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恋をした時

恋をした時(1)



 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



君に似し姿を街に見る時の      
こころ躍りを                  
あはれと思へ                  



時として                        
君を思へば                
安かりし心 にはかに騒ぐかなしさ 



恋する心は青年を虜にします。好きな異性と見間違うような人物に出会う時、「まさか」と思いつつも「ひょっとして」と心が穏やかでなくなります。この啄木の歌には「踊る」という漢字ではなく、「躍る」という漢字が用いられています。この漢字は舞踊の躍るではなく、瞬間的に飛び上がる様、はねる様、動揺する様を表現するための漢字です。恋する人のことを考えると心は平安ではなく、アドレナリンの分泌により不安定になるのです。普段の自分ではないことに気づくと悲しみさえおぼえるものです。



 恋は、愛とは別物です。似ていると思う人がおられるかもしれませんが厳密には正反対の要素が多くあるのです。



聖書の言葉



麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 箴言31:30





恋をした時(2)
 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



手套を脱ぐ手 ふと休む    
何やらむ                  
こころかすめし 思ひ出のあり 



つくづくと手をながめつつ
おもひ出でぬ            
キスが上手の女なりしが   



 啄木は、それまで、一行で発表した短歌を三行書きに改め、また明治41年以降3年間の間に東京で詠まれた新作を加えて、551首とし、「一握の砂」と題し、明治43(1910)年12月1日東雲堂書店より、四六判290ページ、定価60銭で刊行しました。この処女歌集は、生活を歌う独自の内容と、三行書きという新しい短歌の表現形式で注目され、以後の歌壇に大きな影響を与えました。その「一握の砂」の中には“手套を脱ぐ時”というセクションに115首が掲載されています。そこには、都市生活者の刹那感や都市の断面がうたわれています。



 27歳でこの世をさった啄木でしたが「一握の砂」を発表したのは25歳の時でした。啄木が、足かけ四年の恋を実らせ堀合セツ子と結婚したのが、明治37年、19歳の時です。手袋を脱ぐ時にふと、恋する人との思い出にふける・・・手袋を脱ぐことで思い出すことが、なぜ接吻なのか(?)・・・あまりの唐突さにびっくりもしますが、実に若い男性の心理を浮き彫りにしたような詩です。恋心とは不思議なものです。



聖書の言葉
 私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。 天にあるわしの道、岩の上にある蛇の道、海の真中にある舟の道、おとめへの男の道。 箴言30:18-19





恋をした時(3)
 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



山の子の
山を思ふがことくにも
かなしき時は 君を思へり



かの声を最一度 聴かば
すっきりと
胸や霽れむと今朝も思へる



 恋い慕う人を思う心は、強烈です。寂しい時、悲しい時は、特に、あの人に会いたい、もう一度あのお方の声を聴きたい。そう思うものです。山で育った子供が、山を慕うように、海辺で育った子供が大海原を慕うように、やるせなく、悲しみにうちくれる時は、慰めを必要しています。恋い慕う人の優しい声や、ただその人が側にいてくれるというただそれだけでも悲しみは癒えるものです。



 主イエスキリストが復活の後、昇天され、天にお帰りになってから、2000年近く経ちます。主を慕い待ちこがれる者たちにとっては、地上で苦しみや悲しみを経験する時こそ、主がもう一度お帰りくださることを待ちわびるものです。



聖書の言葉
御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 黙示録22:17





恋をした時(4)
 石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



馬鈴薯の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ



死ぬまでに最一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか



 ペアルックというのがあります。恋人どおし、二人ともおなじデザインの服などを身につけることです。小学生のある男の子が、恋をしました。大好きなその女の子が、イチゴの香りがする消しゴムをつかっていました。それで、その男の子もイチゴの香りがする消しゴムをそっと内緒で使っていたという話を聞いたことがあります。



 自分が大好きな人と持ち物も、み?んな同じにしたい。その気持ち、わからないでもありません。啄木のばあいは、ジャガイモの花だったようです。少し、ユニークなロマンではありませんか。そして、愛する人とはいつまでも一緒にいたい。どうしても別かれなければならないような状況が来たならば、必ずもう一度会いましょうという再会の誓いをたてたいと願うものです。イエスキリストはいのちを捨てて私たちを愛してくださいました。そして必ず再臨してくださることを約束してくださいました。イエス様がお好きなこと、命じておられることを、主を愛するクリスチャンたちが守ろうとすることは当然なことです。



