「やそ」「ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられたそうです。





彼はいわれのない中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めるはめになります。



また、宗次郎の長女はある日「ヤソの子供」と言われ腹を蹴られ、



腹膜炎を起こし、数日後9歳という若さで天国に行きました。



それでも、彼は信仰を捨てずに、そこに生き続けたのです。





教師を辞めることになった彼は朝の三時から新聞配達をして生活をするようになりました。



重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながら、それでも毎朝三時に起きて、



夜遅くまで働き、聖書を読み、祈ってから寝るという生活を続けました。





不思議な事に、このような激しい生活が二十年も続いたにもかかわらず、



彼の体は支えられていました。





また、あのように自分の娘を失ったのにかかわらず、冬に雪が積もると、



彼は小学校への通路を雪かきをして道を作りました。



彼は雨の日も、風の日も雪の日も休む事なく、地域の人々のために働き続けました。



また、新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。



彼の生き方は、第一にイエス、第二に周りの人々、最後に自分という優先順位をつけていたのです。







やがて彼は、東京に引越しする事になりました。



その彼を見送るために迫害していたはずの町長や、学校の先生や、たくさんの生徒、



また、町中の人々が集まりました。



人々は宗次郎がいつもしていた事を見て、感謝をしにやってきたのでした。 





その中人々の中に宮沢賢治もいて「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくったのでした。





宗次郎は迫害されていたのにもかかわらず、どうして日々このようなことが出来たのでしょうか?



普通なら、仕返しをしたいと思うものでしょう。





それを彼は我慢するのではなく、「イエスの名のゆえに苦難を受けるにふさわしい身分とされた」と



むしろ喜んでいたように思います。



かってイエスの伝道者のパウロのように。





イエスからの愛が彼に流れていて、それが人々に伝わったということだと思うのです。





聖書に「人に出来ないが神には出来る」と書いてあるとおりです。





大津福音キリスト教会 ホームページより





http://homepage3.nifty.com/outsuchrist-g-church/newpage33.htm





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Amazing Grace



Sep.2006,



「教育の根本を考える」  野村正雄(牧師)



「主を恐れることは、知識の初めである。」



(聖書)



聖書では、神を恐れることが知識の初めであると言っています。



どなたでも、子供は可愛いものですね。しかし、時には、三浦綾子さんが言っているように、悪い言葉ですが「コンチクショウ」と思うことがあるのではないでしょうか。だから、子供を川に捨てる、という驚くべき事件が起きたのではないでしょうか。



母親となった人は、嫁に行くまでは、朝早く起きないでも良かった。料理しなくても良かった。寝たいときに寝ることが出来た。という人が多いのではないでしょうか。ですから、そんなに相手の身になってとか、いろいろ考える事も少なかったのではないでしょうか。しかし、赤ちゃんが生まれると、生まれた赤ちゃんは、オギャーオギャーとしか、泣かないのですから、本当に困ってしまいます。お乳飲みたいのか、痛いのかオムツ取り替えて欲しいのか、全く分かりません。しかし、少し過ぎると、母親は、赤ちゃんの泣き声で「こう言っている」と思いやれる人になります。今まで、思いやる事など少なかった娘が思いやらねばならない母親に変化するのですから大変です。言葉の言えない、一方的な要求しかない赤ちゃんを預けられるのは、神様の知恵でありましょう。教育の根本を、別の言葉で言うならば、「宗教」という言葉である。宗教と言うのは、「教えの宗」(おしえのもと)と言うことです。教えの宗である宗教心の上に人間をつくって行かないで、聖なる宗教抜きで、人間をつくろうとするのは、土台抜きで家を建てようとするようなものです。ですから、一流大学に行っても、もらってはいけないお金をもらってしまうような情けない判断の出来ないような子を育ててしまうのです。



