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創造の御業(1)

070513              創造の御業(1)   創世記1:3?5



於: Christchurch JCF                                    牧師 池田 豊



初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。  創世記1:1-5



 先週は、「はじめに神」という主題で創世記一章一節と二節より語らせていただきました。今日から三回にわたり創造の御業というテーマでメッセージを取り次がさせていただきます。今日は、一章の三節から五節より三つのポイントで話させていただきます。まず第一は、聖書が語る創造主はことばの神であるということです。創造主が仰せられて万物が無から生じました。第二に、創造主が天地を創造された後最初に出現したのは光でした。光は闇を押しのけ区別が生じました。第三に、イエスさまが光について語られた際「光がある間に光の子となるため光を信じなさい」と言われたお言葉について学びたいと思います。最初に「創造主が仰せられた」ということについて見てみましょう。





  I. 創造主が仰せられた



A. 創造の御業は突然だった



創造の御業は突然でした。創造主のことばが発せられ、すべてのものが造られました。主は何々よあれとことばを発せられるとそのとおりに無から有が造られました。



B. ?よあれ!



この創世記の記述では少なくとも九つのものが創造されたように分類されています。



1. 光1:3  2. 大空1:6 3. 水を集める1:9 4. 草1:11 5. 太陽、月、星1:14-18 6. 水中生物1:20 7. 鳥1:22 8. 獣1:24 9. 人1:26



C. 詩篇33:6



詩篇33篇6節にはこのように記されています。



主のことばによって天は造られた。天の万象もすべて御口の息吹きによって  



詩篇33:6



D. 創造の御業と主イエスの奇跡との関連



主イエス・キリストは永遠から永遠まで存在され、はじめもなければおわりもないお方です。ヨハネの福音書一章によれば主イエス・キリストは、ロゴス、“ことば”という表現で紹介されています。この“ことば”とも日本語に訳すことができるギリシャ語のロゴスという語は、哲学用語では“理性”と翻訳されています。ケプラーやニュートンは宇宙には創造主のことばが数学的秩序をもって書き記されていると考え天文学の研究を通し、創造主の栄光を顕わそうとしました。天体を含む大宇宙だけでなく、極微の世界、DNAにいたるまで創造主の暗号が隠されていることが最近わかってきました。人ゲノムということばがありますが、人間の細胞に書き記された創造主の設計図を意味しています。科学者たちはその暗号の解読に真剣に取り組んでいます。暗号というのは、知性ある存在があらかじめメッセージを複雑に混乱した状態にみせかけているものです。一見でたらめのようにみえるものに、秩序があって、解読すると言語が発見されて意味が通じるものを暗号といいます。実は、宇宙、大自然の動物、植物、微生物やDNAにいたるまで実は創造主の知性をもととした設計図がありその設計にしたがって組み立てられているというのが私たちの住んでいる世界です。そのすべての設計図、設計の秩序、合理性、それがロゴスです。宇宙万物のしくみを表現し解明する“ことば”それがロゴスです。聖書はこのロゴスが人間の肉体をとっておいでになったと言っています。そのお方が主イエス・キリストです。ですから、このお方がことばを発せられるとそのとおりに万物は従うのです。このお方は創造主であられるからです。新約聖書はその事実を私たちに報告してくれます。主イエスの御言葉でさまざまな奇跡が行われました。



1. 嵐は突然おさまった (ルカ8:22-25)



2. イチジクの木は枯れた (マタイ21:17-19)



3. 視力に障害のある人の視力が回復した (マルコ10:46-52)



4. 死人が墓から出てきた (ヨハネ11:17-45)



5. 百人隊長の僕が遠く離れたところにいたのに癒された (ルカ7:2-10)





II. 光が創造され光によって闇は区別された



A. 光が照る前は暗黒だった 2コリント4:6



光が照る前は暗黒でした。このことは、生まれつきのままの私たちは創造主御前では堕落しており、真っ暗な闇の中を歩いているような状態であることを表現しています。「光よあれ!」と命じられた主イエス・キリストは、罪人であり霊的に死んだ者である私たちにも御声をかけてくださり命を与えてくださいます。コリント第二の手紙4:6節はこのように語っています。



