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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(29)

                                                  池田 豊

アブラハムが創造主の御前で義と認められたのは、行いに表れる信仰の従順があったからではありません。そうではなく、行いと無関係に創造主の約束を信頼する信仰、すなわち創造主の約束の真実性故に義とされたのです。そのことはガラテヤ書が力強く解説しています。



あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。

ガラテヤ3:5-6



そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。ガラテヤ3:9-11



ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。ガラテヤ3:16-17



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