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阿武山ニュース 2003年度

阿武山ニュースNo.127       
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ  2003年 11月号
?法華経と阿弥陀如来の真実 (1) 
?                 池田 豊

 釈迦の時代、インドにはまだ文字が完備されていなかったそうです。ですから、初期の仏教においては、キリスト教の聖書のように釈迦の教えを記録文書として保存することができませんでした。300?400年近くの長い間、伝言ゲームのような形で口伝として受け継がれてきたようです。

 以前、京都で世界仏教会議が開かれた際に、東南アジア諸国から集まった代表者たちが、日本の仏教を見て、「これでも、仏教か?」と驚いたそうです。 (森山諭著、「神道と仏教を正す」65頁)
 このことからもわかりますように、日本には、釈迦が教えたとされる根本仏教とは、全く異質の思想が、仏教という名でまかり通っていると言うことのようです。

 日本仏教つまり、大乗仏教が、釈迦本来の根本仏教(小乗仏教)とは異質なものとなった原因は、大きく分けて二つあります。一つは、法華経という経典です。もう一つは、平安時代に中国の唐へ留学し、長安(現在の西安)で学んだ空海の教えです。
法華経とキリスト教との関係

 法華経を釈迦が説法した場所は霊鷲山(フダラク山)だと書かれてはいますが、その周囲に居合わせた聴衆の人名や八大龍王という名をもとに考察するとどうも西北インドに違いないと多くの仏教学者たちは考えています。そして、法華経が編纂された時期についての学者たちの一般的な見解では、AD100年以降だとされています。

 法華経の内容を私も読んで見ましたが、この教典が、歴史上の釈迦、ゴータマ・シッダルタ本人の教えだとはとうてい考えられません。

 ところで、紀元1?2世紀頃、インドの西北部で最も多くの信者がいた宗教はキリスト教でした。ナタナエルとトマスの宣教活動によってインドの北部、西北部に伝えられ、たくさんの教会が建てられていました。現在でも、トマス・キリスト教徒はインドに約300万人、ネストリウス派のキリスト教徒も数十万人いると言われています。

 私が、箱根で開催された日本ケズィック・コンベンションで、英国から来られたロバート・エイメス牧師の説教の通訳をさせていただいた時のことです。エイメス先生は、ご自分がインドに説教のご用で行かれた時のことを私に語ってくださいました。マドラス飛行場に着いたとき、出迎えに来た、インドの方が、飛行場から見える小高い丘を指さして、「エイメス先生、あの丘のことをご存じですか?」と質問なさったそうです。
エイメス先生が、「いいえ、存じません。あの丘がどうかしたのですか?」と聞き返した時、そのインド人の方は、こうおっしゃったそうです。
「あの丘の上で、聖トマス(イエス様の十二弟子の内の一人)が説教をしたのですよ。ですから、あの丘は、聖トマスの丘という名で呼ばれています。」

 2000年夏、オランダのアムステルダムで開催されたキリスト教の国際大会に通訳のご奉仕で私が参加した時のことを阿武山ニュースNo.124号にもご紹介しましたが、その集会に来ておられたインドのジョシュア・スティーブンス先生は、インドには一世紀、すでにキリスト教が、使徒トマスを通して伝えられており、トマスはインドで殉教し、彼の墓がスティーブンス牧師の教会のすぐ近くにあることを教えてくださいました。

 紀元前2400年ごろには、もうすでにアッシリアと中国の間に貿易がなされており、中国の絹をユダヤ人の商人たちが買い付けヨーロッパ方面にまで売りさばいていたのでトマスは中国へも伝道に行きました。シルクロードを通って、トマスはラクダの隊商に乗せてもらい中国に入ったと思われます。

 ですから、法華経を読んでみますと、聖書の影響と見られる部分があるのに気がつきます。特に、ヨハネ福音書、ルカ福音書を模倣して書いたとみられるところがあります。


聖書のことば
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ8:32


阿武山ニュースNo.126    
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ  2003年 10月号
仏教は宗派、キリスト教は教派 
似てるけど、実は大きな違いがあります。 