聖書の神様を恐れて生きることを心に留めていきませんか。





結城福音キリスト教会 結城市戸張町603



0296-33-4359



http://ibayuuki.infoseek.ne.jp





イエス・キリストに出会ってから、貧しかった私の心の中に、宝物を持ったような喜びが与えられました。それは、嫌いだったものが美しく見えるようになるというような形で現れてきたのです。







「デクノボー」のモデル



「雨ニモマケズ 風ニモマケズ……。」これは宮沢賢治の有名な詩ですね。おそらく知らない人はいないでしょう。ところで、この詩にモデルがあったということはご存知でしょうか。宮沢賢治に「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と言われたそのモデル、それはは、「花巻のトルストイ」と呼ばれた斉藤宗次郎という人です。



斉藤宗次郎は1877年、岩手県に曹洞宗の寺の子として生まれました。しかし、あるきっかけで彼は内村鑑三の本を読み、1900年にキリスト教に入信しました。彼は小学校の教員をしていましたが、日露戦争のとき、内村の唱えた非戦論を生徒に語ったため、退職を余儀なくされました。教員を辞した斉藤は、新聞取次ぎ店を開きました。彼は、新聞配達を「天職」ととらえ、毎朝3時に起き、20kgを超える重さの新聞を大風呂敷に入れ、一日40キロの道のりを配って歩きました。もちろん、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」にです。



人々は、はじめ、そのような斉藤を「ヤソ信者」「国賊」とののしり、石を投げつけました。しかし、そのような仕打ちに対しても斉藤は「決シテ瞋ラズ」、配達や集金の途中、病人を見舞ったり、人々の相談事に誠実に応じたり、道端にいる子どもに菓子を与えたりしました。配達の終わったあと、しばしば彼は花巻農学校に立ち寄り、そこで教鞭をとっていた宮沢賢治と親交を深めたといいます。彼は新聞配達をしながら、10m走っては神に祈り、10m歩いては神に感謝し、小川のほとりや木蔭で休みを取り、また祈ったと言われています。そのような斉藤の姿に人々は次第に尊敬と信頼を寄せるようになりました。1926年、彼が東京に移るときには、200人を超える見送りの人で花巻駅のホームがいっぱいになり、列車も発車時刻を少し遅らせるほどだったといいます。上京後、斉藤は内村鑑三の働きを助け、内村の死を看取ることにもなります。その後も斉藤はキリスト者として忠実に歩み、1968年に天に召されたのでした。「雨ニモマケズ」に出てくる「デクノボー」のモデルは、クリスチャンのスーパー新聞配達人だったのですね。ここで下手な句を一つ。「主にありて 我もなりたし デクノボー」(恵庵)







http://74.125.95.104/search?q=cache:yy0xycRTvY0J:www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4937/AMG20060903.pdf+%E6%96%89%E8%97%A4%E5%AE%97%E6%AC%A1%E9%83%8E&hl=ja&ct=clnk&cd=29&lr=lang_ja





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栄シャローム福音教会 



小山 英児 牧師





2001年04月29日 | サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ (16:8)





宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、不朽の名作だと思います。最近、そのパロディーバージョンの「雨にもあてず」というのがあることを知りました。





こちらの「雨にもあてず」のモデルは、誰かは知りませんが、原作の「雨ニモマケズ」の方は、モデルがいると言われています。宮沢賢治と同じ岩手県の花巻にいた「斉藤宗次郎」というクリスチャンが、その人だと言われています。





この斉藤宗次郎という人は、小学校の教師をしていました。教師になった頃、内村艦三の影響を受けて、クリスチャンになりました。彼はやがて、非戦思想を子供たちに教えて、小学校をクビになってしまいます。そこで彼は、牛乳配達と新聞配達の仕事をはじめました。一日40キロの道を配達してまわりながらキリスト教の宣教をはじめたのです。十メートル行っては神に祈り、さらに十メートル歩いては感謝し、木陰や小川のほとりで祈りを捧げたといいます。配達を終わった後に賢治が勤めていた花巻農学校に立ちより、賢治と話し合うようになりました。斉藤宗次郎は配達の途中、子供たちに会えばアメ玉をやり、病気の人があればその枕元までいって慰めの言葉をかけるというありさまだったようです。斉藤宗次郎こそ、





