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阿武山ニュース 2001/10-2002/12

阿武山ニュースNo.104 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
2001年 10月号
「寺」という漢字のミステリーもうご存じでしたか?
                      池田 豊

「寺」という漢字はインドの宗教とは直接関係はなかった

 みなさんは、「寺」と聞くと何を思い浮かべられますか?
 私は、新潟県糸魚川市寺町で生まれ育ちました。正覚寺というお寺の幼稚園を卒園しましたので、「寺」という漢字には人一倍、興味を持っていました。「寺」という漢字を見るとオートマチックに私は、インドの宗教、仏教の宗教施設だと思いこんでおりました。
 ところが「寺」という漢字の本来の意味を探っていきますとそうではないことが、わかってきました。少なくとも中国は唐の時代、首都、長安では「寺」という漢字は、インドの宗教、仏教の宗教施設のみをあらわすための漢字などではありませんでした。一般的な日本人には驚くようなミステリーがこの「中国の寺」には秘められています。そのことを今回は、皆様にご紹介したいと思います。

唐の時代の「寺」って・・・ホントは何だったの?

 唐の時代、中国では、「寺」という文字はインド伝来の宗教、「仏教」とは本来、直接関係のない語でした。
 唐代には、中国の政治機構の中に〔きゅうけい〕九卿(=九寺)と呼ばれる九つのお寺がありました。この九つのお寺も、仏教とは全く無関係です。
「九寺」の[寺]は、寺院とは無関係な語で[役所]の意味です。「太常寺」「光禄寺」「衛尉寺」「太僕寺」「大理寺」「鴻臚寺」「宗正寺」「司農寺」「太府寺」などがありました。
 それらは、どのような役所だったかといいますと・・・
?太常寺卿 礼楽・祭祀 宮中儀礼典則・教育を管理する官庁
?光禄寺卿 宮殿の内務
?衛尉寺卿 宮門の警衛
?太僕寺卿 輿馬・行幸の供奉
?大理寺卿 刑罰・訟獄 現代の 警視庁
?鴻臚寺卿 賓客外交・儀式 現代の外務省
?宗正寺卿 皇族
?司農寺卿 穀物・貨幣 現代の農林省、財務省
?太府寺卿 天子の御料庫
 寺という漢字は、手を表す、寸という漢字と、土という漢字からなる語です。土の部分は、シと発音し、「止」を表現しています。もともとは「手を動かす」「手を動かし働く」、そしてできあがった成果を保管するという意味で、後に、「事務を処理するところ」、「仕事をする役所」、現在の日本語でいえば、「オフイス」、省庁、役所、事務処理をする所の意味でした。
 唐の時代は、現在のサダムフセイン大統領がいるイラク、そしてその東のイランのある地域、昔は、アッシリアとかバビロンとかペルシャと呼ばれていた地域からキリスト教(景教)の宣教師が長安にやってきて、聖書を中国語に翻訳し、イエス・キリストが救い主であり、世の光であることを大々的に伝えていました。キリスト教会も長安の街いたる所に建てられ、「寺」と呼ばれていました。当時の中国におけるキリスト教の総本山は、太秦(うずまさ)寺でした。
 興味深いことに、唐代の長安の地図を縮小して、現在の京都の地図と比べあわせてみますと非常によく似ています。上の中央に、長安では皇帝の、そして京都では天皇の御陵があります。そして、その左側(右京区)の上から三本目の大路の下のところには、長安でも、京都でも「太秦」という名があるのです。現在、東映の映画村があるところです。京福電鉄の駅名も「太秦」です。そして、太秦には弥勒菩薩で有名な広隆寺があります。
 この広隆寺は、インドの宗教、仏教の施設だと言うことに現在はなっていますが、本来はそうではありません。大酒神社という施設がその敷地内にあります。もともとは、大避神社というのが正式な名称のようです。その証拠に赤穂の坂越にある大避神社と現在も京都の広隆寺にある大酒神社とは交流を持っておられます。
 実は、前述しましたように、この太秦は、中国の唐の時代、キリスト教の総本部、ヘッド・クォーターがあったところなのです。ですから日本の京都もそれを模して造られたのだとしたら、おそらくその地域に景教の太秦教会があったことは間違いないと思われます。



阿武山ニュースNo.105 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
2001年 11月号
利休の茶道と切腹の謎 もうご存じでしたか?
                  池田 豊

 私たちが、外国からこられた方々に日本文化を紹介しようとする時、能や落語、柔道、相撲などと共に、必ず話題としてとりあげるのは、茶道のことではないでしょうか。今回、阿武山福音自由教会では、茶道の表千家、教授であられる?橋敏夫先生を埼玉からお迎えし、講演会を予定しております。主題は、「茶道とキリスト教」、副題は、「高山右近の視点で二十一世紀に立つ!」です。
 なんと、純粋な日本文化だとばかり思っていました茶道が、キリスト教と深い関わりがあったようなのです。高槻のお殿様、キリシタン大名だった高山右近も千利休より、茶の道を学んだ利休七哲の一人だと言われています。
 ずいぶん前のことですが、民放テレビのあるチャンネルで、女優、五十嵐めぐみさんがレポーターとなり茶道のルーツにキリスト教が関係しているらしいということで日本各地に出向き、取材をしておられる番組が放送されていました。「謎学の旅」という番組でした。私は、その番組をビデオに収録し、何度も、何度も繰り返し見ました。千利休が始めた茶道の作法は、それ以前の禅宗でたしなまれていた茶の作法とは全く違うものであることが、五十嵐めぐみさんのインタビューに答える形で、直接、禅宗のお坊さんが語っておられました。
 裏千家十五代家元鵬雲斎宗室宗匠がキリスト教と茶道との関係について語っておられることは、インターネットでもhttp://www.teahyakka.com/HistJlayout.htmlのサイトに茶道歴史入門の中で以下のように掲載され明らかにされています。
宗教性
この頃の茶の湯はまた、キリスト教ともかかわりがありました。宣教師として日本にきたルイス・フロイス、ジョアン・ロドリゲスらは、堺や京都にやってきて、利休居士をはじめ多くの茶人と親交をもったのです。
利休居士の高弟の中に、キリシタンがおり、利休七哲といわれる古田織部、高山右近、蒲生氏郷らは、すべて敬虔なキリスト教信者でありました。
このような宗教と茶とのかかわりは、今日に至り、「茶はあらゆる宗教の実践の場である」とする、裏千家十五代家元鵬雲斎宗室宗匠の提唱へと集約されていくのです。