「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 2コリント4:6



B. 創造主の御言葉によって光が照った



創造主の御言葉によって光が創造されたように私たちの霊的暗闇も御言葉によって光が投じられるのです。



C. 創造主の御言葉は世界の起源とその目的、意義について生まれつきのままの人間の誤った考えを指摘し、真理を明らかにする



創造主の御言葉は世界の起源とその目的、意義について生まれつきのままの人間の誤った考えを指摘し、真理を明らかにしてくれます。創造主の御言葉は、少なくとも七つの領域で私たち生まれながらの人間が持つ間違った考えに光を投じ、誤りを正してくれます。



1. 無神論の誤りを暴露し正す 創造主が宇宙、万物を創造された



2. 汎神論の誤りを暴露し正す 創造主は作品である宇宙を超越したお方



3. 自然崇拝的多神教の誤りを暴露し正す 唯一の創造主が万物を創造された



4. 唯物論の誤りを暴露し正す 物質には始まりがあった



5. 二元論の誤りを暴露し正す 悪は創造主と同じ力と権威をもつものではない



6. ヒューマニズム(人間中心主義)の誤りを暴露し正す 創造主が究極的権威であられ人間ではない 人間は万物を正しく管理する責任を創造主より委ねられているだけであって、万物を人間の都合にまかせ思うがまま搾取して良いのではない



7. 進化論の誤りを暴露し正す 創造主が全てのものを秩序正しく、種類に従って御心のまま目的をもって創造された





III. 光あるうちに、光の子となるため、光を信じなさい



A. 「光よあれ!」と主がおっしゃった光は?太陽のこと?そうではない?



「光よあれ!」と主がおっしゃった光は何かということで、聖書学者たちのなかでも意見がわかれています。創造の記述をみますと太陽や月、星が創造されるのは第四日目ですから、この光よあれというお言葉で存在するようになったのは、太陽ではないという解釈があります。その人々の根拠の一つは、黙示録に太陽がなくなっても私たちの世界を照らす光が存在することについて記述されているということです。



都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。黙示録21:23



もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 黙示録22:3-5



もう一つの解釈は、初めに創造主が天と地を造られたときに太陽も月も含め宇宙の天体が創造されたと考える解釈です。そして、光よあれと主がおっしゃったとき地球を覆っていた雲が裂け太陽の光が地上に注いだとする解釈です。この解釈にたつと第四日目の記述はその時に太陽や月、星が無から創造されたというのではなくて、すでに創造されていた太陽や月、星が地球との関係であるべき配置に正しく置かれたという意味に解釈します。



B. ヘブル人の一日の数え方



私たち日本人は一日を数えるとき、朝から一日が始まり、日没をもって一日が終わると考えます。ところがヘブル民族であるユダヤ人たちは、そうではありません。創世記の記述が、「こうして夕があり、朝があった。第一日。」と書いてありますように日没から新しい一日がスタートします。なぜならば創造の初めが暗闇だったからです。私たち人間は罪を犯し、霊的に堕落していますので生まれながら暗黒の暗闇のうちに生まれてくるのです。人生の目的もさだかではなく、何のために生まれてきたのか生きているのかわからず、暗闇の中を手探り状態で歩むようなものです。そんな私たちに光を投じられたのが主イエス・キリストです。



C. ヨハネ12:35-36, 46-47



イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。 ヨハネ12:35-36



わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。



ヨハネ12: 46-47



「わたしの言うことを聞いてそれを守れなくても」と主はおっしゃられたのではなく、「守らなくても」とおっしゃいました。これはどういう意味だと思いますか。罪にはオミッションとコミッションの罪があると言われます。オミッションの罪というのは過失で、うっかりしでかしてしまう違反です。気づかないうちに他の人に乱暴な言葉を語り傷つけてしまうことなどが含まれます。それに対して、コミッションの罪は、意識的に自分で悪いことと知っていながら行う罪のことです。計画的犯罪も含まれます。イエスさまは、「私の言うことを聞いてそれを守れない人も、守らない人も」両方罪に定めないとおっしゃるのです。十字架にかかって私たちの罪の罰を全部その身に引き受けて死ぬために生まれてきてくださったイエスさまは、私たちを裁くためにではなく、私たちを救うためにおいでくださったからです。



