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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは? (7)

                                      牧師 池田 豊



 創造主が私たちに提供しておられる罪の赦しと、永遠の命は、無償のプレゼントであることを聖書は、明瞭に伝えています。プレゼントというのは、あげようと思う人が、全額、代金を支払うのです。受け取る側は、タダで貰うことのできる贈り物をプレゼントというのです。ギリシャ語のドウラという語は、日本語の聖書では、「賜物」と訳される事がありますが、本来の意味は、プレゼントという意味です。



 私たちが現代日本語で耳にする「賜物」という言葉は、大相撲の解説で用いられることが多いと思います。「千代の富士や、若の花はあのちっこい身体で良く優勝いたしました。これは、稽古の賜物です。」というようなことをしゃがれ声でテレビの相撲解説者の方が語っておられるのをご記憶の方も多いと思います。この場合、現在、日本語で「賜物」という言葉は、プレゼントの意味ではなく、努力の当然の結果、あるいは稽古の報いという意味で用いられていることもあることを私たちに確認させます。



 ところが、聖書が教える、私たちの罪の赦しと永遠の命は、ご褒美や、報いではなく、無代価のプレゼントだというのです。もしそれを私たちが、受け取るのと引き換えに何かを創造主に差し出すなら、もうそれは、定義上、プレゼントとは、言えないのです。差し出したものと引き換えに購入した商品、あるいは、ある一定の努力に対する報い、ご褒美として手に入れた賞品ということになってしまいます。





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