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永遠に続く心の疲労回復

永遠に続く心の疲労回復


藤井寺キリスト教会 牧師 池田 豊



私たちはどのような時疲労感を覚えるでしょうか。仕事や勉強のやりすぎはもちろん、楽しいはずの遊びでも徹夜などしようものなら、ぐったりして休息の必要を感じるものです。実際、身体の疲労は休息をとれば、ほんどの疲れは回復するものです。 しかし、疲労を身体のことだけととらえるのは、正しくありません。医学的にも疲労の起こる生理的メカニズムは、完全には解明されていないそうです。本人の自覚症状で判断するしかないとも言われています。つまり、疲労は、感覚という側面、身体ではなく、実は私たちの心が感じるものらしいのです。言い換えれば、疲労は心に生じるものだということのようです。


聖書に次のような御言葉があります。


人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。 箴言18:14


人を耐えられないほどひしがれた心にするものがあると聖書は言うのです。ひしがれた心はだれにも耐えられないほど辛いというのです。


  身体の病気の苦しみは何とか耐え切ることができても、ひしがれた心は耐えられないほど辛いとこの聖句は言います。ひしがれた心とは痛む心であり、沈みこみ落ち込んだ状態です。使われている原語では、ひしがれたとは、ナウカウ(naka)というヘブル語が用いられており、この語はもともと「殴る、強打する、襲う」という意味があり、精神的に打撃を与え、悩ますという意味で用いられる語です。ではどのような状況で私たちの心はダンプカーでひき逃げされたように、ぺっちゃんこに打ちひしがれるのでしょう。


よく聞かないうちに返事をする人は人を傷つけると警告する言葉が聖書に記されています。


  よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。箴言18:13


相手の話を良く聞かないで返答する人は恥をかくことになるというのです。確かに人の話を最後まで聞かず、あるいは、まったく相手の話を聞かずに自分の推測をもとに勝手に判断をくだして、人を攻撃する人がいます。


以前、テレビで次のような親と子の関係にスポットをあてた番組が放送されていたそうです。 (続・生きる勇気がわいてくる聖書のメッセージP.45-46参照)


隠しカメラを使って、ある一家の夕食風景が映し出されていました。
「おい、お前、最近ちゃんとやっているのか!」 「・・・・・・」 「勉強しなきゃだめだぞ!」 「・・・・な、なんなんだよ。急に、うっせいな!」
父親は四十七歳、サラリーマン。息子は高校三年生。最近夜、十時過ぎになると頻繁に電話がかかってくる。そう母親から伝え聞いた父は、気が気でない。この日はめずらしく親子そろって夕食をとったようです。先に紹介した会話はそのときのものです。この会話の前には気まずい雰囲気が続いていました。ビールをぐーっと飲み干した元気で、やっとのこと父親が口を開いた時の第一声が、「おい、お前、最近ちゃんとやっているのか!」でした。
その後、会話は息子への電話がきっとガールフレンドからのものと思いこんだ父親の、シドロモドロの説教が続きます。息子との会話はまったくなりたちません。息子は顔を真っ赤にして怒り、「友だち?男の友だちだよ!」と抗議します。父親はオロオロして、酔いもまわっていたのか言葉が支離滅裂になって隠しカメラの映像は終了しました。
このお父さんは、息子の生活について勝手な推測をもとに最初から問題があるかのような決め付けをし、疑いの目を持った敵対的、攻撃的な言葉を一方的に投げつけています。息子にとっては、突然、辻斬り強盗に斬りつけられたようなものです。心に深い傷が残ったのではないでしょうか。相手の立場を十分考慮せず、本人以外の人から聞いた情報や噂話をもとに一方的に攻撃すると、攻撃された人の心には大きな傷が残るものです