                 池田 豊

 仏教という宗教には、宗派というものがあります。キリスト教では宗派とは言わず、教派といいます。少し似ているため、一般の方々は、宗派と教派が同じものであるかのように誤解しておられますが、実は、両者にはとても大きな違いがあるのです。
仏教の宗派に於いては、教えの根幹となる経典がそれぞれの宗派で違います。
ところが、キリスト教の場合は、教派が違っていても、教えの基準となる聖書、つまり、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻は共通しているのです。(ユダヤ教もマホメット教[イスラム教、回教]も旧約聖書39巻を教典としていることではキリスト教と共通しています。)

 仏教の場合は、教えの経典が違いますから、当然、拝む対象も仏教各宗派で違いがあります。
一方、キリスト教では、“聖書が示すところの宇宙万物の創造主を、主イエスキリストを信じる信仰を通して崇める”という意味に於いては、各教派、共通しているといってよいでしょう。

日本仏教の主な宗派とそれぞれの経典
 仏教の経典に関して見てみますと、天台宗や日蓮宗系の仏教では、法華経、正式には、妙法蓮華経(定説はないが、西北インドでA.D.100年頃までには中心部分が成立し、その後、付加部分が付け加えられたと考えられている)を経典としています。
極端な人々の中には、法華経だけが真理を伝える教えであり、その他の仏教経典はすべて邪宗の教えだとさえ言い切るグループがあるほどです。

 浄土宗、浄土真宗の系列の仏教では、浄土三部経といわれます、無量寿経(1?2世紀頃ガンダーラで成立)、観無量寿経(紀元4?5世紀頃西北インドあたりで成立)、阿弥陀経(紀元前という説もありますが、紀元1?2世紀以降、西北インドで成立したというのが正しいでしょう)というこれら三つの巻物が、大切な経典です。浄土真宗では、その他に、特に親鸞の歎異抄を尊重します。

 真言宗では、大日如来を本尊としますが、その根拠として、大日経と金剛頂経そして、蘇悉地(そしつじ)経という経典を重要と考えます。

 禅宗のように拝む対象をすべて拒否する無神論的な哲学に立つような宗派もあります。禅宗というのは、実は、仏心宗というのが正式な呼び名です。この派には、臨済宗、曹洞宗など広く知られている宗派があります。ひたすら座禅を行うことが特徴です。そして、禅宗の場合、一切の経典を否定し、認めないという特徴があります。ただひたすら座禅を組み、以心伝心の禅で仏心を伝えるという立場をとります。これを、「不立文字教外別伝」といいます。
その意味は、経典、教説にはよらず、釈尊以来、師の心から弟子の心へ直接仏法そのものが受け伝えられたのだという立場を意味します。

 日本に曹洞宗を広めた道元は、
「焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅざん:俗人が過失や罪悪をザンゲするためにお坊さんにお経を読んでもらうこと)、看経(かんきん:お経を読むこと)を用いない」
と正法眼蔵弁道話の中ではっきり述べています。ですから、曹洞宗の僧侶の方々が、葬式の時にお経を読んだり、焼香をしたり、死者に拝礼などをしている姿がもし道元に見つかったら、道元はきっと「喝!」といって叱るのではないかと思うのです。
日本仏教の場合、各宗派それぞれに教えの基盤となる経典が違うわけですから、信じていることの内容も別々であることは、言うまでもありません。拝む対象も違います。ならば、世界的な宗教学の常識から見てみれば、それぞれが別々の宗教ではないかといわれても、しかたがないのではないでしょうか。
又、現在、日本仏教の風習に共通しているのが「仏壇や位牌と死者供養」という、本来、釈迦の教えた仏教とは全く異質なものだという事実も理解に苦しむところです。

聖書のことば
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 ヨハネ8:32


阿武山ニュースNo.125       
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 9月号
お盆や位牌・戒名と仏教(2) 
                 池田 豊

 釈迦が教えた本来の仏教からみますと、お盆に仏壇や位牌(イハイ)を拝むことについてどのように考えたらよいのでしょう?
新潟市古町通4にある考古堂という出版社から発行されている(昭和58年9月9日、初版)新潟仏教文化研究会著による、「真宗門徒・新潟の仏事」という本があります。 その95頁には、以下のような文章があります。

 位牌は本来、仏教にはありませんでした。これは昔、中国で儒教が、亡き人の生前の官位、姓名を記した木札を祖廟に祭っていたことから、その風習が、日本にも流れてきたものだといいます。
 長い日本の仏教の歴史の中で、多くの宗派が、この位牌あっての仏壇であるかのごとく錯覚されるほどになっています。
 しかし、ひとり浄土真宗だけは、葬儀のときに、白木の野位牌を使う以外、お内仏(仏壇の中)に位牌を並べることはいたしません。