D. ヨハネ1:1-5; 9-10



初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 ヨハネ1:1-5



すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 ヨハネ1:9-10



E. ヨハネ3:16-21



神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。 ヨハネ3:16-21



1. 創造主は御子をお遣わしになり、御自身の愛を証明された



2. 御子イエスが遣わされたのは、私たちを裁くためでなく救うためだった



3. 御子を信じる者は裁かれない 信じない者は裁かれる



4. その裁きを決定する要素:光が世に来ているのに、光よりも闇を好んだ



5. 悪いことをする者は光を憎む その行いが明るみに出されることを恐れ、光の方に来ない 悪いことをするの「行う」はプラッソーという動詞 ヨハネ5:29と同じ



まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。



善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。 ヨハネ5:24-29



悪を行った者はという時の「行う」は、プラッソー: ???????Prasso (practice)という動詞で継続的に悪いことを行い続けていることを意味しています。それに対して善を行うという表現の時の「行う」はプラッソーではなく、別の動詞ポイエオー: ??????Poieo (make, do, cause, effect, bring about, accomplish, act)が用いられています。一回的に善である真理を実行する、適用するという意味です。ヨハネ三章で真理を行う者は光の方に来るという部分の真理を行うの「行う」もポイエオーが用いられています。



6.真理を行う者は光の方に来る



真理の前には定冠詞があり、ここで使用されている「行う」はポイエオーという動詞です。 それは唯一の真理である主イエスキリストを自分に一回的に適用する、自らのものとする、信じると言う意味です。



みなさんは日本の仏教に浄土宗と浄土真宗があるのをご存じかと思います。浄土真宗は、親鸞によって始められたとされます。1224年のことです。親鸞の師は、法然上人(1133-1208)で浄土宗の開祖です。ところで浄土宗と浄土真宗との決定的な違いは何だと思いますか?浄土宗は法然の教えで、浄土真宗は親鸞の教えです。浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を何度も何度も唱えることによって救いを達成できると教えます。京都に法然が43歳の時に浄土の宗門を開始した知恩寺、通称百万遍というお寺があります。京都大学の真ん前にあります。これは念仏を百万べん唱えることを修行として実行するためのお寺です。それに対して、親鸞は、南無阿弥陀仏と唱えるのは信じて唱えれれば一回だけで十分だといいました。一度信じるだけで十分だ信仰のみで救われるというのです。そして「後は感謝の念仏じゃ」と言ったといわれています。仏教学者たちは、この南無阿弥陀仏という言葉の意味についてこういっています。



南無というのは、私は信じます。I believeという意味です。そして阿弥陀仏というのは、サンスクリット語でアミターバ、アミターユスという二つの言葉の合成語です。アミターバとは、無量光、つまり計り知れない、永遠の光という意味で、アミターユスというのは無量寿、つまり限りなく続く、永遠の命という意味です。



ですから南無阿弥陀仏をわかりやすい現代の日本語に翻訳するとこういう意味です。「永遠の光であり、永遠の命であるお方を私は信じます。」永遠の光であり、永遠の命であるお方とは誰のことでしょう。親鸞の師と仰ぐひとびとは、仏教研究によれば、次のようです。





釈迦 (紀元前450年頃)





馬鳴(Ashvaghosha AD100に死去 他の説ではBC405年)





龍樹(Nagarjuna AD194に死去 他の説では120年と150年がある)





世親(せしん)(Vasubandha AD345に死去 他の説では445年)





菩提流支(ぼだいるし)(Bodhiruchi AD508に死去、他の説ではAD527年)





菩提達磨(Bodhidharma AD520に中国にやってき、529年に死去、他の説では543年)





曇鸞(どんらん) (AD502-549)





景教の宣教師、阿羅本がAD635年中国長安にやってきた。その十一年後





導綽 (ドウシャク AD646に死去)





善導 (景教のキリスト教宣教師が長安に来た四十六年後、AD681に死去)





源信 (AD941-1017)





源空 (AD1133-1208)





親鸞 (AD1173-1263)





特に重要なのは、導綽(どうしゃく)と善導という人





導綽はキリスト教宣教師が長安に来ていた、太宗大帝(たいそうたいてい)在位時代の人です。また、善導は高宗大帝(こうそうたいてい)の在位時代の人です。その頃、唐の首都長安では、キリスト教が大流行していました。



空海(31才)と最澄(38才)は804年に中国留学を果たしました。ところが、その時には、すでにその23年も前(781年)に、キリスト教が中国で大流行していることを記念するための景教碑、「大秦景教流行中国碑」は建立されていたのです。現在、中国の西安の碑林にこの景教碑は保管されています。なんとこのうりふたつのレプリカが日本の和歌山県にある高野山に今日も立っているのです。キリスト教が中国で大流行していた当時のことが、現在も真言宗総本山高野山の奥の院に立っている大秦景教中国流行碑の碑文の中にも記されています。このような文章です。