また、見当はずれな非難や攻撃、誤解をもとに一方的に悪いと決め付けられたりすることも大きなダメージを与えるものです。

  私には中学時代、技術家庭科の教師との苦い思い出があります。技術家庭科の先生は、あだ名が、「じいちゃ」といい、とても恐い先生でした。すぐ暴力をふるう先生でした。  中学一年生だったある日、私たちが技術家庭の授業で、校庭の花壇に出て、作業をしていました。その最中に、あの「じいちゃ」先生が、突然、私のほうを見て、「おい、井合。」と呼びました。


僕は池田という名前なので、自分が呼ばれたのではないと思い、知らんふりをして黙々と作業をしていました。そうしましたら、「おい、井合。井合だ。井合!」と叫ぶや、先生は僕のほうにツカツカとやってきました。先生が呼んでいるのに知らんふりをして、無視したということで怒られたのでしょう。手に持っていた金槌の柄の部分で僕の頭をゴツーンと殴りつけました。あまりの突然のことで、痛みもあって、僕は何も言い返すことができませんでした。
  完全に先生の間違いであり、人違いでした。僕の立場を全く考慮しないで、一方的に金槌で殴りつけられたのです。金属の部分で殴られなかったのが唯一幸いなことでしたが、この経験は、僕の心に深い傷と、「じいちゃ」先生に対する憎しみを刻みつけたのでした。


うちひしがれた心はだれにも耐えられないほど辛いものです 相手の話を良く聞かないで返答する人は人を傷つけます。相手の立場を考慮せず、一方的に攻撃すると、その人の心には大きな傷が残るものです。また、そればかりでなく、先手必勝と言わんばかり、破壊的な攻撃をしまくる人がいますが、そのような人も、人の心に大きな傷を負わせます。そのような人は、先に、相手をひどく非難、中傷することで自分を正当化しようとする人です。ところが相手の言い分を聞いてみると事実はそう単純ではないことが多いのです。聖書にこのような御言葉があります。



先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。 箴言18:17口語訳


人の心に致命傷となるような傷を負わせることばがあるのです。


軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。 箴言12:18



柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。  箴言15:1


  しかしその反対に人を癒し、生かすことばもあるのです。それは、創造主の愛と慰めの御言葉です。イエス・キリストの言葉をご紹介しましょう。


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ11:28


イエス・キリストは私たちの傷ついた心、疲れた心を癒し、人生を押しつぶしてしまうかのような重荷を私たちと共に担ってくださるというのです。人間の心はなぜ傷つくのでしょうか。


傷つける人がいるからです。では、傷つく人は一方的に被害者で終わるというのでしょうか。いいえ、そうではありません。傷つけられた人本人がまた加害者ともなりうるのです。鋭い言葉で相手に言い返したり、別の人に当たり散らしたりすることで、自分以外の人を傷つけることも多々あるのです。このような問題を聖書では「罪」と呼んでいます。


全ての人は、その意味では罪を犯しており、自分自身が被害者でもありますが、加害者ともなっている現実があるのです。その責任を私たちがひとりひとり問われて当たり前なのに、イエス・キリストという罪の無い方が、十字架にかかられ、血を流して、私やあなたの代わりに償いをなしとげてくたさったと聖書は教えています。また、キリストは三日後に死からよみがえり、永遠のいのちを無償の贈物として私たちに提供しておられるのです。


このイエスキリストというお方をあなたが、ご自分の救い主(永遠のいのちの恩人)として信頼するとき、すなわち「神様有り難うこざいます。こんな私ですが宜しくお願いします。」と申し上げるだけであなたの罪はゆるされ、心がきよめられ、永遠の命がプレゼントとして与えられます。


聖書の言葉


「渇いている者は来なさい。誰でも、いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」  黙示録22章17節


人生で疲れ、複雑な人間関係の中で心傷ついている方がおられましたら、今、この素晴らしい創造主の愛と赦しを受けとり、永遠に続く心の疲労回復(イエス・キリストにある平安)をあなたも御自分のものとなさいませんか。



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