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言葉の大切さについて

言葉の大切さについて


初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 ヨハネ1:1ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネ1:14主イエスキリストは、ヨハネの福音書で、「ことば」というお名前で紹介されています。このお方は、ことばだけでなく、行いにおいても力ある方でした。人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」 ルカ4:36イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 ルカ24:19そして、イエスさまが語られたおことばは、この宇宙が滅びてもなお滅びることがない、永遠に変わらない、信頼できるおことばであることを聖書は宣言しています。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 ルカ21:33旧約聖書には、このような御言葉が記されています。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。 イザヤ40:8創造主のロゴス、ことばであるお方、このお方が主イエス・キリストなのです。
私たちは、「ことば」でいらっしゃる創造主に似せて造られました。ですから、私たちも「ことば」を与えられています。そしてイエスさまは、私たちに対して「ことば」の使い方に注意深くあるよう勧め、警告しておられます。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」  マタイ12:36-37
「口には税金がかからない」と言って、好き放題、言いたいことを言うという人がおられます。「言うだけ言って、すっきりしたい」と言う人もいます。しかし、何でも言いたいことを言うという態度は、気をつけないと、自分のことだけを考え、他の人を傷つけてしまう結果をもたらしてしまうことがあります。
ソロモンの知恵の書にも同様のことが、こう記されています。軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。 箴言12:18
よく言われることですが、私たちには耳は二つあるのに、口は一つだけしか与えられていません。それは、他の人の語っていることには、注意して耳を傾け、自分の意見を主張するのは、その半分くらいにしていたほうが良いという意味です。ソロモンは、その長い人生、いろんな人と出会い、語り合った後、こう結論づけました。軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。 箴言29:20箴言12章には、私たちがどのように口を用いたらよいかについて大切なことが教えられています。愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、偽りの証人は欺き事を告げる。軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。 箴言12:15-18


ある歌舞伎役者の方がこうおっしゃったそうです。「言葉というものは、カミソリの刃のようなものでございますね。使い方を誤ると自分を傷つけたり、人様を傷つけたりすることさえあるのですから・・・。」聖書は、軽々しく人を攻撃する人がいることを教えています。そして、そのような言葉づかいは、他の人を傷つけるだけでなく、その人本人にとっても害をあたえるというのです。軽率で攻撃的な発言は、人を剣で刺すような傷害を与え、聞く人の心に深い、大きな傷をおわせます。心に受けた傷は、傷口から血を吹き出しています。なかなかその傷は治りません。メンソレータムやオロナイン軟膏を胸の回りや、頭、こめかみに塗ったくったところで心の傷は癒されないのです。相手の事情や、立場をほとんど考慮せずに、一方的に非難する、攻撃的な言葉、批判的な言葉を語る人がいます。


残念ながら、牧師にもそのような人がいるというのです。組織神学で博士号をお持ちである上沼昌雄という先生がおられます。上沼先生はクリスチャニティー・トゥディという雑誌の2005年1月号に掲載された記事(The Church: Why Bother?  煩わしい思いをしてまでなぜ“教会”ですか?)について報告してくださっています。この記事によりますと、アメリカの教会で、クリスチャンの信徒たちが、信仰を失ってしまったわけではないのに、教会に集わなくなる人が増えてきていると言います。教会と関わりを持ちたくないと思う人々が、増えているというのです。クリスマスや復活祭の時だけは、教会に行くが、普段の日曜日礼拝に出席しない、そういう人が、増加しているというのです。その割合は、信仰を持っているクリスチャン12人に対して一人という割合だと報告されているそうです。


そして、この記事によると、そのようになった理由の一つが、牧師の説教に関係しているといいます。上沼先生はこう報告しておられます。「多くの場合に牧師は、教会員を非難し、ただ叱咤激励するメッセージを繰り返している。信者がますます教会から離れてしまう。教会のことで傷を受けている。記事の中に牧師が引退するのを20年間待ち続けた信者の話が載っている。冗談とも本気ともとれる話である。」


もちろん、世の終わりが近づくと、人々は自分に都合のよい話だけを聞きたがり、耳が痛くなるような話は避けるようになると聖書は警告しています。神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。  2テモテ4:1-4


しかし、牧師が、講壇から「あてつけ」のような鋭い、攻撃的、批判的なことばを、ある特定の人に向けて意識的に説教で語るようなことがあったとしたら、問題です。信徒の名前をあげて、非難し、みんなのまえでその人に恥をかかせるような牧師がいるということを聞いたことがあります。それは、聖書の原則から逸脱した行為です。公の前で、その人を辱めるのではなく、もし、その人にどうしても忠告してあげなければならないような問題があるとすれば、その人と個別に、一対一になって話すべきです。一方的に非難するのではなく、その人がそのように振る舞う背景についても十分耳を傾けて聞くことがまず成されなければなりません。また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。  マタイ18:15