 作家三浦綾子著、「泉への招待」の二二?二四頁にもそのことを裏付ける大変興味深いことが記されています。
 狭き門より入れ
(マタイによる福音第七章一三節)
 私の小説『千利休とその妻たち』には、おりきという女性が出てくる。まことに臈(ろう)たけた美しい女性で、千利休が何十年も恋いつづけ、遂にその後妻としたと言われている女性である。
 このおりきは、単に容貌が美しいだけではなく、衆に優れた才女で茶道にも長じていた。宗恩と号していた。
 昔、帛紗(ふくさ)は風呂敷のような大きなものだったそうだが、それを今の帛紗の寸法にしたのは、この宗恩であったとも伝えられている。私は小説の中で、宗恩にしばしば利休への助言をさせている。その一つに、次のような場面がある。これは、キリシタンの聖堂に行って、説教を聞いてきたおりきが、その話を利休に聞かせるくだりである。
 「天国(はらいそ)に人が入るためには、狭い門より入らねばならぬと伺いました。狭い門から入るためには、すべての持物を捨てねばなりません。身分という持物も、財産という持物も、傲慢という持物も、美形や学問という持物など、持っては入れぬ狭い門をくぐらねば、天国に入れぬと承りました。それらの荷は、天国では何の役にも立ちませぬ。いいえ、そればかりか、かえって邪魔になる荷物だそうでござります」 この言葉を開いた利休は、ふっと何一つ持たぬ人間が頭を低くして門をくぐる様を胸に描く。日々茶道に精進する利休は、妻の言葉を茶道に結びつけて考えた。折から利休は、妙喜庵に作る茶室のことで、あれこれ心を砕いていた。利休は早速おりきに襖をあけさせ、頭を下げて、にじり進むように命ずる。そして利休は、遂に人間が入るに可能な入口の見当をつけ、現代の茶室にあるにじり口を創案した。
 このようにして、私はにじり口誕生を小説に書いたのだが、私にこれを書かしめたものは、実に千宗室氏の言葉であった。 ? ? ? ? ? ? ? 千宗室氏は、利休が切腹させられたのは、キリシタンであったためであり、茶室のにじり口も「狭き門より入れ」という聖書の言葉の具体化であったと、話して下さったのである。



阿武山ニュースNo.106 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
2001年 12月号
戦場に響き渡ったメリークリスマス
                  池田 豊

 第一次世界大戦が始まった直後のことでした。イギリス軍もドイツ軍も互いに攻めあぐね、一進一退の硬直状況にありました。岩だらけのフランスの平野を戦場とし、両軍とも何キロも続く溝を掘っていました。兵士たちがこの溝に身を隠し、敵に向かって機関銃を乱射するためでした。泥まみれになった兵士たちは、寒さに震えながらも、祖国に残した家族たちとの懐かしい、暖かい思い出にふけるのでした。
 時は、クリスマスのイヴ。夜もとっぷりと更け、降り続いたみぞれも小やみになったものの、気温はぐんぐんと下がっていき、底冷えのする夜でした。少しでも生き物の動く気配が敵側で感じられると、即座に銃弾が飛んでくる、そんな緊迫感に、身も心もガチガチに凍り付くような夜でした。
 と、第五スコットランド銃撃隊のイギリス兵士の耳に何やらかすかな歌声が聞こえてきました。見張りに付いていた彼らは、一瞬、何事かと身構えました。その歌声は、ドイツ軍、敵軍の方角から流れてきます。誰かが塹壕(ざんごう)の中で歌っているようです。
「シュティーレナーハート、ハイリーゲナーハート・・・」
 イギリス兵もこのメロディーを知っていました。英語では、「サーイレントナーイト、ホーリーナーイト・・・」です。そうです。「きよしこの夜」のあのメロディーです。イギリス兵も子供の頃歌ったことを懐かしく思い出し、そっとこのメロディーを口ずさみ始めました。そして気が付くと、なんと、いつのまにか英語で、しかも、大きな声で「きよしこの夜」を兵士たちは歌っていたのです。有刺鉄線を間にし、敵兵同士の何とも奇妙な二重唱でした。 一人、また一人と他の兵士も見張り小屋に潜り込んできました。そして、一緒に歌い始めたのです。それは、イギリス軍だけではなくドイツ軍の側でも次々とクリスマスキャロルの歌声に惹かれ、兵士たちが集まってきたのです。砲撃戦の傷跡生々しいフランスの平原に、男たちの歌う声が響きました。「きよしこの夜」が何度か歌われました。そして、ドイツ兵たちが「もみの木、もみの木」とオー・タンネンバウムを歌い始めました。そうしましたら、今度は、イギリス兵がお返しに「互いに喜び、過ごせこの日」ゴッド・レスト・ユー・メリー・ジェントルメンを歌ったのです。このような不思議な戦場でのクリスマスキャロルの歌声交換が、敵軍どうし交互に、何曲も何曲も続きました。

 クリスマスの朝が来ました。誰が言うともなく、両軍の兵士たちは、それぞれの塹壕に、英語とドイツ語で「メリー・クリスマス」の看板を高々と掲げたのです。兵士は、一人、また、一人と武器を置いて、有刺鉄線の下をくぐり塹壕と塹壕の間にある中間地帯に出てきました。最初は、パラパラとごく僅かな兵士の数でしたが、見る見るうちにその数が増え、大勢のイギリス兵とドイツ兵、敵兵どうしがクリスマスのまばゆいばかりの光の中で顔を合わせたのです。
 しかし、クリスマスの休戦もここまででした。事態を憂慮した両軍の高官たちは、ただちに兵士たちを塹壕に呼び戻したのです。再び、号令の声と共に発砲が再開されました。数時間後、イギリス軍は、二度とこのような不祥事があってはならないと兵士たちに厳重な注意を下しました。「我々は、戦うために戦場にいるのだ!。クリスマスを祝いに来ているんじゃない!」
 兵士たちは、上官の命令に従わざるを得ませんでした。この戦争で、ドイツ軍側もイギリス軍側も当時の若者たちのほとんどを壊滅状態のような形で失ったことを歴史が記録しています。
 しかし、わずかながら生き延びた青年たちの胸には、第一次世界大戦の初頭、戦場で歌い交わしたあのクリスマスキャロルの思い出が、熱く刻みつけられていたのです。クリスマス・イヴの夜とクリスマスの朝の特別な、この世の体験とは思えない記憶が彼らの脳裏に強く残されたのです。
 すなわち、この僅かな数時間の間、彼らは、イギリス国王でも、ドイツ皇帝でもない、別の君主に仕えていたのです。このお方こそ、平和の君と呼ばれるイエス・キリスト。主の主、諸王の王、恵みと愛に満ちた世の光と唱えられるお方でした。



阿武山ニュースNo.107 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
2002年 1&2月号
希 望
                  池田 豊

? 父親は、鼻炎に苦しむ大酒のみでした。お酒を飲むと暴力をふるいます。母親は、肺結核を患っています。貧しい二人には、もう四人も子供がいます。一人目の子供は、視覚障碍者で目が見えません。二人目の子供は聾唖者でした。三人目の子供も聾唖で耳が聞こえません。四人目の子供は肺結核です。ところがなんとこの女性は、さらにもう一人子供を妊娠してしまいました。こんなひどい状況でもう一人ですって?あなただったら彼女に堕胎を考えるよう勧めますか?
 もしあなたが堕胎することをこの貧しい夫婦に勧めるとしたら、あの偉大な音楽家、ベートーベンを殺すことを勧めたことになるのです。

 ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770-1827)は、誕生の時から苦難を背負っていました。外見も粗野で、恐ろしく荒っぽく、ぎこちない人物だったようです。
 ベートーベンは、一生独身で通しました。しかし、好んでそうだったというのではありませんでした。何人もの違った女性にプロポーズしたのでした。しかし、誰もが、彼の音楽的才能を称えはしましたが、プロポーズされた女性たちは、彼の風変わりな性格の故に、結婚生活に対して女性たちが抱いていた夢はガラガラらがらと音を立ててきっと崩れるに違いないと危機感を抱いたようです。
 そのような精神的苦しみに追い打ちをかけるかのように彼の人生を決定的に不幸のどん底へと落とすような試練が与えられました。その悲劇は、音楽家にとってもっとも大切だと言って良い、音を聞く、聴力が失われてきたのです。難聴の悪化でした。この苦痛と屈辱にベートーベンは、ある時耐えきれず、あわや自殺しようとしかけたほどです。一八○二年、弟宛への手紙の中に彼は、その苦しい心情を吐露しています。
 「他の人に向かって、『おい、大声でしゃべってくれ!叫んでくれ!何を言っているか聞こえないじゃないか』などと言えるわけがない。・・・それがどれほど屈辱的なことか。」

 ベートーベンは、しかし、このような苦しみの中でも希望を失っていないのです。有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」の中で、聴覚を失った彼がなお、心の奥底にある願いを持っていることをこのように記しています。
 「全能の主よ。あなたは、私の胸の奥にある、私の魂をのぞかれ、私の心を見抜いておられます。私の心の内に、人類への愛と、善をなしたいという要求とが満たされているのを主よ、あなたはご存じです。」
 実際、ベートーベンは、他人を思いやり、無骨ながらも、他人の苦しみに同情を寄せました。バッハの娘がただひとりぼっちの老女となっていることを知ったベートーベンは、すぐさま、彼女のためにと、新作を出版することを申し出ています。
 ベートーベンの日記や手紙、筆談用の会話帳には創造主への熱烈な信仰に言及する文章が豊富に書き記されています。彼の創造主への確固たる確信は次のような表現にも見いだすことができます。
 「世界を形成している原子の配列は、偶然によるものでは決してない。宇宙の構成に秩序や美が反映されているのであるから、そこには創造主がおられるのだ。」
 日記のいたるところにも、「主よ。どのような方法でもよいです。あなたに私の心を向かわせてください。」というような彼の熱心な祈りの言葉が書き記されています。
 一八一○年に記した手紙の中で彼は、子供のような信仰心を次のように書き記しています。
 「僕には、友がいない。ひとりぼっちで生きていかなければならない。だが解っている。創造主は、誰よりも僕の近くにおられるのだ。・・・どんな時でも、このお方が僕と共におられることがわかる。そして僕は、主がどのようなお方かということも知っている。」
 友人でもあったルドルフ大公宛ての手紙にはこう書いています。
 「他の誰にもまして創造主にお近づきすること。そして、主のみそばから、人々の間で創造主のご栄光を宣べ伝えること。これ以上に大切なことは他にありません。」

 苦難に満ちたベートーベンの生涯に真の希望を与えたのは、聖書でした。彼は、フランス語とラテン語の聖書をよく読みました。晩年には、年若い甥と朝、夕ごとにお祈りの時を持っていたそうです。彼の蔵書には、書き込みだらけになった、ルター派の牧師、クリスチャン・シュトアムの著作、「自然における創造主の御業の現れ」があります。
 ベートーベンは、試練にうち勝ち、芸術活動を創造主より与えられた聖なる使命、義務と捉えていました。そこに彼の夢、希望があったのです。



阿武山ニュースNo.108 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
2002年 3月号
明日があるだろうけど今日もある
                  池田 豊

 本部がアメリカにある『ものみの塔』という宗教団体は、「世の終わり、ハルマゲドンの戦争」に関する年代設定の偽預言で世界中の人々を騙し信者を獲得して来ました。又、輸血拒否という聖書が教えてもいない教えを広め、エホバの証人となった方々やご家族の尊い人命を奪っているカルト団体です。米人の一人として、このことを憂えた、ウィリアム・ウッド宣教師は、このものみの塔組織から、エホバの証人とそのご家族を救出する活動を専門的に行っておられます。ウッド先生が発行しておられる最近の機関誌にとても興味深いことが記されておりましたのでご紹介します。
 女性に年齢を尋ねることは失礼なこととされていますが、北極地方に住むエスキモーの方々は、男性であっても絶対に自分の年齢を明かさないそうです。
 「何才ですか」と聞かれても、「知らないし、関心もない」とそっけない返事が返ってくるだけです。それでもなお、しつこく食い下がり、答えを迫ると、時計に一瞬、目をやり、「そうだね?。もうすぐ、一日だよ。」と返事をするのだそうです。
 エスキモーの人々の多くは、夜、眠りに落ちる時に、自分が、現世に対して死ぬのだと信じているそうです。また、朝、目を覚ます時には、自分が甦って、そこから新しい人生が始まったと考えるのです。ですから、年齢を聞かれると、「もうすぐ一日だよ。」と答える訳です。
 北極地方での生活は、厳しさを極めるものですから、一日、生存するだけでも、奇跡に等しいことです。一日、一日を生きるエスキモーの人々に、明日への心配はありません。また、過去のことをくよくよすることも、あまりないのだそうです。
聖書にも主イエスキリストの言葉で、一日一日を大切にすることが教えられています。
 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」 
マタイによる福音書六章三四節
 ここで、主イエス・キリストは、明日のことを創造主に委ねて、その日、その日を精一杯に生きる生き方を教えておられるのです。明日は創造主の御手の中にあり、私たちは明日、起こるかも知れないことを心配してみても直接の解決にはつながらないと言うのです。明日の問題を今日に持ち込んではなりません。私たちは今与えられている今日という日を生きるべきなのです。明日の問題を今日に持ち込もうとする時、実際には創造主に属するものを先取りし、盗もうとしていることに等しいのです。自分には今、手に入らないものを持ちたいと欲張る時に、創造主が既に与えてくださった、今日、あるものでさえも、失ってしまうことがあるのです。
 「明日がある、明日がある」といって今日しなければならないことをいいかげんにしてしまう怠慢もこれまた悩みをまし加えることになるかもしれませんが、明日のこと、自分の能力の限界を超えていることを取り越し苦労するのは、無意味なことです。
 ある精神科医の調査によりますと、人が思い煩うことの四十パーセントは絶対に起こり得ないことだそうです。そして、三十パーセントはどうすることもできない過去の出来事についての思い煩いであり、十二パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)だそうです。十パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのですが・・・)、八パーセントは、実際に直面する可能性のある問題なのだそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。
 また、悩みの種類についてのこんな報告もあります。
 レディース・ホーム・ジャーナル誌の調査によりますと、悩みの七十パーセントまでは金銭に関係するものだそうです。ギャラップ世論調査によりますと、たいていの人は、収入を十パーセント上げることができたら、経済的悩みは、消えて無くなると感じているそうです。サラリーマンの医療負担が引き上げられたり、消費税がこれ以上引き上げられたらもう大変、と大騒ぎする人が多いのも肯けます。
 しかしながら、このような経済コンサルタントのアドバイスがあることも知っていて損はありません。それは、ニューヨークのワナメーカー百貨店のお客様の経済的悩みの相談をはじめ、デパート全体の経済顧問もしておられたエルシー・ステープルトン夫人のアドバイスです。彼女は、低所得者の方々の悩みの相談から、一年の収入が三千六百万円もある方の悩みに対してまで広くアドバイスしてきた経験からこう言っておられます。
 「収入の増加が多くの人々にとって、経済的な悩みの解決には直接つながることはありません。事実、私は、収入の増加が、ただ浪費の増加を招くだけで、頭痛増加をもたらすだけだという現実をたくさん見てきました。大抵の場合、人々の悩みの原因は、金銭の不足などではありません。そうではなくて、今持っているお金の使い方を知らないこと、これが原因です。」
 明日のことを思い煩わないで、今日一日を充実して生きる。そして、今与えられているものに感謝して、賢く用いる。このようなあたりまえといえばあたりまえかもしれませんが、地味で、堅実な歩みが創造主の私たちに対する御心だといってよいのではないでしょうか。創造主の知恵に従って歩む時、私たちの人生は、精神的にも、肉体的にも、また経済的にも祝福されるのではないでしょうか。