東に病気の子供あれば、行って看病してやり、





西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負い





という宮沢賢治の詩にあるようなことを普通にやっていた人間でした。そういう斉藤宗次郎の生活ブリを見ていた、宮沢賢治が、「本当はこういう人になりたかった」という思いをこめて、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのでは、と、言われています。





現代でも、 「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と思わせる生き方が有ります。もちろん、宮沢賢治の時代と今の時代は違いますが、クリスチャンの原則は変わりません。「本当はこういう人になりたかった」という人に、今からでもなれるのです。聖書は、変わりませんから、聖書の原則に生きる時に、私たちはそういう者になっていくのです。今朝の箇所からいくつかの指針を、学んでいきましょう。





ダビデ王がイスラエルの王になってまずしたことは、神様の象徴であった契約の箱を、首都のエルサレムにもってくることでした。そして、祭司たちを任命したのです。今、読みました箇所は、ダビデがその時ささげた神様への賛美歌です。興味深いことは、ここには私たちへの指針が書かれています。





この指針を見る前に、まず1節をご覧下さい。いけにえが表わしていることはイエス・キリストの十字架です。聖書にはっきりとこう書いてあります。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(ヘブル9:26)クリスチャンになる方法は、いたって簡単です。このキリストの十字架のいけにえが、私のためであったと信じるだけなのです。キリストを信じて、神と和解するだけなのです。それを、公けにすることが、洗礼なのです。それでは、もう神と和解したから、後は、わがまま気まま流れるまま、どうでもいいかといいますと、そういうわけでもありません。クリスチャンとして、どう歩んだら良いか、その指針の一部が、今朝の箇所に登場しています。





まず第一番目は、主に感謝して生きるということです。(8節)一般の人が一般的に使わないクリスチャン用語というのが、あると思います。その一つは、「感謝します」という言葉だと思います。クリスチャンは、挨拶がわりに、「感謝します」と言う傾向に有ります。「すべてのことについて感謝しなさい」(?テサロニケ5:18)とは、聖書の言葉ですから、良い習慣だと思います。どんなことでも感謝する習慣は、必ず私たちの人生を豊かにしてくれます。





昔、こんな話を聞きました。この先生は、そばが大好きで、私もそばが大好きですが、(イエス様のソバが一番ですが)、山奥の、有名なそば屋に行ったそうです。たいそう、遠くて大変だったそうですが、とにかく辿りついたそうです。そして、クリスチャンは、まず、食前の感謝の祈りをささげるのです。「なんだこんなおかずか!」などといわずに、イエス様の御名によって感謝していただきます」と、感謝するわけです。食べ終わって、この先生が、代金を支払おうとすると、そこにいたお店の主人がこう言ったそうです。「お客さん。今日は、感激しました。あんなにも、そばに合掌する人は始めて見ました。(もちろん、そばにしたわけではありませんが、そんな事、言い出す余裕もなかったそうですが・・・)つきましては、この感動に値段を付けたくありません。」つまり、タダになったそうです。私はまだ、一度も同じ経験はありませんが・・・。でも、いつも感謝することは大切なことです。不平、不満は、クリスチャンらしくありません。クリスチャンは、感謝する者です。すべてのことについて感謝する習慣を、ぜひ、身に付けましょう。神様は、感謝されるべきお方です。34節にこう書いてあります。「まことにいつくしみ深い」と訳された言葉は、原文のヘブル語では「トーブ」、英語で言う「good」です。ここは、こう訳すこともできます。「主を感謝しよう!主は良い方だから。」神様は良い神様であり、物ごとすべてをよきになしたもう神様です。ですからクリスチャンは、プラスに見える時だけではなく、マイナスに見える時も感謝するのです。神様は良い神様であり、最善以下をなさらないお方、マイナスをプラスにしてくださるお方、万事を益としてくださるお方ですから、どんな時も、感謝するのです。もちろん、マイナスに見える状況で、神様を感謝することは難しいことです。私も、この場所で、ひとりで、何度も涙を流して主に感謝しました。「分かりません。でも、主よ、あなたは良い神で、すべてをご存じです。あなたは、最善をなしてくださる、万事を益としてくださる方です。感謝します。この状況も、良く分かりませんが、あなたは、ご存じですから、感謝します。」その後、すぐ状況が変われば、最高なのですが、いつもそうとは限りません。かなり後にならないと分からないことがあります。しかし、一つのことは、はっきりしています。神様は、必ず万事を益としてくださるということです。神様は良いお方です。だから、感謝しましょう。感謝する習慣を身に付けましょう。 ルカの福音書17:11?19に、こんな話しが書いてあります。





