FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(33)

                                                  池田 豊

 アブラハムは行いによらない信仰のみによって義とされ「神の子」とされました。しかし、行いに表れた信仰の故に「神の友」と呼ばれたのです。人は、行いに表れない信仰のみによって創造主の御前で「義」とされます。しかし、行いに表れた信仰によっても「義」とされるということがあるのだとヤコブは言います。それは、人々の前における「義」です。ラハブも行いに表れない信仰を創造主に対して抱いていたことを、イスラエルの使者を受け入れ、窓に赤いヒモを結びつけるという行為を通して、その信仰を表現したのです。 



肉体から魂が取り去られてしまうと、死体となるのです。死体は、もはや生きていたときのように人々のお役に立つということはないのです。信仰が行いによって表現されないならば、他の人々にとって役に立たないという意味では、死体とおなじだとヤコブは言いたいのです。

しかし、死体があるということは、かつてその肉体は生きていたのだということを意味するように、行いに表れない信仰がヤコブによって叱責されているということは、かつてはその信仰が行いに表れていたことを示唆しているのです。死んだままで良いのだとしたらヤコブはあえてこのような手紙は書かなかったでしょう。ましてや死んだような信仰、言い換えるなら、現在人々の役に立っていない信仰をもったクリスチャンたちのことをヤコブはニセの信者だと決めつけているのではないのです。



無条件で救いにあずかったクリスチャンたちに向けて語っているのだからこそ、ヤコブはその彼らの信仰を行いに表したらどうなのですかとチャレンジしているのです。



スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。