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日本人がキリスト教を受け入れにくくなった原因

                            池田 豊



日本にカトリックの教えが入ってきたとき、短期間に爆発的な勢いでキリスト教信者が生まれたことはよく知られています。



私たちが1998年から2006年の夏まで住まわせていただいていた高槻も、安土桃山時代、高山右近の統治の時期が終わり、右近が天正13年(1585年)に播磨国明石にそして、天正16年(1588年)に加賀国金沢城主の前田利家のもとに身をおくまでという、まさに、ザビエル布教より、36 年から39年以下と四十年もたたない短期間のうちに、高槻全領民の七割以上の住民が、キリシタンになっていました。



その当時の日本人がカトリック教を受け入れたその受容度は、世界でも類をみないほどの速度と浸透度でした。日本の中心であった京都には、キリスト教徒の住む地域が、デウス町という名で五つから六つあったと言われています。現在でもはっきりわかっているのは、四条堀川通りの南西区画がデウス町でした。安土桃山時代の日本における、ロサンゼルスとして名を残しています。



ですから、日本人がもともとキリスト教の教えに対して特別、アレルギーを持った人種だったという仮説は、どうみても間違いです。



ところが、1587(天正15)年に発布された豊臣秀吉の禁教令に始まり、徳川時代の言語を絶するキリスト教迫害の歴史が二百七十年以上続いたために、キリスト教は根絶やしのような状態になりました。



(1587 年の禁教令で外国人宣教師は日本から強制的に退去させられました。そして、実質的な迫害は1597年2月5日(慶長1.12.19) 26聖人の殉教より始まりました。激しい迫害は1914年よりなされ、26聖人の殉教からかぞえ262年以上キリスト教は厳しく弾圧され、1858年に日本人以外の外国人に信教の自由を日本国内において認める発令がなされるまで続きました。ローマカトリック以外のプロテスタント・キリスト教宣教師が 1858年に来日してから、日本人クリスチャンの数は、1859年から1890年にかけて、三年ごとに倍、倍と増加しています。Missionaries were expelled in 1587 and actual persecution started in 1597. Intense persecution began in 1614. Severe persecution lasted over 262 years up to the indictment of the freedom of religion for foreigners in Japan in 1858. Since the first non-Roman missionaries’ arrival in 1859, the number of Japanese Christians doubled every three years during 1859 to 1890!)



キリスト教徒をあぶりだすために、幕府が日本人全員を強制的に仏教徒にし、どこかの寺の檀家になるよう命じたのです。どこかの仏教寺院のメンバーにならなくてはならないという法律です。これを檀家制度と言います。家々に仏壇を安置させ、死者供養を義務づけ、僧侶が家々をまわり、読経するシステムを幕府が全ての日本人に対して、強制的に押しつけたのです。その結果、本来、経典も否定し、焼香も、お経を読むことさえ本来の仏教ではないとしていた曹洞宗、禅宗の僧侶たちさえも焼香をしたり、お経を読んだりするようになってしまいました。すなわち、本来は、経典が違い、拝む対象も違うならば、純粋に宗教を学問としてグループ分けするならば、科学的な感覚からすれば、仏教の各宗派は、本来別々の宗教でしたが、それらが江戸時代に、「日本仏教」というあたかも一つの宗教であるかのように、総括的に受け止められるようになってしまったのです。



 小池長之博士の「日本宗教ものしり100」という本の190頁、23頁の解説を見ますと、以下の二点が明瞭に記されています。



一、1640年、宗門改めと檀家制度、寺請証文、法事と仏壇を家々に設置させたこと



二、仏教による死者供養を制度化したこと  



これらはすべて徳川幕府の為したことでした。これらは、カトリック・キリスト教を禁止するための手段でした。仏教による死者供養を制度化したのは、徳川幕府です。これはキリスト教禁止のための手段でしたが、神官や廃仏論者にまで、死ぬと仏教による葬式が義務づけられていたのです。ですから、日本人が全員仏教徒になったのは、江戸時代です。