「喉元すぎれば、熱さ忘れる」ということでしょうか、感謝を忘れてしまっていないでしょうか?先日、こんな話を聞きました。ある方が、どしゃぶりの雨の日に、タイヤを穴に落としてしまった車を見たそうです。かわいそうに思ったこの人は、どしゃブリの雨の中、ズブ濡れになりながら、助けたそうです。すると、タイヤが穴からでると、車は、そのまま去ってしまったそうです。「ありがとう」もなく・・・。私たちは、どうでしょうか?感謝の心を忘れていないでしょうか?いつも、感謝の心に満ちあふれている、 「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」





第二番目は、御名を呼び求めて生きるということです。(8節)クリスチャンにとって、「御名を呼び求める」ということは、どういうことでしょうか。イエス様は、こう言われました。「あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」(ヨハネ16:26)ですから、クリスチャンは祈る時に、イエス様のお名前によって祈っています。これは、大切なことなのです。アメリカにカスコという会員制のスーパーがあります。とても安いのですが、会員制なのです。つまり、このスーパーと契約関係にある人しか入れないのです。それでは、会員ではない人はどうやって中に入れるのでしょうか?自分の名前では入れないのです。そこの会員の人の名前で、そこの会員の人と一緒にならば入れるのです。私たちは、そのままでは、神様の御前に出ることはできません。私たちは、自分の名前では神様の前に立つことは出来ないのです。イエス様の名前で、イエス様と共にならば、神様の御前に立つことができるのです。イエス様は言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)私たちは、いつも、御名を呼び求めていなければ生きていけない存在なのです。キリストから離れて何が出来るというのでしょうか?日銀の速水総裁がこんな事を言っていました。「座右の言葉をあまり言いふらすのは良い趣味ではないと思うが、私はラインホールド・ニーバーという人の「変えることのできるものを変える勇気、変えることのできないもの、変えられないものを受入れる冷静さ、その両者を見分ける知恵を与えたまえ」という祈りを常に座右においている。変えられないものと言ったら私の年齢などは変えられないと思うが、変えられるものはかなり身の回りにたくさんある。経済構造から始まって日本銀行の中にもあるし、金融システムについてもあると思う。そういうものを変えていくことが私の使命ではないかというふうに思うので、できるだけ努力していきたいと思う。具体的な答にならないが、私の決意を述べさせて頂いた。」祈りが座右の言葉だというのは素晴らしいことだと思いませんか?現実的にも、日々の歩みの中で、準備のないまま突っ込んでいってしまうのではなくて、ちょっとの間、立ちどまって祈ってみる。これが、私たちを不必要な失敗や失望から救います。ニューヨーク生命保険会社に、リー・バックスという人が勤務していました。彼がマンハッタンの本社で仕事をしていると、「会長がお呼びです」と秘書から連絡がありました。彼はこう思いました。「いよいよ念願のマーケティング担当副社長のポストが手に入るぞ。」営業部員として入社して 20年、この日を目指して彼はひたすら働いてきたのです。彼は、当時、東部の地区営業部長でしたが、今度は全国一万人のセールスマンを統括する会社の要ともいうべきポストに起用されることを確信していました。会長室は一つ上の階で、彼は、階段の方が早いので、階段を使いました。ところが、途中の踊り場で、突然立ちどまり、ちょっとの間、彼は考え、祈りました。「どんな事態も冷静に受け入れ、最善の方向にもっていくことのできる賢明さと落ち着きを与えてください。」彼が会長室に入ってみると、実は左遷の命令だったのです。彼はがっかりしました。怒りが込み上げてきました。でも、それも一瞬でおさまったのです。先程、踊り場で祈ったおかげで、彼は椅子にゆったりかけ、「わかりました」と答えることが出来たのです。バックス氏はこのマイナスを大きなプラスに変えて、4年後にはなんと副社長に昇進したそうです。御名を呼び求めて生きる人生、「サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」