 釈迦が教えた仏教には、「仏壇を各信者の家に安置し、死者のために、位牌を仏壇の中に並ベ、『魂入れ』を僧侶にしてもらい(なるべく高額のお布施をはらって読経してもらうこと)法事で定期的に、仏壇を拝むべし」というような教えはないようです。上記の文章が、仏教文化研究会の仏教徒の方々によって書かれたということは、重要だと思います。

 歎異抄(タンニショウ)岩波文庫P42には、以下のような文章があります。
親鸞(シンラン)は、父母の孝養(供養)のためとて、一返にても念沸まうしたること、いまださふらはず。

? これは、校訂された金子大栄氏の解説によれば、「念仏は、父母の追善の為に用いられるべきものではない。」ということだそうです。分かり易く言えば、父母のためであっても、死者の追善供養(ツイゼンクヨウ)のためにお経をとなえても何の役にも立たないということのようです。親鸞は、死んだ父母のためには、一度も南無阿弥陀仏と念仏をとなえたことはなかったといいきっています。


 一周忌、三年忌という風習は儒教から出たもので、正しい仏教ではないようです。釈迦は、善因善果、悪因悪果を説いただけです。生き残っている人の善行、供養、読経、宗教儀式等で死人を成仏させ、悟りを開かせるなどということを教えた経典など原始仏教には存在しないのです。一般的に原始仏教の正典とみなされている経典のどの経典にも、「お経をとなえたら、死者の功徳や追善供養になる。」ということを教えた文章は一つもないというのが仏教学者の常識のようです。


 死者の命日に、仏壇にむかって、三部経をあげる僧侶の方がおられますが、その中には無量寿経の下巻があります。聞いてすぐ、その意味を理解できるように、読経している人はほとんどいませんが、もし、意味のわかる日本語で、このお経を聞いていたら、あまりにも神妙な態度で、僧侶が死者に向かって読んで聞かせているものですから、「ふざけるな。」と怒り出す人も出てこられるのではないかと私には思えるのです。
そのお経の中には、五焼五病の戒めがありますが、これは、

1. 命あるものを殺すな
2. 盗むな
3. 邪淫(不倫)をしてはならない
4. 嘘をついてはいけない
5. 酒を飲むな
という五つの禁止事項のことです。しかし、まことしやかな顔で、このようなことを死者に聞かせて、何の意味があるというのでしょう。

 そればかりか、お経は死者だけに聞かせるものらしく、私の経験では、読経と宗教儀式による法事が終わると、僧侶に檀家は酒をふるまい、共に酔っぱらい、第五番目の禁止事項を平気で破っていることもありましたから、なお理解に苦しむものです。
聖書のことば
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 ヨハネ8:32


阿武山ニュースNo.124       
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 8月号
お盆や位牌・戒名と仏教 
                 池田 豊

 八月はお盆の季節です。私たち日本人はお盆の行事や墓参りが仏教のものだと思っていますが、よく調べてみますと、実はそうではないようです。

 2000年夏、私はオランダのアムステルダムで開催されたキリスト教のある国際大会に通訳のご奉仕で参加いたしました。その集会にはインドからも400人の牧師たちが参加していました。私は、インド人のジョシュア・スティーブンスという先生と親しくなり、インドのことについていろいろ教えていただきました。インドには一世紀、すでにキリスト教が、使徒トマスを通して伝えられていたそうです。そして、トマスはインドで殉教し、彼の墓はスティーブンス牧師の教会のすぐ近くにあるそうです。チェンナイ、以前はマドラスという名の町です。インドで発祥した仏教では、本来、お墓をいっさいつくらないのだそうです。チベットの人からもお話を伺いますと、仏教という宗教は、やはりお墓とは無縁のようです。ロープで死者の遺骸をくくり、ガンジス河の水に放置したり、高いところに死者の体を放置し、死肉を食べる鳥の餌にしたりするのだそうです。

 原始仏教の経典にあるお釈迦様の本来の教えでは、死者を墓に葬ったり、死者に祈りをささげたり、死者の為に供養をするなどという風習は、仏教とは実は、全く関係の無いことなのです。ましてや、位牌や仏壇などは本来の仏教にはありませんでした。戒名などを、死者の供養と称して、お金と引き換えに与えるという行為にいたっては、お釈迦様とは全く、何の関係も無いものでした。これらは、江戸時代、徳川幕府の命令により、日本人が全員、強制的に仏教徒とされてしまった時に徹底化されたものでした。