聖書の言葉
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。ヨハネ15:13-14





恋をした時(5)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



にぎはしき若き女の集会(あつまり)の   
こゑ聴き倦(う)みて   
さびしくなりたり       



春の街                   
見よげに書ける女名の      
門札などを読みありくかな   



 春のある日、啄木は街にぶらっと出まし  見ると、女性名の表札が出ている家があります。なぜだろうと思いながら、「ここの主人は、女の人なんですよ!」と世の人に訴えているかのように感じたようです。「あっ、この家もそうだ。この家も・・・」とそのような家を探して歩く。男尊女卑の明治時代のことです。啄木の心には、主人に先立たれたことや離婚したことを妻が公に知らせる理由は何なんだろうと疑問だったのでしょうか?それともそんなこと黙っていればいいのに、自己主張して、という呟きでも起こったのでしょうか?



 最近は見かけませんが、以前カシマシ娘という女性漫才師のグループがありました。
 一般論として男性は、女性に対し興味を持つものです。しかし、小学生高学年から中学生にかけて、異性に恋心をいだく頃です。でも一時的に男子生徒が、女子生徒を嫌う時期、そばに近づくのを嫌がる時期があります。「だって、あいつらうるせ?んだもん」そう言って、女子を嫌いな理由を男の子たちはまことしやかな顔をして訴えるものです。



 啄木も女性の集まりの近くまで寄った時なんともカシマシイ状態に閉口したようです。多くの男性たちの正直な気持ち。特に、好戦的な女性の、機関銃のような口撃には、百年の恋も一瞬にして、色あせてしまうようです。



聖書の言葉
長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。 箴言27:15
争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。 箴言21:9





恋をした時(6)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



思出のかのキスかとも
おどろきぬ
プラタスの葉の散りて触れしを



今日逢ひし町の女の
どれもどれも
恋にやぶれて帰るごとき日



 ひらひらと一枚の葉が、啄木の腕でしょうか、落ちてきてそっと触れます。詩人はそのかすかな感触に、かつての恋人の口づけを思いだすのです。驚くという表現は、なんとも大げさな気がしますが、詩人なればこその表現なのかもしれません。



 ところで、別のある日、町に出てみると、出会う乙女という乙女、皆、失恋をしたかのように生気ない姿に見えたというのです。これは、その女性たちが皆、鬱的な表情をしていたというのでしょうか、それとも、啄木自身、心がふさいでいたため、出会う女性たち皆が、元気のない姿に見えたというのでしょうか。



 いずれにせよ、恋とは、打算が伴うことが多いようです。口では、「君だけが好きだよ」とか「いつまでも、君を忘れない」とかささやきながら、自分の思いが遂げられないと見るや、手のひらを返したように、恋人を捨て去るということは、よくあることで、多くのドラマや小説の一部に取り上げられています。旧約聖書の契約の民、イスラエルが、創造主のもとを離れ、偶像礼拝者たちの甘い囁きにフラッとなり、誘惑されます。けれども、甘い囁きは長続きしはしません、イスラエルは裏切られるのです。恋の誘いは、誠実によって裏付けられなかったとしたら、これほど危険な罠も他にありません。



聖書の言葉
彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。
しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。 エゼキ33:31





恋をした時(7)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな



しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ



 愛する人と別れ、離ればなれになると、年ごとに恋しくなる場合と、年を経るごとにだんだん疎遠になり、忘れ去ってしまう場合とがあるのではないでしょうか。



 友人と、しみじみと様々な話を語り合っている中に、ふと、以前の恋人のことなどが言及されるとき、「ドキッとしたり」、あるいは、あまりの懐かしさのために「ボーっとなったりする」こともあるかもしれません。



 啄木の場合、年が経つごとに別れた彼女のことが恋しくなるというのです。年を重ねるごとに、だんだんその人のことを忘れるというのでは、本当にその人が好きだったのかどうか疑わしいと言わざるを得ないでしょう。クリスチャンたちは、主イエスキリストとの再会を待ち望むべきだと聖書は、諭しています。私はどうでしょうか?