 聖書の言葉 
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
ヘブル人への手紙十三章五節



阿武山ニュースNo.109 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
2002年 4月号
捨てられてしまう廃棄物でも、見方を変えれば
                  池田 豊

 洗濯は洗剤を使ってするのが常識です。でも、最近は、洗剤をつかわないでお洗濯する洗濯機が発明され、電気屋さんに並んでいます。公害対策としても、経済性を考えてもすぐれたものです。
 ところで洗剤が発明されるまでは、人間は、お洗濯、いったいどうしていたのでしょうか。
 古代ローマ時代には、人々は、洗剤の代わりになんと人間の尿、つまりオシッコを使っていた・・・といったらあなたは信じられますか?

 当時ローマでは、もうすでにクリーニング店の原型ともいえる洗濯屋さんが店を構えていました。人びとはそうしたお店に洗濯をお願いしていたのです。お店では、人の尿を集めて洗剤代わりに利用していたようです。だって紀元一世紀ごろには、店が集めた尿に対して、ベスパシアヌス帝という王様が、課税していた記録さえ残っているんですから。尿税なんてへんてこりんですね。

 人間の尿には、水・尿素・ナトリウム・カリウム・塩素イオン・アンモモアなどが含まれています。この尿を発酵させると、バクテリアの働きによって塩基性の洗剤と同じように、界面活性剤が生成されるのだそうです。この成分が洗濯物の汚れをバッチリ落とすというわけ。とくに脂の染み込んだ服には効果バッグンで、その洗浄効果は天然の炭酸ソーダと同じであったといいます。

 じつは古代ローマで、尿が洗剤として使用されていたことは、かなり以前からわかっていました。それは、紀元七九年八月、ベスビオス火山の噴火によって、一瞬のうちに灰に埋まったポンペイの遺跡から、そうした痕跡が発見されているからです。
 ポンペイは上下水道が整備された近代的な都市で、共同洗濯場も完備されていました。その共同洗濯場では各ブロックごとに水だめをつくり、そこから水を引いていたのですが、水だめの端に残っていたカスを分析したところ、なんと人間のオシッコがちゃ?んと検出されたのです。

 人類の歴史を見ると、こうした尿を使った洗濯法は、その後もずっと受け継がれてきた事実があります。尿は、イギリスでは、一九世紀まで、毛織物の洗濯に使われていたそうです。現代の感覚からすればちょっと汚い気もしますが、洗剤が発明されていない時代ですから、まあ、その当時の、立派な生活の知恵だったのでしょう。
 ただし、洗濯に尿を使うことに抵抗がなかった古代ローマ人も、さすがに自分の体を洗うのには抵抗があったようです。ローマ人のみなさんが体を洗うのに使ったのは、オシッコではなくて、灰汁や天然ソーダ、アルカリ塩などだったのですから。

 人間が、いらないものとして、捨てる廃棄物でも、見方を変えれば、役に立つものとなりうるものですね。

 私たちがまだ、藤沢におりました頃、鎌倉にお住まいだった原口育子さんという方がおられました。ガンでお亡くなりになったのですが、天に召される数ヶ月ほど前に、一人のクリスチャンの婦人をとおしてイエス様を救い主として信じ受け入れられました。私は、病床で育子さんに洗礼を授けさせていただきましたが、育子さんが天に召された後に、育子さんのご主人にお会し、お話をさせていただいた時のことです。
 その時、初めて私は、育子さんのご主人が、芸術家であられ、公園や広場などを飾るオブジェを作成しておられる方であることを知りました。原口さんの作品の一つについてご説明いただいた時に、私は驚くべき事を発見しました。なんと原口さんは、廃車になったポンコツ自動車を材料にオブジェを作っておられたのです。自動車としては用をなさない金属のゴミでしかないものなのですが、芸術家の原口さんの手に渡ると、何千万円もの価値をもつ芸術作品となり、公園を彩るのです。

 天地宇宙を造られた創造主も、私たちをそのような芸術家の目でご覧になっておられます。

 自分が役に立たない、人間失格と思ったことがある私に対しても創造主は、愛を示してくださいました。十五歳の時、友人に裏切られたと感じ、絶望し、日記に次のような詩を書いて、自殺を考えていたことのある私でした。

花は散るために咲いている。
約束は破るためにある。
人は死ぬために生きている。

 聖書は、人々から捨てられ、見下されている者たちをこそ、創造主が愛してくださり、美しい芸術作品にしあげてくださることを教えています。

 聖書の言葉 
 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
第一コリント一章二六?二九節

 主(イエス・キリスト)のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
第一ペテロ二章四節



阿武山ニュースNo. 110 ?真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年5月号
日本の名曲とクリスチャン音楽家
                  池田 豊

 私たち日本人が懐かしい郷愁とともに思わず口ずさむ曲があります。「赤とんぼ」、「故郷」、「朧月夜」、「花」などです。以前、阿武山ニュースで山田耕筰や三木露風についてご紹介したことがありましたが、今回は、岡野禎一、滝廉太郎そして、「おお牧場は緑」の作詞者、中田羽後をとりあげてみたいと思います。