第三番目は、伝えて生きるということです。(8節)





クリスチャンの信仰は、伝えることを通して広がっていきました。イエス・キリストが自分にどんなことをしてくださったかということを伝えることを、キリスト教用語で「証」と呼んでいます。証することは、クリスチャン生活の中で大切なことの一つです。証をすることを通して、本人は、神様がしてくださったことを、自分のうちに消化することが出来ます。証を聞くことを通して、今も働く神様の力を、周りの人は確認することができるのです。そもそも、なぜ、キリストを受け入れた後も、クリスチャンは、痛み、悲しみ、罪をもつ存在として地上に置かれたままなのでしょうか。なぜ、神様は、キリストを受け入れたら、さっさと天国に引き上げて、それらから解放してくださらないのでしょうか?天国においては、はるかに良い礼拝ができ、交わることができ、祈ることができ、賛美することが出来、神様のみことばを聞くことが出来、楽しむことが出来るのです。この地上でしかすることが出来ないのは、二つだけです。罪を犯すことと、キリストを知らない人に、証しすることです。神様は、どちらをさせるために、私たちを地上に残されたのでしょうか?私たち一人一人には、地上で果たすべき使命がありますが、その中には、人々にイエス・キリストを伝える事が含まれているのです。ローマ10:13?14に、こう書いてあります。伝えなければ、どうして聞くことができるでしょうか?それでは、具体的に、どうやって伝えていくことができるでしょうか?いろいろな方法があると思います。トラクトを渡すことも一つです。自分の証しを話すことも一つです。いろいろ考えられますが、この間、こんな証しを聞きました。





この方は、キリスト教が大っ嫌いだったそうです。母親がクリスチャンになって、それが気に食わなくて、5冊ぐらい聖書を破り捨てたそうです。でも、ケンカばかりしていた両親が、母親がクリスチャンになったことを通して、大きく変化したそうです。この方は、母親の変化を見ました。そしてこれは、本当に違いないと感じて、クリスチャンになったそうです。伝える方法は、いろいろあります。でも、私たちの生きざまは言葉以上に力があります。ですから、聖書は言います。





いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。





すべての事について、感謝しなさい。





これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。





(?テサロニケ5:16?18)





いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する。これが、神様のみこころ、私たちに望んでいる指針です。イエス・キリストを伝えて生きる人生、「サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」





ダビデの歌は、続きます。





感謝して生きる。祈りつつ生きる。伝えて生きる・・・。





この生きる力は、どこから来るのでしょうか?





「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(?コリント3:18)