聖書の言葉
というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 テトス2:11 -13





恋をした時(8)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと



かのときに言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど



 恋する人との会話は、たいへん意味深いものです。さりげなく語られた言葉にもひょっとしたら、深い、深い意味が込められてる場合もあります。でも、そう詮索していることを知られても都合が悪いものです。さらっとなにごともなかったかのように、聞き流す。さりげなく、流す。聞いているような聞いていないようなふりをする。けれども、本当は、この言葉の裏にはどのような気持ちが込められているのかしら・・・と注意をしている。「聞く」ではなく「聴く」という漢字がふさわしいのです。でもそれを相手に悟られてはならない・・・「それだけのこと」と言い、この歌は終わりますが、本当にそれだけのことなのかどうかはわかりません。



 相手に心の内を、うち明けたい。その気持ちをどう表現したら良いのだろう・・・そう考えれば考えるほど、語れなくなるのです。そうこうしている間に、別れの時がやってきます。大切な伝えたい言葉は、ついに語ることができませんでした。今も、その言葉は心に残っています。なんともやるせない、残念な気持ちです。啄木は、うち明けたくてもうち明ける勇気がなかったのでしょうか。現代日本のような、バレンタインデーやホワイトデーは、昔はなかったのです。



 イエスキリストは、弟子たちに、本当に大切な真理を隠さず、彼らが理解できる「ことば」を用いて語ってくださいました。さりげなくではなく、「よくよくあなたがたにいっておく」とおっしゃって・・・。



聖書の言葉
いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。 ヨハネ17:7-8





恋をした時(9)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



あはれなる恋かなと
ひとり呟きて
夜半の火桶に炭 添へにけり



かくばかり熱き涙は
初恋の日にもありきと
泣く日またなし



 恋は、はかなくむなしいものだとよく言われます。恋を「はしか」に例えて説明する人もいます。多くの場合、恋は、自分で勝手に相手を美化しているものです。冷静になってみると、なんとも、あれほど熱中している自分が、滑稽にさえ見えるのですから不思議です。昔はやった流行歌を、メロディーつけて歌っている時は、曲に酔って恥ずかしくもなく大きな声で歌うのですが、いざ冷静になって、その歌詞だけをゆっくり読んでみると、なんとまあこんな恥ずかしい内容のことを歌っている者だと苦笑するのによく似ています。



 雰囲気にだまされているのです。サタンも私たちを目くらましにかけることでは同じような手法を用います。



聖書の言葉
彼ら(ニセ予言者たち)は、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。2ペテロ2:18-19





恋をした時(10)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



小奴といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぶ)なども忘れがたかり



よりそひて
深夜の雪の中に立つ
女の右手のあたたかさかな



小奴という名前の女性。啄木が恋心を抱いた女性かどうかはわかりませんが、やわらかい耳たぶの感触を知っているということは、通りすがりの中ではないでしょう。また、同じ女性かどうかわかりませんが、寒い北国の雪降る真夜中、そっと彼女とよりそう。そして、手がふれあう。極寒の外気と対照的な女性の手のぬくもりに生きていることの幸せを思う啄木でした。どんなにつらい、真冬のような試練が来ても、天地宇宙をお造りになり、私を愛していてくださる、創造主の右手が私の手をしっかり握っていてくだされば何も恐れるものはありません。



聖書の言葉
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 イザヤ41:10





恋をした時(11)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



わが酔ひに心いためて   
うたはざる女ありしが   
いかになれるや         



死にたくはないかと言へば            
これ見よと                         
咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな



 啄木の歌の中にはお酒のでてくる歌がいくつかあります。人に裏切られたり、失恋をしたり、さまざまな心の痛みを酒が和らげてくれる。酒は麻酔薬のような働きをしますから、しばらくは、痛みを感じないでおれるのでしょう。しかし、やがて酔いが醒め、現実に戻る時、現状は変わらないわけですから、いっそうの鬱状態になる危険性があります。啄木の身体と心を心配してくれた女性がいたようです。啄木は、なつかしくその人のことを思いだしているのです。また、太宰治のように心中を語り合っていたわけではないかも知れませんが、「死にたくないか?」と問うたら、その女性が、喉をついて自殺を図った未遂の時の傷を見せてくれたというのです。



 皆、人生の苦渋を経験し傷ついているのです。啄木一人ではなかったのです。苦しみを真に和らげ、慰めを与えるのは、天地宇宙を造られた創造主への信仰のみなのです。



聖書の言葉



このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。 1テサ3:7



恋をした時(12)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



きしきしと寒さに踏めば板軋(きし)む
かへりの廊下の
不意のくちづけ



かなしきは
かの白玉のごとくなる腕に残せし
キスの痕かな



 寒い北国、きっと夜のことでしょう。古くなった建物の板は、歩くたびに音を立てます。寒さに歩みもいくぶん早めになっていたでしょうか。啄木はどこから帰ってきたのでしょう。廊下で出会あった女性となのでしょうか、それとも、いっしょに帰ってきた女性とだったのでしょうか・・・不意にくちづけを交わした時のロマンを詩に詠んだ啄木でした。