夏目漱石と岡野禎一
 高野辰之が作詞をし、岡野禎一が作曲をした唱歌は、いづれも人々に愛され、口ずさまれている曲です。「朧月夜」、「春が来た」、「春の小川」、「故郷」、「紅葉」などは、日本人であれば、おそらく誰もが幼い頃の懐かしい思いでにひたることのできる名曲でしょう。
 岡野禎一は、滝廉太郎や山田耕筰ほど名前が知れ渡ってはいませんが、日本人で岡野の作曲した唱歌を知らない人は、ほとんどおられないでしょう。滝廉太郎、山田耕筰と同じく岡野禎一も日本を代表するクリスチャンの作曲家でした。岡野禎一は東京音楽学校の助手を務めるようになった頃から四十年という長い期間、毎週、日曜日には、東京の本郷中央教会の礼拝に通い、オルガニストをつとめました。聖歌隊を指導したのも岡野禎一でした。数々の唱歌を作曲し、世に送り出します。しかし、それらの曲を自分の通う教会のオルガニスト、岡野禎一が作曲した唱歌だと気づく信徒はほとんどいなかったそうです。まれにそのことを尋ねられても、無言で苦笑するばかりだったと言います。ここにも控えめな、創造主に栄光を帰するクリスチャンとしての岡野禎一の姿があらわされているように思います。
 又、岡野禎一の隠れたエピソードとしては、次のようなものがあります。それは、何とあの千円札で有名な夏目漱石との接点です。漱石の小説に「三四郎」というのがありますが、作家の坂田寛夫が記した短編「朧月夜」(「群像」一九八九年十月号)によると、どうも漱石は、岡野の演奏するオルガンを本郷中央教会で聞いているようなのです。こう記されています。
 「三四郎」も終わり近く、教会の外で美禰子を待つ三四郎が讃美歌の合唱を聴く。場面からすると本郷中央教会のはずで、であれば、合唱の指導もオルガンの演奏も岡野のはずだった。」
 つまり、坂田氏によれば、「なによりも漱石自身が岡野のオルガンを聞いていたからこそこのくだりがかけたのだろう」ということなのです。

滝廉太郎
 日本を代表する作曲家とも称される滝廉太郎は、「荒城の月」の他に「花」、「お正月」、「箱根八里」などを作曲しました。この滝廉太郎も岡野禎一や山田耕筰と並ぶクリスチャン音楽家です。山田耕筰は、一九○○年、田村という名の牧師からバプテスマを授けられています。一方、滝廉太郎も、山田耕筰と時を同じくして、一九○○(明治三三)年十一月七日に麹町上二番町の聖愛教会でバプテスマを受けています。廉太郎は、東京、千代田区四番町にあります、番町教会の青年部、副部長であり、教会オルガニストでした。滝廉太郎は、バプテスマを受けた、二一歳のちょうどそのころに作曲していた曲が、「荒城の月」であったと伝えられています。

「おお牧場は緑」と中田羽後(うごう)
 NHKの「みんなの歌」という番組があります。この「みんなの歌」の第一回目の放送で紹介されたのが「おお牧場は緑」でした。発表以来大反響でした。「みんなの歌」で放送された曲の楽譜を求めて視聴者がNHKにたくさん手紙を寄せました。その中で最もリクエストが多かったのが、「おお牧場は緑」でした。
 私がまだ学生だった、一九七二年のことです。日本教会音楽講習会の第一回目が東京の明治学院大学で開かれました。私も当時、通っていた枚方バプテスト教会から派遣して頂き、参加いたしました。その時のメイン講師のお一人が「おお牧場は緑」の作詞者、中田羽後先生でした。先生はご高齢で、心臓の病を患っておられました。ニトログリセリンを肌身離さず持っているとおっしゃり、発作が起こった時に服用するのだということを話しておられました。そして、私たちに「おお牧場は緑」の背後にあることを話してくださったのです。
 中田羽後先生は、私たちにこう言われました。
「君たち、このおお牧場は緑という歌はね。クリスチャンの歌なんだよ。僕が作詞したんだから本当だよ。」
「雪がとけて、川となって、山をくだり、谷をはしる。野をよこぎり、畑をうるおし、呼びかけるよ私に・・・という歌詞の意味はね。冷たい、自己中心的な、罪人の心が、神さまの愛にとかされて、川となり、山を下り、谷をはしる。そして野をよこぎり、畑をうるおしていくように周囲の人々に神の愛と恵みをもたらしていく。」
「そして、呼びかけるよ私に・・・というのは宣教の歌なんだ。あなたもイエスキリストの愛を知ってください。あなたも創造主の恵みを信じ受け入れませんかと呼びかけているんだ。」 
 
 いかがでしょう。あなたも天と地をつくられ、私たちのいのちをお始め下さった創造主の御言葉に耳を傾けてご覧になりませんか。ぜひ一度、教会においでになって見て下さい。お待ち申し上げております。



阿武山ニュースNo. 111 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年6月号
父親の出番
                  池田 豊

 昔は、一家族に子供が十人もいることがよくありました。経済的にも貧しく、病気の脅威も厳しかったそのような環境では、十人のうち半分育てばいいほうだというような感じさえありました。ですから、親たちは、好むと好まざるとを問わず、物理的に放任的な子育てをせざるを得ませんでした。とはいっても兄弟が多かったわけですから年長の兄や姉がちゃんと親の代わりを務めたりしましたので、完全な意味での放任とはなりませんでした。むしろ、力ある兄や姉の権力に屈服させられ苦汁を飲むことも年下の子供たちはよく経験するところでした。
 それに引き替え、現代の子供たちは、親にとても大切にされています。多くの場合、母親が世話を焼きすぎるため、自ずと自立心が欠如した子供たちが育っていくのです。そして、母親が、普段、家にいない父親を尊敬せず、批判的なことばかり愚痴り、父親を見下したような発言ばかりを子供にインプットしますと、子供は、権威に対してナメた、不遜な姿勢を自然と身につけます。

 精神分析学や心理学では、このような心理をマザー・コンプレックスと呼びます。マザー・コンプレックスを持つ子供が、だんだん大きくなってきますと、今度は、母親に対しても攻撃的な姿勢を示してきます。
 「おい、頼みもしないのにどうしてオレを産んだんだよぉ!」「どんなつもりでいるんだ、このクソババア!」
 などと言って、親に対して暴力を振るうようになります。家庭内暴力です。これは、自己中心的な、自立できない、甘えん坊の姿です。劣等感や不安、大人になると母親から十分かわいがってもらえなくなることへの不満、そして、一人で世の荒波に飛び出していく勇気がないため、空威張りしているだけにすぎない、幼稚な精神状態だといってよいでしょう。母親への依存度がたかい子供ほど危険だと指摘されています。多くの場合、そのような子供たちに問題は、最初、思春期食欲不振症の形で現れます。そして、登校拒否となり、家庭内暴力、学校内暴力とエスカレートしていきます。

