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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(30)

                                               池田 豊

 アブラハムが創造主の御前で義とされたのは、神の律法の基準を守ることができたからではありません。モーセによって律法が与えられる実に430年も前にアブラハムは、神の前で行いに表れる信仰によって獲得する義とは別の方法で神の御前で義と宣告されたのだとガラテヤ書は明言するのです。



ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。ガラテヤ3:16-18



 モーセによって律法が与えられる以前には、行いによって従うべき神の正しさの基準が人間に啓示されていなかったのでしょうか。もちろんそうではありません。人間の良心の内に創造主の律法は書き記されていました。アブラハムはそのような意味でも神に従おうとしていた人であることは疑問の余地がありません。しかし、そのようなアブラハムが自分の正しさを主張する方法では、人々の前では義なる人と認められるようなことがあったかもしれませんが、創造主の御前では絶対に義とされることはないとローマ書、ガラテヤ書は断言するのです。創造主の御前で義とされるのは、唯一の救い主、メシヤ、キリストが与えてくださる恵みの約束が信仰によって適用される場合以外にはないというのです。



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