高宗大帝克恭纉祖潤色真宗而於諸州各冨景寺仍崇阿羅本為鎮國大法主流十道國冨元休寺満百城家殷景福





現代の日本語に訳せば次のような内容です。



高宗大帝(在位AD649-683)は、恭(うやうや)しく皇祖のご意志を継がれ、真宗を潤し(真宗すなわち、キリスト教が繁栄する環境を整え)、中国の諸州に景教の寺(キリスト教の教会)を設置されました。阿羅本(アラボン)という人は、鎮國の大法主となって崇め、尊敬されており、福音は国内、十道区画すみずみに流布され、祝福に富んでいます。安らぎの元となる寺(キリスト教会)は百城に満ちています。家庭も景教(キリスト教)のおかげでとても祝福されています。



なんとこの中で、「真宗」という文字が使われています。この碑文の内容からすれば、唐の時代、長安で「真宗」と言えば、仏教のことではなく、景教、つまり東洋である中国、モンゴル、日本に広がったキリスト教の呼び名だったようです。



インドからやってきた仏教では、仏教徒は結婚してはなりませんでした。仏教の戒律の中に結婚をしてはいけないし、生き物を殺して食物とする肉や魚を絶対食べてはいけない戒律がありました。ところが、聖書の教えに従った真宗では、結婚し、肉や魚を食べることは自由でした。唐の時代、すなわち空海が中国に留学していた平安時代のことです。空海から400年ほど後の鎌倉時代の人が法然や親鸞です。



親鸞が、結婚し妻帯したことや、魚を平気で食べたことは、インドの仏教からきた習慣ではなく、彼が真宗の信徒だったからではないでしょうか。大秦景教中国流行碑の碑文から見ても、この真宗というのは、キリスト教である景教のことを意味したからです。新約聖書二十七巻のことについても景教碑は記しており、それを真經という文字で表現しています。



浄土や極楽とは、釈迦が教えたインド仏教、根本仏教にはなかった概念です。しかし、景教(キリスト教)、すなわち真宗においては、イエスキリストを信じ救いにあずかった人々が死後、必ず迎え入れられる「楽」パラダイスについての教えがありました。



景教碑の碑文では、存能昌歿能樂と刻まれてあり、生きている人はよく繁栄し、死んだ人はよく楽しみという意味です。死んだ人がよく楽しむとは、浄土真宗の浄土や極楽の考えと酷似していないでしょうか。



南無阿弥陀仏をわかりやすい現代の日本語に翻訳するとこういう意味です。「永遠の光であり、永遠の命であるお方を私は信じます。」永遠の光であり、永遠の命であるお方とは誰のことでしょう。ヨハネの福音書の御言葉をもう一度お聞きください。



初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 ヨハネ1:1-4



すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネ1:9-14



この永遠の光、永遠の命であるお方とは、主イエス・キリストのことです。私たちの救いのためにイエスさまは父なる神に遣わされ人としておいでくださいました。このお方を永遠の命の恩人、救い主として信じ受け入れるなら、一度だけでよいのです。信じ受け入れるなら、その人は死からいのちに移され、闇から光へと移されるのです。 イエス・キリストのことば



まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 ヨハネ5:24





アクション・ポイント(生活への適用)



1. あなたは、創造主が一ことばをもって無から有を生みだすお方であり、暗闇の中に光を投ずることのできるお方であるということを信じておられますか。それは、あなた個人にとってどのような意味を持つでしょう。



2. 光の子供となるためには、「光を信じなければならない」と聖書は教えています。あなたは、もうこの光であるお方をご自分の救い主、永遠のいのちの恩人として信じ受け入れられましたか。



3. 創造主は光をお造りになり、闇と光とを区別されました。エペソ5:3?13を読み、あなたの現在の生活をその御言葉に照らして見直してみましょう。主イエス様を救い主として信じ、光の子として頂いたあなたは、今、明るみに出すべきだと聖霊に示されている暗闇の部分がありますか。あるいは光と闇を区別すべきだと示されている部分はあるでしょうか。他の人と語り合ってみましょう。







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