イエス・キリストを信じる者には、生きる力が与えられます。





御霊なる主、聖霊なる神さまが、その力を与えてくださいます。





感謝して生きる力。祈りつつ生きる力。伝えて生きる力。>





御霊なる主、聖霊なる神さまが、その力を与えてくださいます。





http://www.sakaeshalom.org/pastors.html





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雨ニモ負ケズ



2007-06-16 10:44:33





母が先日、



父方の私の祖母の納骨のため、



花巻?盛岡へ出かけてきました。



大好きな宮沢賢治の資料館などをまわり、



納骨の集まり以外の時間は、



楽しい一人旅をしてきた様子





で。



その旅行の話から、私の叔父が、



興味深い情報を教えてくれました





あの有名な「雨ニモ負ケズ」という詩の



モデルとなった人物についての話です



はっきりした話ではないようですが、斉藤宗次郎という人が



モデルになっている、というのが有力な説だそうです。





ちょっと調べてみました





 斉藤宗次郎は、1877年岩手県花巻の曹洞宗のお寺に生まれました。15歳で養子に出され、師範学校に入り小学校の教師になりました。その頃、内村鑑三の著書に深い感銘を受け、洗礼を受けクリスチャンとなりました。花巻市で第一号のキリスト信者です。洗礼式は、街の中を流れる川の川原で、雪の積もった寒い朝の6時に行われました。好奇心からたくさんの人がやってきて、橋の上は見物人でいっぱいになったそうです。



 時代は切支丹禁制が除かれてまだ20数年という明治のこと。彼は、激しい迫害を受けます。人々から「邪措」「国賊」と呼ばれ、教師をクビになり、石を投げられ、親から勘当され、さらに悪いことに、長女の愛子ちゃんはヤソの子どもと腹を蹴られ、それが元で腹膜炎を起こし9歳にして命を落としてしまったのでした。



 これだけ悪い事が続けば、「やっぱり神様なんかいない!」と、信仰を捨ててもおかしくない状況です。けれども、齋藤宗次郎は、こういった苦難の中にあって、見えない神を見ながら、その信仰に留まりました。生計を立てる為に、新聞配達と牛乳配達を始めます。朝の3時に起きて駅に新聞を取りに行き、1日40 キロの道のりを、それこそ雨の日も、風の日も、雪の日も、毎日配達。配達の途中、雪が積もると小学校への通路を雪かきして道をつけ、ポケットには飴玉をたくさん入れていて子供に出会うとその飴玉を出してやる。そして、新聞を配り終えると、家に帰る前には亡くなった自分の子供の事を思い出し、病気の子供を見舞ってあげました。あるいは、年老いた婦人が寝込んでいれば、なくなった母親に親孝行するつもりでその家に行って、代わりに稲の束を背負ってあげました。彼こそ、東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負いという宮沢賢治の詩にあるようなことを普通にやっていた人間だったのです。



 しかし、1926年(大正15年)、宗次郎は、内村鑑三のそばで仕えるために、東京に移転することを決意しました。朝一番の電車で故郷を離れる時、見送ってくれる人は誰もいないだろうと思いながら駅に行ってみると、そこには、かつては迫害をした人々、町長、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほどが詰め寄せ、尊敬と親愛の情をもって宗次郎を見送りました。



 たくさんの見送りの中に、若き日の宮沢賢治もいました。宮沢賢治は、この、斎藤宗次郎を自分の先生のように思い、また模範のように考えて、あの有名な「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」という詩を作りました。





‥という説です





 雨ニモ負ケズ



 風ニモ負ケズ



 雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ



 丈夫ナカラダヲモチ



 欲ハナク



 決シテ瞋(いか)ラズ



 イツモシズカニワラッテヰル



 一日ニ玄米四合ト



 味噌ト少シノ野菜ヲタベ



 アラユルコトヲ



 ジブンヲカンジョウニ入レズニ



 ヨクミキキシワカリ



 ソシテワスレズ



 野原ノ松ノ林ノ陰ノ



 小サナ萱ブキノコ小屋ニヰテ



 東ニ病気ノコドモアレバ



 行ッテ看病シテヤリ



 西ニツカレタ母アレバ



 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ



 南ニ死ニソウナ人アレバ



 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ



 北ニケンクヮヤソショウガアレバ



 ツマラナイカラヤメロトイヒ



 ヒデリノトキハナミダヲナガシ



 サムサノナツハオロオロアルキ



 ミンナニデクノボートヨバレ



 ホメラレモセズ



 クニモサレズ



 ソウイフモノニ



 ワタシハナリタイ



‥ワタシもです





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