 私は、朝夕、熱心に先祖と思い込んで、仏壇に向って拝んでいる人々に、次のような質問をお尋ねしたいのです。
「あなたは先祖を救ってあげるために、拝んでおられますか?」
「それともご先祖に救ってもらおうと拝んでいるのですか?」

 このような問いを尋ねてみますと、ほとんどの人は、わからないとお答えになります。
「拝んであげないと、仏さまが行くところに行けないからねぇ」、「拝んであげないと、うかばれないから」と答える人もおられます。よいところに行けるように拝んでやるとしたら、ご先祖を救ってあげるために拝んでいることです。
「ではだれに救ってくれるように拝んでいるのですか?」「何年ぐらい、また、何時間拝んだら救われるのですか?」とそうお伺いしますと、「そんなむずかしいことはわからない」とおっしゃるのです。

 位牌、また、戒名は、江戸時代以前の仏教では、死者のためのものではありませんでした。仏道修行に励み、仏法に帰依し、戒律を守った人々に、一定の修行を終えた修了書のような意味で与えられた卒業証書のようなものだったのです。

 ある子供が、年に一度、お盆の時期に、地獄のフタが開いて、ご先祖が家に帰って来ると聞き、母親に次のような質問をしたそうです。
「おかあさん、お盆にはほんとうに仏さまが家に帰ってくるの?」
 母親はまじめに「ええ、帰って来るわ」と答えました。「では何日間家にいるの?」「三日間よ」「そうしたら、おかあさん、仏さまはどうなるの?」「また帰って行かれるのよ。」

 しばらく子供は考えていました。そしてこう言ったそうです。「だったら、おかしいわ、三日間だけお盆にうちに帰って来て、また戻って行ってしまうのだったら、このお仏壇の中には、仏さまが住んでいないのでしょ。どうしてお留守のところを、毎日拝んでいるの?」と聞いたというのです。

 お盆には、先祖さまが家に帰って来たと言って、仏壇にたくさんの供え物をし、墓参りに行くのですが、その時、お墓は留守のはずではないでしょうか。

 このような宗教行為が、仏教の開祖、お釈迦様の教えとは無縁のものであり、江戸時代という日本の歴史でも現代に近い、比較的新しい時代に、人為的かつ強制的に導入された、幕府によるキリシタン弾圧のための方策の一つだったことを知ると、考え直す必要があるように思えてきます。
聖書のことば
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 ヨハネ8:32

阿武山ニュースNo.123 
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 7月号
ウガンダのエイズ激減、本当の理由 
                 池田 豊

 ウガンダという国はアフリカ大陸にあります。ウガンダは、世界のなかで最も寛大な難民受け入れ国のひとつです。
ウガンダと聞くと重要なキーワードが二つあります。二つともこの国に悲惨をもたらしました。

? それらは、イディ・アミンとエイズです。悲惨な状況はしかし、創造主の恵みの故に、暗黒からの脱出、黎明がもたらされることとなりました。苦難をのり越え、ウガンダに新しい歴史のページが開かれて行きました。このことは私たち個人にとっても、また私たちが住んでいる日本においてもよき示唆となることと思います。


イディ・アミン
イディ・アミン・ダダは、イスラム教徒の家に生まれ「アッラーが夢の中に出てきて、俺様にウガンダの統治を任せたんだ!」と普段から公言してはばかりませんでした。アミンの8年間に亘る暴政下、30万人が殺されたとも50万人が殺されたとも言われています。
結局、独裁的恐怖政治当然の結果ですが、経済は破綻します。そこで彼は、野望を拡大し、1978年、隣国タンザニアへの侵攻を図るのでした。武力による領土拡張を狙った彼は、とうとう国内反対派とタンザニア軍との戦いに敗北し、追放されます。1979年、イディ・アミンは家族を連れてウガンダから逃亡、サウジアラビアに亡命したのでした。