 どちらが不意に唇を奪われたのでしょう?アメリカの映画ならともかく、日本が舞台でしたらやはり、おそらく、啄木がアプローチしたのでしょう。不意だったのは女性の方で、啄木にしてみたら、場面設定まで計算した計画的行為だったかもしれません。



 雪国の女性には肌の白い人が多いと言われます。啄木が女性の腕に残した鮮やかなキスマークについて詠った詩です。忘れがたい良い思い出のはずでした。でも、啄木はそのマークを「かなしい」という言葉で表現しているのです。私たちが、恋する勢いにまかせ、清水の舞台から飛び降りるかのような決心でなした行為も、後になってみれば「軽率だったなぁ」と感じることもあるのです。「若気のいたりで・・・」などとクールに気取っていられれば良いのですが、現実は、それだけで済まない悲しいケースになることだってあります。



聖書の言葉
しかし、アムノンは彼女の言うことを聞こうとはせず、力ずくで、彼女をはずかしめて、これと寝た。
ところがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった。アムノンは彼女に言った。「さあ、出て行け。」2サムエル13:14-15





恋をした時(13)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



ゆゑもなく海が見たくて   
海に来きぬ               
こころ傷(いた)みてたへがたき日に



やや長きキスを交わして別れ来し
深夜の街の                     
遠き火事かな                  



 失恋をしたり、人に裏切られ、絶望感や、自己憐憫に耐えられなくなった時は、どこか遠くへ行きたくなるものです。そして、行きたくなる所といえば、多くの人にとってそれは、海岸ではないでしょうか。なぜかわかりませんが、あのうち寄せる波の音、冷たい触感の砂、そして、遠く果てしない水平線。心の傷をすっぽりと包んでくれるような気がします。



 啄木は、恋した女性と別れを惜しみ、口づけを交わしあって帰宅の途につきました。深夜です。なにやら深夜にはふさわしくない騒々しさです。見れば遠くの空が赤く染まっています。「火事だ!」と叫ぶ声が遠くで聞こえます。ついさきほどまで二人だけの甘いロマンチックな世界に浸っていた啄木は現実に引き戻されます。



 失恋であっても、ロマンチックな二人だけの世界に浸っていた恋人たちが頭から水をかぶるような現実直視の体験をすることであっても、私たちは、夢から覚める経験が必要だと気付く時があります。
そしてそれは重要なことです。



聖書の言葉
夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。 伝道5:7





恋をした時(14)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



東海の小島の磯の白砂に         
われ泣きぬれて                
蟹とたはむる                  



砂山の砂に腹這ひ          
初恋の                     
いたみを遠くおもひ出づる日
                                 │                               
 失恋は、恋する者の心をズタズタにするものです。片思いで、なかなか自分の恋する思いを告げることができない・・・思い切ってうち明けた時、相手がまったく自分のことを恋の対象として考えたこともないかのような、驚きの表情を浮かべ、お友達でいましょうなどという返事を返してきた時なども、ベートーベンの第五交響曲のテーマが鳴り響くように感じる人もおられることでしょう。



 ましてや、互いに恋する思いを告白しあい、恋人としての親しい関係を築きあげてきたにもかかわらず、相手が、自分よりもステキな異性に心を奪われたことなどを正直に告白してきた時に受けるショックは、前者の比ではないでしょう。



 そんな経験をしたことのある人は、上に記した啄木が詠んだ詩の気持ちを少しは察することができるかもしれません。心傷ついてどうにもやるせない時、海に出てみる。砂を指でそっと触る。止めようとしても、止めようとしても涙がポタポタ落ちる。そんな彼の所に何をおもったか、蟹が近づいてくる。自分はひとりぼっちだと思っていたのに、そうじゃなかったんだ。そう気づかされるのでした。



