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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(32)

                                                          池田 豊

 ラハブは、道徳的にとても模範と言えるような生活を送っていた人ではありませんでした。しかし、創造主がお遣わしになったイスラエルのスパイを受け入れ、かくまったのです。そして創造主のお言葉通り、指示に従い赤いヒモを窓からぶらさげたのです。その事の故に彼女は殺されずにすむのです。これは一方的な恵みでした。そして、この異邦人であり、売春婦という当時の社会でも穢れた女性の代表とされていたラハブでしたが、なんとメシヤの血筋、家族の一員に加えられているのです。罪人のかしらと自らも自覚するラハブが、創造主の救いの保証に信頼し、赤いヒモを窓からぶらさげるという行為で信仰を表現したのです。



ヤコブが言いたかった「行いに現された信仰」というのは、単なる善行や宗教熱心さのことを意味していません。そうではなくて、創造主の御恵みのみによって信じるだけで、罪を一度もおかしたことがないかのように見なしていただけることを本当に信じ、知っているのであれば、その「気前よい」、「えこひいきのない」創造主の愛を表現することについても真剣に考えなさいとヤコブは言いたかったのです。アブラハムもラハブも自らの善行や業績、宗教熱心さゆえに正しいと宣告されたのではないことを声を大にして伝えたかったのです。そしてそのことこそが、行いに表れた恵み故に救われる信仰だったのです。



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