エイズ
 ウガンダにとって悲劇をもたらしたもう一つのものは、エイズです。
ウガンダでは一時、成人(18?45歳)の30%近くの人がHIV(エイズ)の感染者でした。イディ・アミンの恐怖から逃れたウガンダの人々は、今、また別の意味で亡国の危機に瀕しました。しかし、ウガンダでは、天地宇宙の創造主を聖書から信じる人々が増え、現在、国民の60%がキリスト教徒となっています。


 ムセヴェニ大統領は、この新たな亡国の危機に対し、断固たる態度で取り組む決意をしたのです。NHKをはじめとする日本の報道機関は、ウガンダ政府がコンドームの使用を国民に勧めたのでエイズ感染率が低下したかのように報道していますが、とんでもないことです。

 ファミリー・フォーカス・ジャパンの前島常郎先生は、ウガンダ・エイズ・コミッションのホームページをご覧になり、現在、ウガンダの保険省はコンドームの使用を勧めてはいないと断言しておられるのです。
 HIV(エイズ)感染予防に最も重要なことは、避妊具をもちいることなどはなく、「婚前、婚外セックスは絶対しないこと!」なのです。ムセヴェニ大統領も、ウガンダ・エイズ・コミッションもこの性に関する聖書的価値観、倫理観を国民に守るよう命じたのでした。その結果、ウガンダの成人エイズ患者数は、30%から10年間で激減しなんと2001年には、成人HIV(エイズ)感染者率が5%まで下がったのです。

 一般に日本で、マスコミがあたかも常識であるかのごとく報じている、コンドームの使用による「セーフ・セックス」では、エイズは減少しないのです。このことは、日経ビジネス・パブリケーション・ネットワークのサイトで「ウガンダ・ショック! もはや「セーフ・セックス」ではエイズは減らない」という記事にも掲載されています。
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Nikkei Business Publications Network
http://medwave2.nikkeibp.co.jp/wcs/leaf?CID=onair/medwave/tpic/232602
◆ 2003.2.24 ウガンダ・ショック!
もはや「セーフ・セックス」ではエイズは減らない
アフリカのウガンダで6年間に渡り行われた介入研究で、いわゆる「セーフ・セックス」の重要性を教えるといった方法では、もはやエイズ感染の蔓延を防げないことが明らかになった。
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 ハーバード大学、人口開発研究センターのエドワード・グリーン教授が調査した結果、判明した真実は以下のことでした。
「ウガンダのエイズ患者が激減した最大の原因は、人々が安易に性交渉をしなくなったためだ。」

 ウガンダでエイズ感染者が激減したのは、コンドーム使用を勧めたからではなくて、ムセヴェニ大統領が、国民に以下のアピールをしたからでした。
「むやみやたらセックスはしない。結婚相手に対して忠誠をつくす。それがいやなら死ぬだけだ!」

 日本の若者たちが、もしコンドームの使用で安心し、エイズに対して楽観的な見方をしているとしたら、潜伏期を伴っているだけの時限爆弾を自分の体に埋め込んでいる可能性が大であることを知るべきです。

聖書のことば
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
 1コリント6:18


阿武山ニュースNo.122       
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 6月号
「のにある花」「のにがない花」    
?                 池田 豊

 人間関係はギブ・アンド・テイクだという人は多いと思います。その場合、「○○してあげたのに」、とか「あんなに○○だったのに」という言葉が人間関係をギクシャクさせてしまうことがあります。私たちは知らず知らずのうちに打算的、利益優先になるとソロバンをはじくものです。けれども母親の愛には、与えつくす、打算をのり越えた、見返りを期待しない犠牲的な側面があるようです。動物の子育ての姿を見ても教えられます。


 相田みつをさんという方の言葉をご紹介します。

 あんなに世話をしてやったのに、ろくな挨拶もない。
 あんなに親切にしてあげたのに
 あんなに一生懸命に、つくしてあげたのに。 のに・・・のに・・・
 「のに」が出たときは、愚痴。
 こっちに「のに」がつくと、向こうは「恩に着せやがって」と思う。(中略)
 花はただ咲くんです。 (中略)
 人間のように、「のに」なんていう愚痴はひとつも言わない。
 だから、純粋で美しいんです。
 野に咲いている花には、「のに」がないのです。

 砂漠の中には、はいつくばって顕微鏡で見なければわからないほど小さい極微の花が咲いています。そんな花々も精一杯、力強く咲いているのです。大写しで見るとちゃんとおしべもめしべも普通の花と変わらずにちゃんとついています。とても感動します。
 人に踏みつけられても、あんなに美しく咲いている「のに」、その美しさに気づいてくれる人はふつう誰もいないのです。砂漠の灼熱の中、それでも、花は、美しくひっそりと咲いています。父の愛も、母の愛も基本的に「のに」がない愛だと私は思います。