聖書の言葉
悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。 イザヤ41:17





恋をした時(15)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



壁ごしに
若き女の泣くをきく
旅の宿屋の秋の蚊帳(かや)かな



郷里にゐて
身投げせしことありといふ
女の三味にうたへるゆうべ



 旅行中、宿屋で秋の夜長を過ごすことになりました。秋とはいえ、蚊が吸血鬼のようにたかってきます。蚊帳の中で寝苦しい夜だなあと思っていると、壁の向こうからすすり泣きの声が聞こえてきます。たしか隣の部屋には若い女性が入ったはずだ。どうして泣いているのだろう・・・。人ごととはいえ啄木は繊細な心を持つ詩人です。いろいろ思いめぐらしたことでしょう。若い女性が、一人泣いている。ひょっとして恋にやぶれたのだろうか。好きだった人に捨てられたのだろうか?そんなことすら考えたかも知れません。



 そういえば、この前の宴会で三味線を弾いていた女が、自分の身の上話を語ってくれたことがあったっけ。なんでも、若い頃、まだ田舎にいた時だそうだ。世をはかなんで身投げをしたことがあったとのこと。だれも自分の心をわかってくれない。なにもかもいやになった。そんなことを言っていたっけ。でも、死にきれず、今は、お座敷で三味線を弾く女になったとのこと。人生、いろいろあるものだ。そう啄木は思ったかも知れません。



 恋にやぶれたり、人に裏切られたり、自分の計画したように物事が進まなかったり、人生にはさまざまなハードルがたちはだかるものです。でもそんな苦しい状況でも、創造主を見上げる時に、私たちの人生の意義を示していただくことができるのです。



聖書の言葉
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。 エレミヤ33:3





恋をした時(16)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



秋来れば
恋ふる心のいとまなさよ
夜もい寝がてに雁多く聴く



あめつちに
わが悲しみと月光と
あまねき秋の夜となりけり



恋心と秋はしっとりとしてなんとなくあいます。



秋の日の ビオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し
鐘のおとに 胸ふたぎ
色かえて 涙ぐむ
過ぎし日の おもいでや
げにわれは うらぶれて ここかしこ
さだめなく とび散らう 落葉かな
落葉かな



という、ヴェルレーヌ作、上田 敏 訳による落ち葉にもうら悲しさが歌われていますが、啄木も秋の夜と、悲しみ、そして月光をそして、恋を歌っています。



 そして恋をすると、長い秋の夜も休みなく揺れ動く心にいつとはなく時が流れているのです。雁が多く飛びさりゆく声が聞こえます。



 私たちの人生も黄昏に近づき、たとい大地さえも私たちの心も、全てが揺らぐようなことがあったとしても創造主を信頼する時、私たちの支えは盤石となるのです。



聖書の言葉
地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ 詩篇75:3





恋をした時(17)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



かなしきは
秋風ぞかし
稀にのみ湧きし涙の繁(しじ)に流るる



真白なるラムプの笠に
手をあてて
寒き夜にする物思ひかな



 秋の風が吹くとどの年代の人でもなにかしら寂しい気持ちになるものです。とくに失恋などすると、大の男でさえメソメソ涙をながすことがあるようです。滅多に涙など見せることがないはずなのに、秋風が吹くと後から後から涙が湧いてきて、頬に暖かく感じられた、と思うやいなや、冷たい風にさらされ、急速に冷えます。啄木も秋になると涙あふれることが頻繁にあったようです。



 真っ白なランプの笠にそっと手を置いてみます。秋風が外ではぴゅーぴゅー吹いています。白熱球のぬくもりに、背筋が思わずゾクッ。いやビビンとするといったら良いのでしょうか。そう、初恋の人に近づいた時にも、そんな電気が体中にビビッと走ったような経験したことありませんか。寒い夜、なんとなくほんわかと暖かい思い出にふける。



 恋は私たちの心をいつのまにか遠い昔へもタイムトリップさせてくれます。寒い日に暖かいランプの熱を手に感じるような、そんな日は特に。



 私たちの心は、造り主なるお方の愛にとられられるその時、恋人を思い出すそれ以上に暖かく、懐かしい思いに引き込まれると言って良いでしょう。ちょうど、誘拐された子供が、恐ろしい不安な体験の後やっとのことで両親の元に返って来たときのように。



