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孤独なとき

孤独なとき(1)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の思いが綴られているように思います。

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

 はかない自分の人生を見つめると煙のように消えていく運命にあることを寂しくはかなく思わずにはおれなかったのでしょう。
 でも主イエスキリストは、私たちを孤独のまま見捨てられるお方ではないことを宣言しておられます。

 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。 ?ヨハネ14:18-19


孤独なとき(2)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

怒るとき 
かならずひとつ鉢を割り 
九百九十九割りて死なまし

どうなりと勝手になれといふごとき
わがこのごろを
ひとり恐るる

 若い頃は、純粋であるが故に怒るものです。自分にも腹が立って赦せなくなるときがあります。そして、やけっぱちになるのです。そんな自分をみると恐ろしくなり、孤独で不安なのです。自分で自分をコントロールできない。ブレーキが利かない。ハンドルが空回りする自動車に乗っている。アクセルが踏み込まれスピードだけが出ている。そんな恐怖です。しかし、聖書には次のような慰めに満ちた、主イエスキリストのお言葉があります。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 ヨハネ14:1


孤独なとき(3)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

さりげなき 高き笑ひが
酒とともに
我が胸に沁みにけらしな

いくたびか死なむとしては
死なざりし
わが来し方のをかしく悲し

 若い頃は、純粋であるが故に傷つきやすくもあるものです。友達と馬鹿話をし、はめを外し、どんちゃん騒ぎをしていてもです。表情は笑っているのに心の内側では「ワ?ッ」と叫びたくなるような痛みをかかえている人もあるようです。現実から逃避しようと自殺を企てみたものの、どうしても死にきれず、なお一層の孤独感に打ちのめされる人もおられます。しかし、聖書には次のような慰めに満ちた、創造主のお言葉があります。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 詩編46:1-2


孤独なとき(4)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

人という 人のこころに
一人づつ 囚人がゐて
うめく かなしさ

泣くがごと 首ふるはせて
手の相を 見せよといひし
易者もありき

 私たち一人一人の「こころ」という檻の中には人が一人窮屈そうに入れられています。自由を求めると吼えていながら、自分勝手にふるまえばふるまうほどがんじがらめになり、囚人のような自分の姿に気がつかされます。太宰治は「人間失格」という言葉で、そのうめきを、その哀しみを表現し、著しました。
 客の未来を人相から占い、不吉な予感を感じて、ぜひ手相を見せなさいと懇願するかのように客に語りかけている易者がいたのでしょうか。もし善意でそうしてくれたのだとしたら、料金は無料にしてくれてもよさそうなものです。それとも未来を占う易者たちでさえも、客が思うように来てくれないと、易者自らが、自分の将来に不安を感じて、泣きそうな表情で、首をふるわせながら、「いざ、手相拝見」と客になってくれそうな青年に声をかけているのでしょうか・・・。
 でも、天地宇宙、万物の創造主を信頼する時、あらゆる思い煩いは不必要なものとなることを聖書は教えています。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。1ペテロ5:7


孤独なとき(5)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ

 ひとり砂浜にたたずみ、何を悩んでいるのでしょうか?音たてることもなく、静かに、ひとつぶ、ひとつぶ涙が砂の上に落ちていきます。蟹があたかも慰めてくれるかのようにそばにやって来ました。苦しみや、悩み、こころの痛みを友人に話せばいくらかは軽くなるかと思って、つらい気持ちを打ち明けてみます。思いもよらない、友人の冷ややかな、教科書を読むかのごとき忠告;アドバイス。たまらなく惨めに感じたことがあります。これはきっと啄木だけの経験ではないようです。でも聖書には、キリストの変わりない愛と慰め、励ましが約束されているのです。

 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 ローマ8:35-37


孤独なとき(6)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり

ふと深き怖れを覚え
ぢっとして
やがて静かに臍(ほぞ)をまさぐる

 砂浜に出て、悩みと孤独に打ちつぶされそうになった自分を慰め、なんとか立ち上がらせようと砂に指を走らす。啄木はいったい大という字をなぜ書いたのでしょうか。しかも百回も。自分の心があまりに小さい、狭い。そんな小心を鼓舞する意味で、大きな広い心を持てと自分に言い聞かせるために「大」という文字を書いたのでしょうか。
 怖れに囲まれ、何もすることが出来ない。フリーズ状態になった啄木は、しばらくした後、静かに自分を落ち着かせようとしてか、おなかの周り、おへそのまわりをなぜまわしているのです。