 聖書の言葉
 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 マタイ6:29-31


阿武山ニュースNo.121
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 5月号
ご自分をどうみておられますか?    
                 池田 豊

 英国王室に嫁いだ、ダイアナ元皇太子妃の離婚と事故死という悲しい出来事がありました。


 シンデレラのようなダイアナ妃が、王子に見捨てられ、最後には命をも奪われた悲劇に、彼女をヒロインとして同情する方も多いことでしょう。

 彼女は、リストカッティング、つまり、手首を切って自殺未遂をしたことがありました。度重なる芝居じみた自傷行為や慢性化した摂食障害、自殺願望を見ると彼女は、自分自身がわからなくなってしまう精神障害をわずらっていたように思われます。今風の言い方をすれば、アイデンティティーの喪失です。専門的な用語でいえばボーダーライン(境界性人格障害)という精神障害です。

 彼女の精神障害がいつごろから始まったかについてはさだかではないようですが、少なくともチャーリー皇太子との結婚生活の破綻が大きな原因の一つとなっただろうということは多くの人が推測しておられるところです。
彼女は、もし皇太子と結婚をしなかったら彼女の精神的な混乱はなかったのでしょうか。精神科医の町沢静夫先生は、疑わしいとおっしゃっています。先生はご著書にこう書いておられます。

 「皇太子との結婚がなければ彼女の混乱もなかったかといえば、私は違うと思います。つまり、プリンセス・ダイアナの精神的な根幹が相当ゆがんでいて、本質が混乱していたのでしょう。

 彼女は、子爵家の三女として生まれました。けれども親が待ち望んでいたのは、女の子ではなく、世継ぎのための男の子だったそうです。そんな雰囲気を敏感に感じ取った彼女は、幼い頃から自分を『やっかい者』と見るようになっていきました。すでに強い自己否定が始まるわけです。そして彼女は愛を求め続けるのですが、いつもそれに失敗してきたと感じていたようです。彼女のそんな人生からは、はっきりとアイデンティティーが混乱していく過程を読み取ることができます。」

 私たちにとって、周囲の人々、特に両親や、配偶者、家族が自分をどうみているかということは重要なことです。影響力も大変大きなものがあります。けれども私たちが自分で自分をどうみるかはもっと大切です。
そしてそれ以上に、私たちのいのちを始めてくださったお方、造り主が私たちをどうみておられるかということを知ることはもっと大切なことなのではないでしょうか。


聖書の言葉
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 
イザヤ43:4

阿武山ニュースNo.120     
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 4月号
比類なき聖書の不思議な魅力 
                 池田 豊

 1991年12月21日、ソビエト連邦という国家が消滅しました。その後、旧ソ連、東欧の変化は激動とも呼べるものでした。その頃、読売新聞の英語版、「デイリーヨミウリ」紙にとても興味深い記事が掲載されていました。海外ニュース欄に大見出しで、「無料聖書がソビエト最高会議を中断」と記されていました。

 「ソビエト最高会議では、連邦共和国の将来について白熱した討論がなされていた。ところが、メインホールで聖書を無料配布中との情報が入ってくると、議員たちが次々に議場から流れ出た。政治家や料理人、警官、大勢の官僚たちなどが、われ先とばかりに列をなし、15メートルに及ぶ行列が数本できあがった。」
「共産主義下の宗教弾圧が数十年間続いたソ連では、聖書は希少品となっている。在庫不足が進むにつれ、政府は対応に手を焼いている。」
「聖書配布団体のリーダーによると、議会が乱れることは予想していなかったそうだ。彼は、国家が深刻な物不足と政治的混迷に直面している今、聖書こそ政治家にとって、もっとも必要なものだと述べている。『混乱したソビエト社会では、議員たちが聖書を手にすべき時を迎えている』と、彼は語っている。」

