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行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であるとは? (19)

                                                                             牧師 池田 豊
 アブラハムのことを引き合いに出すまでもなく、人間が創造主の御前で正しいと宣告(義と)されるのは、行いによらず、信仰のみによることにヤコブは、異議をとなえようとしているのではありません。しかし、聖書が義とされると言う時は、必ずしも創造主の御前でのことだけを扱っているのではありません。その意味で、ヤコブは、義とされるということには、信仰のみによって義とされるということだけではなく、もう一つ、行いによって人間の前で義とされるということもあるのだと言いたかったのです。信仰プラス人間の良い行いが創造主の御前で義とされる条件だとヤコブは主張しているのではないのです。このことは、義とされることに二種類の場合があることを意味しています。



 「人は、行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」とヤコブ2:24を新改訳聖書は翻訳しています。ここで「だけ」と訳されたギリシャ語の「モノン」という副詞がいったい何を修飾しているのかに注意する必要があります。新改訳聖書のように「信仰」という名詞だけを修飾しているように理解すると、「人間が救われるためには、イエスキリストを信じる信仰だけによって義とされるのでは不十分だ、行いも救いの条件なのだから、ガンバレよ!」という異端的な救いの教理と解釈を生み出す温床となってしまいます。



 それとは逆に、モノンを、「信仰」という名詞だけを修飾する「だけモノン」ではなく、『信仰によって(義とされる)』という節(従属節)全体を修飾しているように解釈するとします。そうすれば、前述の異端的解釈は、どうひっくり返ってもできないということになるのです。



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