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あんな時、こんな時、 4. 病気の時

病気の時(1)
石川啄木の日記より
昨日-----大学病院へ行き、三浦内科の青柳といふ医者に診察して貰つた。はち切れさうにふくれた腹を一目見て、「ああいけない、いけない、これあ可けません。」と医者が言った。
「痛くないんだから、仕事をしながら治療するといふやうな訳にいきませんか」
「そんなノンキな事言つてゐたら、あなたの生命はたつた一年です。」
「腹膜炎ですか。」
「さうです。----」一日も早く入院する外に途がありません。----」
「どうも大分おどかされますね。」
「おどかしぢゃありません。」
これは昨日の正午から一時頃までの間の話である。かういわれて帰つたが、----
「一年だけの生命」といふことが妙に頭を圧迫した。
 君、僕はすぐ入院の決心をした。僕の状態はどの方面から考へても今僕に入院なんか許さない。夜勤をやめたのは既に遅かつたが、遅かつたにしても僕はまだ死にたくない。
僕は入院する。大学の施療にに。(宮崎郁雨宛書簡)
註:この病気が啄木の生命とりになったものだった。
病気の時(2)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
目覚ませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて夜明くるを待つ
氷嚢の下より
まなこ光らせて、
寝られぬ夜は人を憎める
 肉体の苦痛は、私たちの生きる希望をさえ奪うことがあります。寝返りもうてないほど苦しい状態ともなると夜がとても長く感じるのです。
 不眠症を訴える人の中には、本当に眠っていないのではなく、寝た気がしないというだけの場合もあるようです。以前、横浜にそのような青年がいました。本人は、「眠れない、眠れない」と私に訴えるのですが、一緒に生活している彼のお母さんは、「あなたは、よく寝ているわよ。いびきをかいてねているんだもの」とおっしゃったものです。しかし、苦痛で眠られない夜は、それとは別です。
 爛々と目を光らせ、怪しい妖気のようなものを発しながら、人を憎むと詠った啄木は、いったい誰のどのようなことを憎んでいたのでしょうか?身体が病むと心まで病んでしまうとはあまりにも悲しいことです。
聖書の言葉
私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
エレミヤ17:14
病気の時(3)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
病みてあれば心も弱るらむ!
さまざまの
泣きたきことが胸にあつまる
そんならば生命が欲しくないのかと、
医者に言はれて、
だまりし心!
 長いこと身体を患うと、心も弱ってきます。希望がもてなくなってきた時、人はただむなしく泣くのみのような気がしてきます。啄木も泣きたいこと、嘆きたいことが次から次と胸に集まってくると詠いました。自暴自棄になって医者の忠告もなにもかもどうでも良いような気持ちになったのでしょう。医者に叱られ、一言も言い返すことができなかったようです。私たちのこの肉体は、朽ち果て、痛みの内に私たちはこの世を去りますが、主イエスキリストは、復活の希望を約束しておられます。ちょうどさなぎから蝶がかえるように。
聖書の言葉
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。  1コリント15:20-22
病気の時(4)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
脉をとる看護婦の手の
あたたかき日あり、
つめたく堅き日もあり
寝つつ読む本の重さに
 つかれたる
手を休めては、物を思へり
 入院中は、看護婦さんの対応が気になるものです。私も入院していた時、とてもぶっきらぼうな応対をする看護婦さんがいたことで気になったことがありました。漫画家の故手塚治虫さんのお父さんが私の入院していた同じ病院に、入院しておられたことがありました。社会的に有名な方のお父さんに対してであっても、看護婦さんが、子供にものをいいつけるような高飛車な態度で接していたことに驚かされたものです。手の脈をとりにこられる看護婦さんの手が温かく感じる日があったり、冷たく、堅く感じる日があったと啄木は言います。本を読んでもすぐ疲れ、本を支えていることさえ困難です。私も寝ていて本を楽に読むことができ、る書見機を購入したことがあります。ベッドに寝ていると、様々なことをじっと深く考えるようになります。
聖書の言葉
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。 エゼキ34:16a
病気の時(5)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
病みて四月・・・
そのときどきに変わりたる
くすりの味もなつかしきかな
病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな
病院に入院して四ヶ月にもなると投薬の種類も変わります。薬の味の移り変わりにも時の経過が感じられます。本来なら徐々に良くなっていくべきなのに、なかなか病状に改善が見られないと、その「時の経過」は、死に近づいていく「時の流れ」として不気味な不安感を与えるものです。普段なら、毎日一緒に過ごすことのできるはずの妻や子供は、病室にいません。妻に会いたい。子供を抱きしめたい。もしこのまま退院できなかったとしたら・・・そう考えると、妻や子供が見舞いに来てくれた時、一瞬たりとも無駄にはできません。本当の自分、真剣な自分で妻子に接したい。悔いの残らない会話や振る舞いをしたい。そう願うようになった啄木でした。私たちも毎日、今日が、許された最後の一日かもしれないという創造主への感謝と緊張感をもった生活をおくることができたら、幸いだと思います。