 このようなことが、ほかでもない73年間も、聖書が禁書となっていたモスクワで起こったのです。しかも日本の大新聞がそれについて取り上げていたのです。
 毛沢東の共産主義革命が起こった時、キリスト教の宣教師たちは全員、中国大陸から退去させられました。私の知っている何人かの宣教師も、本当は中国にとどまり宣教をしたかったけれど、革命が起こり、中国に入ることが禁止されてしまい、やむなく日本に宣教師として来たという方々でした。
聖書はすべて没収され、廃棄処分となり、焼かれました。中国のクリスチャン達は殺害されたり、投獄されたりしました。このことは、旧ソビエトでも、北朝鮮でも同じです。

 毛沢東は、中国国内から、聖書の影響力を一掃したと誇らしげでした。けれども、私も個人的にお会いしたことのある、カルフォルニアのFEBCという放送団体の創始者であるボブ・ボーマン氏と息子のジム・ボーマン氏らは、中国やロシアに向けてそれぞれの国語で、聖書のメッセージを短波ラジオ電波を用い放送し続けたのでした。

 中国のクリスチャン達は、聖書を全部奪い取られ迫害されましたので、深夜、墓場のようなところの地下に隠れ、密かに集まり、ラジオ放送に耳を傾け、聖書の言葉を聞いたのでした。彼らはラジオのスピーカーから流れる聖書の言葉を手書きで書き取り、聖句集をつくり、それを聖書の代りにして、回し読みしたのです。


 毛沢東が、共産主義徹底化のために漢字を簡略体に変え、教育を徹底しました。中国の方々の識字率がめざましく改善されました。地域紛争を沈静化させるため軍隊を派遣できるよう広い軍用道路を中国大陸に張り巡らしました。

 皮肉なことに、共産主義の徹底化のためにと毛沢東が導入した多くのものが、現在、聖書のメッセージが中国大陸全体に宣べ伝えられるため用いられているのです。
 中国、韓国を経て仏教は日本に伝えられたわけですが、現在は、中国でも、クリスチャンの数が非常な勢いで増えています。ミッション・宣教の声ニュースレター2003年3月号には、次のような報告が掲載されていました。
「中国は、約13億人の人口を抱え、そのうち約10%はクリスチャンだと言われている。」

 まだまだ、信仰の自由は日本のように認められていない中国です。現在、キリスト教を信じると公に語ることが迫害につながる国です。しかしながら、地下教会に集うクリスチャン達は、ものすごい勢いで増え続けています。なんと日本の全人口よりも多い数の人々が、聖書を求め、イエスキリストを救い主と信じ受け入れておられるというのです。


 韓国のことは、申し上げるまでもないでしょうが、仏教徒の数は少なく、ソウルに旅行で訪れてご覧になれば、夜ホテルの窓から外を見て、十字架のネオンサインの数多いことに驚かれるに違いありません。

 こうは言いますが、日本でも今から400年以上前には、本当にたくさんの人々が聖書の御言葉を信じ心に受け入れていました。高槻に居住していた全領民の73%はキリシタンだったと言われています。


聖書の言葉  

聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 2テモテ3:15


阿武山ニュースNo.119     
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 3月号
西郷隆盛も天と人について語った   
                 池田 豊

 天地万物を無から創造された造り主は、私たちの命をも始めてくださったお方です。そのお方にあっては、私たちは、等しくいのちと自由、そして幸福を追求する権利が保障されているという、この概念は、福沢諭吉にとっては新鮮なものでした。しかし、これは、日本の歴史で言えば、古き、弥生式土器中期の時代に、書き記された、イエス・キリストの言葉と新約聖書に教えられていることがらだったのです。
 先月の阿武山ニュースに記しましたように、福沢諭吉は、この欧米の基本的人権と創造主のみ前における等しい立場に衝撃を受け、学問のススメの冒頭にあの有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と書き記したのでした。

 さて、諭吉同様、明治の勇として有名な西郷隆盛という人物がいます。彼が好んでよく使った言葉として記録されているものに「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉があります。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布の特赦により、西南戦争での西郷の賊名が除かれた際に、旧庄内藩士の人々は、西郷隆盛から学んだ様々な教えを一冊の本に編集し南洲翁遺訓ととして出版しました。この遺訓の中には、西郷隆盛が終生、自己修養の目的とし、信仰的な天命自覚の哲学として考えていた、上記の「敬天愛人」が紹介されています。

遺訓の第二十四
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」(西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓より)

 現代の日本語に訳せば以下のような内容になります。「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから、何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分をも平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって、人を愛することが肝要である。」

