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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは?(28)

                                               池田 豊

 アブラハムの生涯には三つの転機がありました。すなわち、カルデアのウルを旅立ち、又、カランを旅だったときが第一です。そして、夜空の星を見上げた時が第二の転機です。最後にイサクを献げるように主に言われ、アブラハムが信仰を持って従った時です。これが第三の転機です。

第一番目の場合でも、第三番目の場合でも行いに表れた、信仰の従順という意味では、アブラハムは真実な信仰を持っていました。しかし、アブラハムが創造主の御前で「義」と宣言されたのは、いつかと言いますと、実は、第二番目の場面の時なのです。そのことはローマ書4章で、創世記15章の出来事に言及し、明確に述べられ、解説されています。



 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。ローマ4:1-3



 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。ローマ4:10



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