聖書の言葉
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。    ヤコブ4:14
病気の時(6)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
ドア推してひと足出れば、
病人の目にはてもなき
長廊下かな。
はづれまで一度ゆきたしと
 思ひゐし
かの病院の長廊下かな
 病気になり入院していると色々なことが気になります。ドアを押してひと足廊下に出てみた時、その廊下が妙に果てしなく続くように見えます。啄木は、エンドレスのように見える廊下が、いつ治るともわからない病気にダブって見えたようです。いつまで入院するのだろう。ひょっとしてずーっと治らないんじゃないだろうか。そう思うと心細くなるのです。廊下の一番端まで行って確かめて来たい。終わりがあるんだと。この苦しみは、エンドレスじゃあない。解放される時がきっとくるに違いない。そのことを確かめるように廊下の最後の所を見届けたいのです。
 私たちもこの地上の苦しみがいつ終わるのだろうと心細くなる時があります。いつまで、いつまで続くのですか?と創造主に問いを発したくなります。聖書は、必ず、苦しみから解放される時が来ることを預言しています。それは、主イエスさまが再臨される時です。その時が、救いの時なのです。
聖書の言葉
帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。 詩篇90:13
病気の時(7)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
ふくれたる腹を撫でつつ、
病院の寝台に、ひとり、
かなしみてあり
びっしょりと盗汗(ねあせ)出てゐる
あけがたの
まだ覚めやらぬ重きかなしみ。
 病の床にあるとき、不安が心をよぎります。啄木は、それを悲しみと表現しています。しかも、ひとりで悲しんでいる。なんと孤独な姿でしょう。我が身をあわれ、はかなむ心です。腹部が異常にふくれあがっています。夜中、寝汗をびっしょりとかき、いつ治るのかわからない闘病生活に疲れ果て、重い悲しみとさえ表現しています。まったく希望のない重苦しい歌です。そのような時こそ、私たちの生命をはじめて下さり、支えて下さっている創造主に目をとめるべきではないでしょうか。苦しみ、悲しみの向こうに、祝福を用意していて下さる復活の主の御言葉に耳を傾けるべきなのではないでしょうか。
聖書の言葉
主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。 哀歌3:31-33
病気の時(8)
石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。
病みて四月(よつき)・・・
 その間にも、猶、目に見えて、
わが子の背丈のびしかなしみ
子を叱る あはれ、この心よ。
 熱高き日の癖とのみ
 妻よ、思ふな。
 病気になると怒りっぽくなるものです。なかなか治らないと思える病気の場合はなおさら、焦燥感から、短気になりやすいものです。そんなとき、自分よりも弱い者へ怒りの矛先が向けられやすいものです。啄木もイライラした心を、子供に爆発させ、そのあとで、後味の悪さを感じ、なんと情けない男かと自己反省をしています。そんな間も子供はスクスクと成長していきます。そして、それをじっと見つめている妻の存在があります。
聖書の言葉
愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。箴言29:11
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ヤコブ1:20
病気の時(8)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。今回から、啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
 十月四日ー午前二時、節子、大学病院にて男子分娩、真一と名づく、予の長男なり。生まれて虚弱、生くること僅かに二十四日にして、同月二十七日、夜、十二時すぐること数分にして死す。恰(あたか)も予、夜勤に当たり、帰る来れば、今、まさに絶息したるのみの所なりき、医師の注射も効無く、体温暁に残れり    「日記」より
 生後、すぐ、啄木の長男は死んでしまいます。虚弱な体質で生まれたからでしょうか?この長男の死は、啄木にとって耐え難い悲しみだったようです。啄木はこのときの心境をいくつかの詩にして残しています。できることなら、自分のいのちを長男のいのちと引き替えに差し出したいと思うほどいとおしい気持ちになっていたのではないでしょうか。それほど長男のいのちはいとおしいものです。聖書は、私たち罪人を救うために、創造主が支払われた犠牲愛こそが、まさに、父親が、ひとりご、長男のいのちを差し出すことに匹敵するほどの痛みであったのだと記されています。
聖書の言葉
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。    ヨハネ3:16
病気の時(9)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり
夜おそく
つとめ先よりかへり来て
今死にしてふ児を抱けるかな
 時節は実りの秋、十月です。真っ白な大根がまるまると太り、収穫を待つ。そんな充実感を感じさせる、「天高く、馬肥ゆる秋」に啄木の長男、真一くんは帰らぬ人となりました。季節はすべてが健康そうに見える収穫の秋。その秋に、石川啄木夫妻の愛の結晶、長男が死んでしまいます。しかも夜おそく、仕事場から帰った啄木を待っていたのは、まだ僅かに暖かさを残しているように感じられるのに、呼べど、さすれど、呼吸すらしない、真一君の亡骸でした。アダム以来、人間の罪の故に死がこの世に入ってきました。創造主の復活の恵みがもしなかったとしたら、人生は全てがむなしく、希望もなく、生まれなかった方がよいということになってしまうでしょう。そのことを伝道者の書はこう記しています。
聖書の言葉
私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。 伝道者の書4:2-3
病気の時(10)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
二三こゑ
いまはのきはに微かにも泣きしといふに
なみだ誘はる
死にし児の
胸に注射の針を刺す
医者の手もとにあつまる心
 夜おそく勤めから帰った啄木は、死んでしまった真一ちゃんと無言の対面をします。どのような死に方をしたのか、妻たちから根堀り葉堀りきっと聞いたことでしょう。亡くなる直前、真一ちゃんは小さな声で二三回泣いたそうです。聞けば聞くほど涙が流れます。もうすでに死んでしまった赤ちゃんなのに医者は胸の所に注射針を刺すのです。この注射で生き返るならばよいのに・・・と皆息をのんでのぞき込んでいます。でも真一ちゃんは、痛さを鳴き声で表現することもありませんでした。
 むなしい、むなしい。生きている者は、やがては死ぬ時が来る。そんなことは人から言われなくとも知っている。そう啄木は思うのでしたが、それにしても早い。早すぎる。真一ちゃんはまだ生まれたばかりなのです。しかし、私たちのいのちをはじめて下さった造り主なるお方は、全てのことをご存じだと聖書は告げています。私たちには不可解であったとしてもすべての営みには創造主の時がある、造り主の御心があるというのです。
聖書の言葉
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 伝道者の書3:1-2
病気の時(11)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな
底知れぬ謎に対(むか)ひてあるごとし
死児のひたいに
またも手をやる
 深まった秋の少しひんやりとしてきた空気を吸って、愛する長男、真一ちゃんは死んでしまいました。そのいまわのきわに、側にいてあげることが出来なかった啄木は、自分の父親としてのふがいなさに心騒ぐのでした。死んだ真一ちゃんの冷たくなった額に啄木は手を置いてみます。病気で熱っぽかったほうがどれほどよかったか・・・。真一ちゃんが死んだなどとはとても信じられません。何度も額に手を置いてみます。
 啄木の手のぬくもりで真一ちゃんの額が暖かくなり、ひょっとして真一ちゃんが息を吹き返してはくれないだろうか。そんな期待も込めてまたも真一ちゃんの額に啄木の手がのびるのでした。でも一度、いのちの息を創造主の御手にお返しした魂は、身動きもしません。なぜこんなことが起こるのだろうか?底知れぬ謎だと啄木は感じるのでした。
 しかし、遅かれ早かれ、私たちはみな、この厳粛な死の瞬間を迎えるのだということは、受け入れたくないことではあっても事実なのです。
聖書の言葉
もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。彼が千年の倍も生きても、・・しあわせな目に会わなければ、・・両者とも同じ所に行くのではないか。 伝道者の書 6:3-6
病気の時(12)
 石川啄木の歌のいくつかには、病の中で、さまざまな苦しみと葛藤を憶えた経験が、なまなましく綴られています。啄木の愛児、長男の真一ちゃんが、生後ひと月も経たずに亡くなられた悲しみの記録をご紹介します。
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり
かなしみの強くいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ冷えてゆけども
 死んでも死体はすぐには冷たくなりません。啄木の長男真一ちゃんも啄木が夜おそく帰宅した時、すでに息を引き取ってはいましたが、その身体には、僅かなぬくもりが残っておりました。でも、そのぬくもりとて、時計の秒を刻む音が増えるに連れ徐々に失われていくのです。なんともやるせない悲しい気持ちです。
 真一ちゃんの身体が少しずつ冷えていくのに反比例して、悲しみの気持ちが増し加わるべきだ。そのはずなのに・・・、あまりのショックで、啄木は悲しんでも悲しんでも悲しみきれない、唖然とした気持ちです。こんな中途半端な悲しみで良いのか?こんな悲しみ方で良いのだろうか?そう思えば思うほどさびしい気持ちになるのです。
 聖書には、死を直視することの重要性について教えた箇所があります。仏教の経典と見まがうような言葉ですが、なんとお釈迦様が生まれる四百年も前にこのような教えはすでに聖書に書きしるされていたのです。
聖書の言葉
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。伝道者の書7:1-4


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