 天、あるいは上帝(シャンティー)という漢字は、孔子や孟子が出現するはるか以前、大昔から中国では、天地宇宙万物の創造主を現す用語でした。敬うという動詞は、人格をもった相手に対して用いるものです。諭吉が引用した、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。」という文章の天が聖書の創造主を意味していたのと同様、西郷隆盛が敬うべきであるとした天も、天地宇宙の創造主のことだと考えてそう的外れではないように私には思えます。

 さらに、明治時代、日本では、漢字の「愛」という字は、もっぱら、男女間の色・恋をあらわす語だったのですから、西郷隆盛がいわんとしたことは不倫のススメだと思う人がひょっとしておられたかもしれません。でもそれは大きな間違いです。聖書を明治時代に日本語に訳した時、「神は愛なり」という訳文を試みた明治時代の人たちは、「聖書の神は卑猥な神だ!」といって腹を抱えて笑い、けなす人たちによって馬鹿にされたそうです。

 けれども明治時代のクリスチャンたちは、その中傷にもめげず、この「愛」という漢字をイエス・キリストに現された、創造主の無限の慈愛、自己犠牲をともなう無償の博愛を意味する新しい語として説明をし続けたのでした。その背景を考えて見ますと興味深いことは、西郷隆盛はクリスチャンではなかったかもしれませんが、聖書が伝えている「愛」という概念とほぼ等しい意味で、他者を大切にし、その人の最善を求めるという、隣人愛を座右の銘としたようです。

聖書の言葉
愛する者たち、私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は創造主から出ているのです。愛のある者はみな創造主から生まれ、創造主を知っています。愛のない者に、創造主はわかりません。なぜなら、創造主は愛だからです。
創造主は、そのひとり子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、創造主の愛が私たちに示されたのです。私たちが創造主を愛したのではなく、創造主が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネ第一の手紙4:7-10


阿武山ニュースNo.118     
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 2003年 1&2月
福沢諭吉を感動させたこと 
池田 豊

 一万円札でおなじみの福沢諭吉と聞けば、皆さん、何を思い出されるでしょうか。有名な言葉がありますね。そうです。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉です。

 でも、この言葉が記されている「学問のすすめ」をよく見てみると、実はあとに言葉が続いてるんです。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。・・・」
“云へり”って書いてあるのですからこの言葉は、諭吉のオリジナルではないということのようです。

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉は、江戸時代からの士農工商という身分制度、つまり、カースト制度が、長いこと続いていた当時の日本人にとっては、とても耳新しい言葉でした。

 勝海舟と一緒に咸臨丸(かんりんまる)に乗ってアメリカに行ったことのある諭吉は、1860年、サンフランシスコの写真店の娘さんとツーショットで写真を写しました。これをことのほかお気に入りで宝物のようにしていた諭吉でした。その写真を帰国の船中、周囲の人々に披露し、うらやましがらせていたといいます。

 日本から来た諭吉も、写真屋の娘も、大統領さえも、お話しするのに"You"でことたりるアメリカ、これは、諭吉にとっては大変な衝撃、ショックだったようです。こりゃ、学問のススメの最初にもってこなきゃいけないと思うほど、重要だとそう諭吉は確信したようです。

 実は、この「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。」というのは、いったいどこで「云へり」だったのかを調べてみました。そうしましたらなんと、この文章の内容は、なんと、福沢諭吉が、米国独立宣言文の中にある一部から拝借してきたものだったらしいのです。

 原文ではこう書かれています。
We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable rights that among these are life, liberty and the pursuit of happiness.
我々は以下のことがらを自明の真理としている。つまり、すべての人は、創造主によって等しく造られたものであり、他者に奪われてはならない、固有の権利を賦与されているということである。そして、それらの中には、生存と、自由の権利、そして幸福を追求する権利などが含まれている。

 天地万物を無から創造された造り主は、私たちの命をも始めてくださったお方です。そのお方にあっては、私たちは、等しくいのちと自由、そして幸福を追求する権利が保障されているというのです。この概念は、福沢諭吉にとっては新鮮なものでした。しかし、これは、日本の歴史で言えば、古き、弥生式土器中期の時代に、書き記された、イエス・キリストの言葉と新約聖書に教えられていることがらだったのです。

聖書の言葉
ですから、もし子(イエス・キリスト)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。 ヨハネ8:36
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 ガラテヤ3:28
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 ガラテヤ5:13



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