小池博士の前著190頁には次のような文章があります。



「寛永一七年(1640)幕府は宗門改めを厳重にし、全国民をどこかの寺の檀家になるよう義務づけた。寺ごとに宗門人別帳を提出させ、疑わしい者に対しては寺側から、『当寺の檀家に相違ない』という寺請け証文を出させた。そして葬式や法事を檀那寺の僧がやることを義務づけ、盆には、檀那寺の僧が檀家まわりをして仏壇や棚経(たなぎょう)のあることを確認させた。」



しかしやがて鎖国が解け、明治時代になった際のことで、最近新しい発見をしました。



1859年から1890年の三十年間、日本のキリスト教信者は、三年ごとに倍々になって増加していたのです。



ところが、その後、状況が一変します。



著者: J. Dudley Woodberry の著作の中で用いられたヘンリー・ドラモンドからの引用文に以下のものがありました。



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The initital entrance of Protestant missions saw a respose in which "every three years the membership of the church doubled" (Drummond 1971:192).  The years from 1859-1890 were called the "golden years," but something happened in 1890 that would change all of that.  It was the issuance of "The Imperial Rescript on Education." 



Stan Conrad, "Encountering Japnese Resistance" in Reaching the resistant: barriers and bridges for mission, ed. John Dudley Woodberry (Pasadena: William Carey Library, 1998), 118.



当初、日本にプロテスタント・キリスト教の宣教がなされた際、日本人の反応は以下のようであったことが観察されている。『三年ごとに、キリスト教会のメンバーシップは倍、倍と増加していった。(ドラモンド 1971:192)  1859年から1890年の期間は、キリスト教の黄金期であった。しかし、1890年にその状況が一変する何かが起こった。それは、教育勅語の発布だった。』



ジョン・デューリー・ウッドベリー著 Reaching the resistant: barriers and bridges for mission パセディナ:ウィリアム・ケアリー・ライブラリー発行 1998年 118ページ



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Reaching the resistant: barriers and bridges for mission
by John Dudley Woodberry
Publisher: Pasadena, Calif.: William Carey Library, (c)1998.
William Carey Library, Total 252 ページ
ISBN:0878083804
Cited 13 April 2008. Online: http://books.google.com/books?id=imFmYF_Ttv4C&hl=ja



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ヘンリー・ドラモンドは、日本人がキリスト教を受け入れにくくなった原因を教育勅語の発布に見ます。



私は、それと共に、明治憲法発布のその日、日本の文部大臣が暗殺された事件もその原因の一つとなっていったのではないかと見ています。クリスチャンであった日本の初代文部大臣森有礼が暗殺され、山県有朋は、その後文部大臣となった榎本武揚を退任させ、自分の息がかかった芳川顕正にすげかえ、文部省を掌握しました。



この時点で日本の学校における宗教教育は、天皇を絶対者、支配者として拝む宗教のみのマインドコントロール状態と急激に変容していくのです。ですから、森有礼の死と教育勅語の発布は表裏一体的に、天皇の神格化を諮ろうとしていた山県有朋や元田永孚たちの日本のっとり計画のために、都合がよかったのではないかと思います。



先日、ティモシー・リチャード著「中国で45年宣教して」という本の中に、非常に面白い記述をいくつか発見しました。



広島にある宮島に、弘法大師が始めた寺があり、そこにバプテスマ槽もあって、その寺で、祭司(僧侶)が、cakeとwineをもってきて聖餐式とほぼ同様の儀式をしているのに立ち会ったことが書かれています。



東京の博物館に貯蔵されているもともとは、法隆寺の柱にシリア語の文章とみられる文字と、十字架のしるしが記されていることなどについても、佐伯好朗著 Nestorian Monument in China の序文でセイス博士が記しておられます。 



Saeki, Nestorian Monument in China, Introduction by Sayce, vi.