徳川家康、幼少の頃の話

 徳川家康の小さい頃の話です。竹千代(家康の幼名)は、今川義元の人質となり今川家にあずけられたことは良く知られています。竹千代が今川義元の所へ連れてこられました時、義元は、家来たちに、「むごい教育をするように!」と命じました。
 それから数日経って、義元は家来たちを呼んで、「むごい教育をしているか?]と問いました。家来は自信満々、「殿、ご心配なく。竹千代様にはむごい教育を致しております。朝、目をさまされ、起きられましてから即、厳しい稽古で鍛え上げ、万全の教育をしております。」と答えました。それを聞いた義元は、「違う!今日から、竹千代に対して、食事ごとに山海の珍味を与えよ。そして周囲に見目麗しき美女どもをはべらせよ!」と命じました。驚いた家来たちは、「殿、お言葉ではありますが、それでは、むごい教育どころか、優しく甘やかす教育ではござりませぬか。」と尋ねました。
 それに対し、義元はこう答えたそうです。
「むごい教育とは、竹千代を骨抜きにし、将来、武士として使い者にならぬようにしてやることじゃ。」
 家来たちが考えた「むごい教育」とは、家康が、将来、武将として鍛え上げられるために辛い厳しい教育ではあっても、義元が考えた「むごい教育」とは正反対のものでした。義元は家康を幼い時から骨抜きにして、武士として役立たずになるようしむけることこそ、「むごい教育」と考えたわけです。

 案外、私たちも子供かわいさのあまり、いつのまにか世話を焼きすぎ、子供を骨抜きにしてしまい、人間として自立できない者にしてしまう「むごい教育」を施しているのではないでしょうか。日本の親は、子供が本来責任をとらなければならないことであってもしゃしゃり出て、代わりに責任を負いたがります。これを親の情だとか美徳だとか考える傾向があります。しかし、そのことが子供の成長や自立を阻害してしまうことがあるのです。教育とは、子供を自立させることではないでしょうか。身体的に、経済的に、そして精神的にも自立、独立させた時、親の子供に対する教育の責任は一応終了します。精神的に独立するとは、自分で自分の責任を果たすということです。

父親が叱らなければならない時

 母親は、どちらかというと優しく、包容力があり、子供がどれほどいたずらをしても、失敗をしてもそのまま受け止め、抱きしめ、許容してくれる存在なのではないでしょうか。それに対し、父親は、母親ほどことごとく細々と注意をしなくとも、大切なところで、カミナリを落とすことができなければ父親らしくありません。小言や苦情、愚痴をネチネチと執念深く語るのは父親としては失格です。しかし、叱らなければならない時には、全身全霊、命がけで徹底して叱ることが必要です。それは、腕力や暴力をふるうということでは決してありません。そうではなく、子供が間違って正しいと思いこんでいる事柄の真実の姿を子供にも十分解るように伝え、その間違った結論の結果生じた問題の責任を自分でとるよう気づかせてやることです。さあ、お父さんあなたの出番です。



阿武山ニュースNo. 112 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年7月号
活けるいのちの水
                  池田 豊

 一九世紀にアンジェロ・マリアーニという人が、薬用酒「ビン・マリアーニ」を発明し、ヨーロッパで大ブームになりました。これはワインにコカの成分を溶かし込んだもので、エジソンやローマ法王までもが愛飲したという伝説の飲料です。
 そこで、ペンバートンという人がこれを真似たものの制作にとりかかりました。その結果生まれたのが、コカ・コーラの祖「フレンチ・ワイン・アンド・コカ」でした。一週間で千本近くも売れる大ヒット商品になったのです。ところが、ここに、大打撃を与える困った事態が生じました。一九世紀終盤に起こった禁酒運動です。禁酒令を出す州が現れはじめると、このフレンチ・ワイン・アンド・コカも当然攻撃の対象になります。コカインが容認されていて、アルコールが禁止だったという、なんとも奇妙な時代です。そこで、ペンバートンは、また新たな薬用飲料の開発をいたします。
 持病のリューマチの悪化とも戦い、痛みを緩和するためだったとはいえ、モルヒネ中毒になりながらも、自宅の裏庭で「禁酒用飲料」の研究を続けたのです。そして、一八八六年、なんと、彼は、水と炭酸水を間違えるという偶然の失敗が、もとで、あの非常に美味しい禁酒用飲料、後にコカ・コーラと言われる飲み物を完成させるのです。後に彼は、コカ・コーラの権利を企業家キャンドラーに売却いたします。
 コカ・コーラは、このキャンドラーの手腕もあって一躍有名になります。この頃から人々の間でコークに対する認識が、薬から嗜好飲料へと変化していきました。女性の消費者も現れはじめました。こうなれば、もう薬局で売る必然性もなくなります。そこでキャンドラーは、コカ・コーラの瓶詰め販売に着手します。そうです。この時に生まれたのが、現在でも使用されている六オンス(190ml)瓶です。あの独特のデザインは、当時すでにいろいろ出まわっていた模造品対策としても、非常に有効でした。(瓶の型を意匠登録したため)
 しかし、コカ・コーラがアメリカ全土に広がるにつれ、簡単にコカインの含まれた飲み物が入手できるということに不安を抱く人も急増しました。そこでキャンドラーは、驚くほど敏速にコークのアイデンティティーであったコカインを除去したのです。これによってコカ・コーラは、健全で美味しいアメリカの国民飲料としての資格を得、黄金時代を築いていくのです。しかしコカ・コーラが、世界に進出すればするほど、コカ・コーラに対して否定的な噂も多くたちました。一例をあげましょう。

コカ・コーラを飲むと白髪になる(イタリア)
コカ・コーラの工場は実は原爆工場だ(オーストリア)
コカ・コーラは豚の血と肉でできている(エジプト)
コカ・コーラを飲むと歯が抜ける(フィリピン)

 しかし、なんと、コカ・コーラ社は、これを絶妙なやり方で切り抜けました。彼らはほとんど何もしなかったのです。弁解、弁明に躍起になったりせず、ただ淡々と地元の瓶詰め工場とフランチャイズ契約を結び、新しい工場を建設し続けました。センセーショナルな噂というのはそのうち静かになるものだとし、コカ・コーラで儲ける人々が多くいる限り、その国が、コカ・コーラを否定する理由なんてあるはずないさと、ロバート・ウッドラフを初めとするコカ・コーラ社の幹部の人々は考えたのです。