聖書の言葉
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。 エゼキ34:16





恋をした時(18)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



何時なりしか
かの大川の遊船に
舞ひし女をおもひ出でにけり



Yという符牒(しるし)
古日記の処処にあり・・
Yとはあの人の事なりしかな



 恋に陥るのは一瞬のことだと言われることがあります。特に男性にとっては、視覚が恋に陥りやすさの窓口のようです。たった一度だけの出会いで、その女性について何の情報もなくとも恋の病にとりつかれ、舞い上がる人もおられるようです。いいえ、実際にあうことが無くても、写真やポスター一枚で自分好みの女性がいれば恋にはまる人もいます。特に男性は、女性の“目”に引きつけられるようです。



 そして、思いを寄せる女性などがいると、日記などにあからさまに名前を記すのをためらいますから、自分だけわかればよいようにイニシャルなどで記録を残します。もともと日記は、他者に見せるものではありませんからそれは、それで良いのですが、何年もたって、ふと、古い日記に目を通したとき、そのイニシャルを見つけることがあります。そうたら、タイムスリップしたかのようにその頃の思い出が、総天然色映画のようによみがえるのです。でも、注意しなければならないのは、よく知りもしない相手を、自分の空想の中で美化しすぎないことです。「人は誤解して結婚し、理解して離婚する」なんて妙に神妙な言葉を口にする人がおられるからです。



聖書の言葉
彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕えられるな。箴言6:25





恋をした時(19)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



かぎりなき知識の欲に燃ゆる眼を
姉は傷みき
人恋ふるかと



わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日



 恋の病のことをコイワズライと言います。中学生くらいの男子生徒が変声期に、声が出にくくなる状態をコエワズライと呼びますが、発音がにていることから声変わりの頃に恋に悩むことも経験すると言う人がおられます。しかし、眼にも恋は負担をかけるものでしょうか。



 啄木は、知識欲旺盛であったため、眼を酷使したようです。「蛍の光、窓の雪」と苦学して勉強し、ランプの油を惜しんで、夏は蛍の下で、冬は、月の光を窓に反射する雪のあかるさを頼りに読書をする話しがあります。そのような集中力は、眼に負担をかけます。でも眼を痛めた啄木の姿を見て、誰か好きな人ができたのかと姉は尋ねるのです。



 恋をし、失恋でもして眼を泣きはらしているのかと心配しての問いだったのでしょう、姉には弟の目の腫れが気になったようです。彼女は弟のため、心を痛めたのです。
 又、恋の告白をするとき、あるいは、自分が誰かを恋い慕っているということを友人にうち明かすことは、とても勇気がいることです。その場面を忘れることができず、思い出す人も多いことでしょう。私も、中学一年の時、好きだった女の子に手紙を書き、下校時に「これよんどいてっ!」とだけ言い捨て、ポイッと彼女の前に落とし、恥ずかしさのあまり、あわてて、こいでいた自転車のペダルを力一杯踏み、坂道を下っていった日のことを今も懐かしく思い出すことがあります。



聖書の言葉
わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。・・神である主の御告げ。・・そして、あなたはわたしのものとなった。 エゼキエル16:8  



 



恋をした時(20)



石川啄木の歌のいくつかには、恋をした喜びや悲しみ、困惑、葛藤などを憶えた経験が綴られています。



朝はやく
婚期を過ぎし妹の
恋文めける文を読めりけり



死にしかとこのごろ聞きぬ
恋がたき
才あまりある男なりしが



 啄木の妹はクリスチャンだったようです。別にクリスチャンだったからという理由からではないと思いますが、結婚適齢期をすぎても一人だったようです。兄、啄木は、朝早く、妹が書いたと思われるラブレターを発見し、盗み読みをしたのでしょう。兄として妹のことが気にかかったようです。人の手紙を盗み読むのは良くないことですが、啄木は妹に良き結婚に導かれればよいのにと心にかけ、願っていたようです。



 啄木自身も恋をして、失恋も経験したことがあったようです。同じ一人の女性を想う恋がたき、つまりライバルもいたのでしょう。そのライバルは、啄木よりも才能あふれる、女性の心をつかむのがうまい男性だったようです。ところが、このかつての恋がたきが、急死したというのです。この訃報に複雑な思いを感じる啄木でした。



 恋というのは、愛とは違い、きわめて自己中心的な側面を持っています。ですから恋がたきであるライバルの死は、不謹慎ではありますが、ある意味でうれしい知らせと受け止める人もおられるかもしれません。しかし、自分と比べてみても明らかに素晴らしい才能の持ち主と自他共に認めるライバルであった場合、惜しい男を亡くしたと思うこともまた、当然のことです。



聖書の言葉
あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。箴言24:17



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