東大の高楠博士が日本語に翻訳された、丙午出版社発行、「弘法大師と景教」の中では、ゴードン女史は、厳島の聖火や京都の大文字焼きが景教、キリスト教、インマヌエルの真理との関連があると白鳥博士の言葉を引用しながら記しています。また、ティモシー・リチャード著 Forty-Five Years In Chinaの P.341には、同様のことが記された後、リチャード博士が出雲大社に立ち寄られたことに関しても、とても興味深いことが記されています。



また、リチャード博士は、明治憲法発布直前の御前会議での明治天皇のご様子などについても書き記しています。



それによると、1908年1月、伊藤博文とリチャード宣教師と話した内容が書かれており、伊藤博文は信教の自由をもりこみたかったようですが、当初はうまくいかなかったようです。P.344-345



前述ましたように、明治憲法発布のその日、クリスチャンだった文部大臣、森有礼は暗殺の刃に倒れ、翌日召天します。最初、伊藤博文が、憲法草案に信教の自由を入れようとしたとき、一人の閣僚が絶対反対だといったそうです。



英語での表現では、



When he read his first draft of the Article, the face of one member "turned as black as ink," and he exclaimed that he would never consent to grant religious liberty.



となっています。



しかし、信教の自由を認めないと、内乱が起こり、国がたちゆかなくなる恐れがあるというので、条件付けで、試験的にやってみようということになって、実際の明治憲法には、第28条に信教の自由の項目が入れられました。



けれども、この条件というのが、問題です。



「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ、及ビ臣民タルノ義務ニ背カザル限リニ於テ、信教ノ自由ヲ有ス」という条文になりました。



この「安寧秩序を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限り」という条件が、後に「不敬罪」という罪状で国民を弾圧することになりました。第二次大戦中もこの不敬罪が適用され、内村鑑三なども訴えられました。



理由は、明治憲法の第一章、第一条、第二条の文章です。



第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス



第二条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ



こう明記されてしまいましたので、これは、れっきとした天皇現人神(あらひとがみ)の宗教原則です。信教の自由とは名ばかりで、ローマ皇帝シーザー崇拝を強要したクリスチャン迫害の時代とあまりかわらない憲法だったといえます。



山県有朋や元田永孚らの、天皇を中心とした富国強兵政策の下、日本人は、今度は全員、神道の氏子(うじこ)とむりやりさせられてしまいました。廃仏毀釈といって、江戸時代、キリスト教の教会も全部、仏教のお寺に無理やりさせられてしまったものが、今度は、明治時代にお寺というお寺が全部、神道の神社に変えられてしまうという法律が施行されようとしました。仏教徒の強烈な反対があって、最終的には廃仏毀釈は完全に浸透しませんでした。しかし、日本人が全員、神道信者にさせられたのは、事実です。それは、昭和の第二次世界大戦の時代、日本人が八紘一宇の思想のもと情報操作でマインドコントロール状態になっていたことを見れば明らかです。神道の信者でないと非国民として糾弾されたのです。



以上のことを冷静に考えると、日本人は、もともとキリスト教に対して受容性をもたない、不感症の国民ではなかったということがわかります。しかし、豊臣、徳川時代の残酷なキリシタン弾圧と檀家制度、そして明治時代から第二次世界大戦敗戦までの氏子政策など、為政者の側からの宗教統制が原因で、日本人はキリスト教に対して偏見をもつことを余儀なくされる社会性を身につけたため、キリスト教を受け入れにくい国民となったのだと私は考えます。



お詫び:



2008/06/26 まで、森有礼の死と教育勅語の発布等に関連して、



『このことに関しては私の著書でも論じましたので、ご興味あるかたは、「知っているようで知らない 日本の宗教と慣習」をご覧ください。』



とこのブログに記しましたが、間違いでしたので訂正し、お詫びいたします。



当初、「知っているようで知らない 日本の宗教と慣習」の中に上記の内容を含んだ原稿を準備し組み入れることを予定していましたが、出版物の頁数等の関係で、実際の製本作業をしていく段階で、割愛いたしました。したがって、現在出版されている拙著の中には、この項をあつかった章はありません。失礼いたしました。



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