 私たちも孤独でたまらなくなり、逃避することが一番楽だと思ってしまう誘惑におそわれることがあります。怖れで体がカチンカチンになり身動き一つできないような状態になることもあるでしょう。でも、聖書に次のような創造主からの慰めに満ちた御言葉があることを知っているならば、どれほど心強いことでしょう。

 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。 申命記31:6 


孤独なとき(7)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

しつとりと
なみだを吸へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな

 初恋に破れ、海岸に出て、砂山の砂の上に身を投げ出す。腹這いになって、砂を握りしめる。この悲しみ、自らのふがいなさにどこへぶつけたらよいかもわからない憤りを感じる。誰もわかってくれない。そう思う時の孤独感は虫歯でアイスキャンディーをガブリと噛むような痛み、ダメージを与えるものです。涙も流れます。手で握った砂の玉の上に落ちた涙が吸い込まれていきます。誰かこの悩み苦しみをわかってくれる人はいないのだろうか?

 聖書は、天地を創造し、私たちに命を与え、知、情、意をあらかじめ備えてくださった創造主こそが、私たちの悩みをともに担い、私たちの苦しみを同じように苦しんでくださる愛のお方なのだと教えています。

 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 ? ? イザヤ63:9


孤独なとき(8)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

死ね死ねと己を怒り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

 心ならずも人に叱責され、頭をさげさせられた経験。この屈辱的な思いに何とか仕返しをしてやりたい。といっても腕力には自信がない。結局のところ祈るしかない。啄木はずいぶん大胆な祈りを致します。屈辱を与えた人々の死を求める祈りでした。

 しかしながら、自分で自分が嫌になる。おまえのような卑怯者は死ね、死んでしまえと自己嫌悪に陥る。そんな啄木のような気持ちになったご経験はありますか?聖書は、そのような弱さを抱えている私たちに対して、以下のような慰めに満ちた創造主の語りかけを伝えてくれます。

ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。 ?イザヤ30:19


孤独なとき(9)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日もさまよひて来ぬ

遠くより笛の音きこゆ
うなだれてある故やらむ
なみだ流るる

 自分の心を見つめると、やるせなさにうなだれてしまう。おもわず目からあついものが流れる。遠くの方からもの悲しく、ほそい笛の音が聞こえてきます。さみしい。さみしい。むしょうにさみしい。そのような気持ちになるのは啄木だけではないでしょう。
これではいけない。こんな心ではだめになる。あたらしい心が自分にはひつようだ。そうは思っても、どこにいったらその新しい心が見つかるのでしょう。聖書は、イエスキリストのうちにこそ新しい人生があると宣言しています。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。詩篇51:10
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 ?2コリント5:17


孤独なとき(10)
 石川啄木の歌のいくつかには、孤独な時をすごした、多感な青年の正直な思いが綴られているように思います。

路傍に犬ながながとアクビしぬ
われも真似しぬ
うらやましさに

高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終わるすべなきか

 2001年の夏季休暇、南紀白浜に家族旅行で行きました。その一年前、「死にたい!」という内容の電話を教会にかけてこられた女性が、主によって立ち直られ、ご主人とペンションを始められたというので、一泊宿をとりました。白浜と真っ青な海、三段壁の崖は、自殺で有名なスポット。安全のための手すりすらない崖に私たちも立ち、サファイア色の吸い込まれるような海を見ました。きれいな海で死ねる。そう思って自殺する方々は飛び込まれるようです。

 でも、離れた所に立ち別の角度からこの飛び降り自殺の崖を見ると、身を投げた方は、岩場に体を打ち付けながら墜ちていき、絶対、海には届かないことを確認しました。無惨な姿で岩に打ち付けられた傷だらけの死体をさらけだすだけの最後。美しくも綺麗でもありません。
 創造主は、私たちの悩み、孤独感を知っておられ、次のような慰めの招きの言葉をかけてくださいます。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。 ?詩篇55:22

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