中学一年生の時、音楽の授業中、なにげなく教師の語ったことばに傷つき、一生その影響下にあるという人の話を聞いたことがあります。音楽の教師が不用意にこうその一年生の子に言いました。「君の歌は、調子っぱずれで、間の抜けた歌だね。」音程が狂い、リズムもうまくとれていないという意味です。この人は、みんなの前で恥をかかせられました。彼はこの一言で、「自分は一生、歌を唄わなくなった」と言います。


また、ある人は、幼い時からお母さんに、「おまえは、不器用だから・・・」と言われ続けたといいます。そう言われ続けて育った彼は、大人になっても釘一本打てず、ネジ回しも使うことができない人になったそうです。そして、靴のひもさえ自分一人では満足に結ぶことができないような人になったといいます。なにげなく言い放たれたことばでも、その言葉が、ひとたび誰かの心の隙間に入り込むと、そこで根を張ることがあります。ぶっきらぼうで乱暴な、心ない言葉、配慮に欠けた言葉は、その人の一生を左右するほどの恐ろしい影響力を残すこともあるのです。


13世紀の神聖ローマ帝国皇帝フレデリック(フリードリッヒ)2世が行ったある実験があったそうです。(飯島登著 胃袋 講談社ブルーバックス;金子耕弐著 家族に送るとっておきの話 Vol.1)この王様は、人間が最初に語ることばはいったい何だろうと疑問を持ちました。そしてそれを知ろうとある実験を思いついたのです。そうです。赤ちゃんに何も話しかけないで育てたら、一体どんな言葉を話し出すのだろうと興味を抱いて、50人の赤ちゃんを集めました。この赤ちゃんたちに乳母達をあてがい、王はこう命令を下しました。「赤ちゃんにおっぱいを飲ませ、おむつを換え、お風呂に入れ、寝かせなさい。ただし、一言も話しかけてはならない。抱いて可愛がる事も禁じる」そのようにして育てたら、きっと人間が、自分で自然に話し出す最初の言葉を知ることができるとこの王様は思ったのです。この実験の結果は、予測外の結果となってしまいました。50人全員が、一歳の誕生日を迎えることなく死んでしまったと言うのです。十分な栄養が与えられ、清潔に保たれていた環境にも関わらず、赤ちゃん達は全員死んでしまったのです。人間は、「ことば」を必要としている生き物として、最初から創造されたものなのです。しかもその「ことば」は、愛情に満ちたものでなければなりません。


三浦綾子さんが、ご自分のお母さんについての思い出を回想し、次のようなエピソードを書いておられます。夕食を終えた時、幼い弟が母を手伝おうと思って、ご飯茶碗を四つ、五つ重ねて茶の間から台所に運んで行こうとした。「落としたらいけないから、運ばなくてもいいよ。」と声をかけた私に、弟は、「大丈夫だい」と言い放った。その瞬間、弟は何かにつまずいたのか、つんのめって茶碗を取り落とし、二つの茶碗が割れた。「だから言ったじゃないの」と私は叱り、茶碗のかけらを拾いながら、なおもしかり続けた。母はしきりに弟を慰めていたが、後で私を物陰に呼んで、「綾ちゃん、一生、自分は茶碗を割らない人間であるかのように、人を叱っちゃいけないよ」と言った。その言葉にハッとした。私たちは、自分のことは棚に上げ、人の失敗をあざわらい、非難しやすいものです。三浦綾子さんのお母さんは、綾子さんに注意をする時も、わざわざ物陰に呼んで、誰も他に見ている人がいないところで綾子さんを諭しています。とても知恵深い方だと思います。箴言に次のような言葉が記されています。知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。 箴言16:23-24


23節の部分は、新共同訳ではこう訳されています。知恵ある心は口の言葉を成功させ、その唇に説得力を加える。  箴言16:23


ニュー・キングジェームズ訳では、こうです。The heart of the wise teaches his mouth,And adds learning to his lips.  Prov. 16:23賢い人の心は、自分の口を教え、自らの唇に学ぶことを付け足す。


The English Bibleは次のように意訳しています。Intelligent people think before they speak; what they say is then more persuasive. Prov. 16:23賢い人たちは、語る前に考える。そして彼らの語ることは、(そうでない人たちよりも)より説得力を持つ。


私たちは時として、早とちりをしてしまい、他の人の間違いに対して腹を立て、攻撃的なことばを口にすることがあります。そのことを戒めるため、イエスさまの弟だったヤコブはこう言いました。愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。 ヤコブ1:19


パウロはコロサイのクリスチャンたちにこう言いました。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。 コロサイ4:6


エペソのクリスチャンたちには、パウロはこう勧めています。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 エペソ4:29


また、テサロニケのクリスチャンたちには、パウロはこう書き送って、イエスさまを救い主として信じ受け入れた者たちが、あらゆる良いわざと、ことばとが生活の中で顕著にあらわれるようにと勧めています。ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。 2テサロニケ2:14-17


私たちも「ことばの大切さ」について、慎重に考慮しつつ日々生活する者とされたいものです。



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