 コカ・コーラのビジョンとは、「のどを渇かしている六十億人の人々が世界中にいる。その六十億人のお客様がコカ・コーラを飲んでのどの渇きを癒されるのだ!」というものです。コカ・コーラ株式会社は、二一世紀には、世界中の全ての人がコカ・コーラの味を知るようになることを目標にしているそうです。
 当然のことですが、コカ・コーラの普及は、商売ですから、企業利益のためコーラは有料で販売されます。

 ところが主イエスキリストは、活けるいのちの水を無償で提供しておられるのです。そしてこの活けるいのちの水を全ての人に届けるようにと弟子たちに命じられました。
 みなさまよくご存じのように、世界中にあるほどんどの宗教は、それとは正反対のことを教えています。 先祖の祟りから逃れ、不幸から救われるためには、人間が修行をしたり、よい行いを積んだり、宗教活動に熱心になる必要がある。功徳を積まなければならない、あるいは、宗教団体にお金を捧げなければならないと教えるのです。

 「地球が百人の村だったら」という情報がインターネットで飛び交っています。最近は本にもなって出版されています。その本によると地球が百人の村だったら、キリスト教徒は三三人だそうです。イスラム教徒の方々は一九人で、仏教徒は八人です。キリスト教徒と自称している人々がみな、主イエスキリストの提供しておられるいのちの水を無代価で受け、そして、全世界の他の人々に無償で差し出しているわけではないでしょう。でも、真に主イエスキリストを救い主と信じる者たちに課せられた責任は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という原則にのっとった、このすばらしいお知らせ、つまりグッド・ニュースをできるだけ多くの人々にお伝えすることなのです。

主イエスキリストの言葉
渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。黙示録二二章一七節



阿武山ニュースNo. 113 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年8月号
二十二年間の拷問を乗り越えた詩人
                  池田 豊

 共産主義を奉じる人たちにいわせると、宗教は阿片のようなものだそうです。カストロ首相率いるキューバでも例外ではありませんでした。
 一九六○年、クリスマスから三日後のことでした。当時、二十三歳の大学生だったアルマンド・バジャダレスが逮捕されたのは・・・。

 逮捕の理由は、「信仰は反革命的である」という布告に逆らって、クリスマスの日に祈りをささげたということでした。そして不当な裁判の結果、「国家当局に反逆した」という罪状で三十年の刑をいいわたされたました。
 そんな彼を待ちうけていたのは、政治的更生を意志強固に拒否する者たちへの特別プログラムでした。連日連夜にわたる虐待・拷問のオンパレードがその内容です。
 丸裸にされて、力任せに殴打されます。天井の金網ごしには、上から尿と糞便が容赦なくぶちこまれるのです。なんとネズミまでもが、彼の肉体めがけ襲いかかるのでした。そればかりか、体中、シラミに刺されて化膿し、膿だらけ・・・。しかし、彼は耐えつづけました。バジャダレスは、獄中、主イエスキリストに対する力強い信仰と希望について歌う詩を書きつづけたのです。

 地獄のような拷問の苦しみの中、彼を励ましつづけたのは、マルタという女性(当時十四才)でした。バジャダレスの入獄とほぼ同時期に、やはり政治犯として逮捕されたエドモンド・ロペスの娘、それが、マルタでした。マルタは自分の父親の面会に来ていて、彼、アルマンドに出会ったのです。
 「マルタ。君はいつも僕といっしょにいてくれ。君は僕の生きる力だ。」
 やがて二人は愛し合うようになり、一九六九年九月十七日、マルタ十九才、アルマンド三十二才の時、二人は牢獄の面会室で結婚しました。ドレスもブーケもない、囚人と面会人たちだけが立会人の質素な結婚式でした。
 今度は、当局は、その最愛の妻マルタとの面会をタテにとって、バジャダレスに圧力をかけてきました。思想犯・政治犯のほとんどの人は、精神的ダメージを受ける、この手の巧妙な策で信仰を棄て、落ちてしまうといわれています。
 しかし、あくまでも信念を変えないバジャダレスは、とうとう銃剣で頭をかち割られます。その上、四十六日間も食事を与えてもらえなかったのです。飢餓により精神に異常をきたすようになり、神経性の病気にかかってしまいました。投獄から十五年も経ますと、彼の身も心もボロボロになっていました。そのうえ、重症の心臓疾患と喘息、さらには連続的な殴打を受けたために声帯を痛め、声もまともに出ない状態になっていました。
 しかし、この地獄のような獄中でも、彼は、あきらめませんでした。詩を書きつづけたのです。それらは看守の目を盗んで、妻マルタに届けられました。
 そして、マルタは、『カストロの囚人』『生き抜く心』という題名でバジャダレスの詠んだ詩を出版し、世に発表したのです。前者は国際ペンクラブから自由賞が授与されるほどの大反響をよびました。

 それと同時にマルタは、夫を釈放するための運動を粘り強く続けたのです。彼女の声についにフランスのミッテラン大統領をはじめアメリカ合衆国の上院議員が動きました。国際アムネステイや人権擁護連盟などの人道主義団体や西欧諸国の政府がいっせいに「バジャダレスの釈放を!」と叫びだしたのです。
 「弾圧や拷問がひどくなればなるほど、私の内面はいちだんと強靭になり、それに対する抵抗力を増していきます。」
 そのような運動が展開される中、バジャダレスの力強い手紙が、マルタのもとに届けられました。
 一九八二年十月二十二日午後三時四十分、バジャダレスは、ついに自由な身となったのです。なんと二十二年間という、気の遠くなるような獄中での拷問と弾圧に終止符が打たれたのでした。
 「マルタ。僕はかならず君のもとに行く。背後の地平線にどれほど銃剣が立ちならぼうと、それがいったいなんだというんだ…」
 不撓不屈の男、アルマンド・バジャダレスを支えたのは、主イエスキリストへの強い信仰と、妻マルタヘの愛だったのです。

聖書の言葉
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
ヨハネ第一の手紙五章四?五節



阿武山ニュースNo. 114 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年9月号
科学と聖書
近代科学の基盤を築いたのは、聖書を信じるクリスチャンたちだった。(1)

                  池田 豊

 地球の周りを太陽や星が回っているのか、地球が太陽の周りを回っているのか?
 前者を天動説、後者を地動説と呼ぶことは、皆さんよくご存じのことだろうと思います。
 以前、ローマ・カトリック教会が天動説を信じていたため、『地動説を主張した人々は、キリスト教を否定するものだとして迫害されたのだ。キリスト教は科学と対立する、迷信に満ちた妄想にすぎない。聖書など時代遅れだ!』とそう思う人がおられるかもしれません。
 ところが、よく調べてみますと事実は、その正反対なのです。
 実は、近代科学の土台をつくった人々こそが、天地万物の創造主を聖書から信じている敬虔なクリスチャンたちだったのです。そして、聖書から離れ、権力をたてに、形だけの宗教組織と化してしまった、当時のローマ・カトリック教会が、真に聖書的なクリスチャン科学者たちを迫害していたのでした。
 ほとんどの方々は、ご存じないのですが、地動説を最初に大きな問題提起として提出した、ニコラウス・コペルニクス(1473年?1543年ポーランド)は、聖書を信じるクリスチャンで、司教区行政官でもあり、聖職者でした。一五一○年頃、『コメンタリオルス』(天の運動を説明する仮説の概要)という論文をコペルニクスが自分の名前を記さずに友人の天文学者たちに送ったのが、そもそもの論争の始まりでした。コペルニクスの新しい天体暦は完成していたのですが、一五三六年シェーンベルク枢機卿からコペルニクス宛てに、「宇宙の新理論」の著述と天文表を送るよう好意的な書簡が寄せられた時も、彼がその求めに応じた様子はありませんでした。コペルニクスが公表をためらった理由は、彼自身、カトリックの参事会員であったことから、「ローマ・カトリック宗教界から非難されることへの恐れ」が強くあったからなのだろうと推測されています。
 しかし、その三年後、一五三九年にヴィッテンブルクの若い天文学者、レティクスから二年間にわたり熱心なすすめを受け、彼の理論は一五四一年ようやく出版にむけて改訂作業がはじめられたのでした。
 かくして「天球回転論」は、一五四三年三月頃ニュルンベルクより出版されました。その時、コペルニクスは病床に伏しておりました。偉業となるその本が届けられたのは、 一五四三年五月二四日でした。なんと、その日、コペルニクスはフロンボルグで七十才の地上での生涯を終え、天に凱旋して逝ったのでした。

 コペルニクスの地動説が述べられている「天球回転論」が出版されてから五十年の後、その影響を受け、生涯の進路が大きく変えられた一人の青年がおりました。彼は、牧師になるため、聖書を学んでいたのですが、彼は、「宇宙という書物」は、創造主の設計された数学的法則の公式、つまり、数字で書かれていると考えたのです。そして、人間の言葉で書かれた創造主のメッセージ、聖書を学ぶと共に、宇宙に書き記された数学的秩序を探求する学びも創造主の栄光を現す道の一つだということに目覚めたのでした。彼の言葉を引用します。
「自然という書物の中に記されていることを人間に知ってほしいと願っておられる創造主の栄光のために・・・・私は、神学者になるつもりでした。・・・しかし、今こそ、天文学においても、創造主に栄光を帰することができたのです。」この文章は、一五九五年、十月三日、恩師のメストリン教授に宛てた手紙にしるされたものです。この発見を彼は、翌一五九六年、『宇宙の神秘』という題の書物として世に発表しました。
 この青年とは、【惑星の軌道は楕円軌道である】という第一法則と【惑星の公転速度は、太陽に近いときはより速く、逆に太陽から離れるほどに、遅くなる】第二法則、そして、さらに、【各惑星が太陽の周りを一周する周期の二乗は、太陽からその惑星までの平均距離の三乗に比例する】という第三法則を発見した、ヨハネス・ケプラー(1571年?1630年、ドイツ)です。
 私たちは、自分の周りを世界が回っているように、自分中心に人生を考えがちです。しかし、実は、聖書によると、私たちの方が、私たちの命を始めてくださった、創造主を中心として生きることにより、創造主に栄光を帰すべき、被造物なのだというのです。コペルニクスも、ケプラーも、そのことを信じ、聖書の御言葉を土台に人生を生き抜いた人々なのです。たとえどんなに人々から反対され、迫害されることがあったとしても・・・。
 彼らが、宇宙科学について探究した、その基盤となった聖書の言葉をご紹介しましょう。
 天は創造主の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 詩篇十九編一節



阿武山ニュースNo. 115 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年10月号
科学と聖書
近代科学の基盤を築いたのは、聖書を信じるクリスチャンたちだった。(2)

                  池田 豊

 地球の周りを太陽や星が回っているのか、地球が太陽の周りを回っているのか?
 前者を天動説、後者を地動説と呼ぶことは、皆さんよくご存じのことだろうと思います。
 以前、ローマ・カトリック教会が天動説を信じていたため、『地動説を主張した人々は、キリスト教を否定するものだとして迫害されたのだ。キリスト教は科学と対立する、迷信に満ちた妄想にすぎない。聖書など時代遅れだ!』とそう思う人がおられるかもしれません。
 ところが、よく調べてみますと事実は、その正反対なのです。
 実は、近代科学の土台をつくった人々こそが、天地万物の創造主の存在を聖書から信じている敬虔なクリスチャンたちだったのです。そして、聖書から離れ、権力をたてに、形だけの宗教組織と化してしまった、当時のローマ・カトリック教会が、真に聖書的なクリスチャン科学者たちを迫害していたのでした。
 ほとんどの方々は、ご存じないのですが、地動説を最初に大きな問題提起として提出した、ニコラウス・コペルニクス(1473年?1543年ポーランド)は、聖書を信じるクリスチャンで、司教区行政官でもあり、聖職者でした。
 又、コペルニクスの地動説が述べられている「天球回転論」が出版されてから五十年の後、その影響を受け、生涯の進路が大きく変えられた青年、ヨハネス・ケプラー(1571年?1630年、ドイツ)も聖書を信じるクリスチャンでした。彼は、牧師になるため、聖書を学んでいたのですが、彼は、「宇宙という書物」は、創造主の設計された数学的法則の公式、つまり、数字で書かれていると考えたのです。そして、人間の言葉で書かれた創造主のメッセージ、聖書を学ぶと共に、宇宙に書き記された数学的秩序を探求する学びも創造主の栄光を現す道の一つだということに目覚めたのでした。
 宇宙の真理を探る、望遠鏡といえば、ケプラー式望遠鏡は有名です。ところで、ケプラーがクリスチャンであったように、もう一つの形式の望遠鏡を発明した人も実は、クリスチャンです。そうです。ニュートン式望遠鏡を発明した、アイザック・ニュートンです。彼は、三位一体の教義を認めない、正統的ではない信仰を持っていたとはいえ、聖書を創造主の言葉と信じる人でした。ニュートンは一六四二年の十二月二十五日、クリスマスの日にイギリスのウールスソープという小さな村の農場主の長男として誕生しました。未熟児でした。ニュートンの父親は、彼が産まれる三ヶ月前に世を去っていますから、ニュートンは自分の父親を見たことがありませんでした。
 ニュートンは、研究ノート、著作の草稿など多くの手書きの文書を残しています。一九三六年、それらは競売に出され、経済学者ケインズの尽力のおかげで、その半分近くはケンブリッジ大学の図書館に収められています。それらによりますと、ニュートンが、聖書の研究のため、科学の研究と同等、あるいはそれ以上の熱意を持って、多くの時間と労力をあてていたという事実は明らかだということです。
 ニュートンについては、以下のようなエピソードが残されています。
 ある時、ニュートンは、腕利きの機械工に命じ、太陽系の模型を作らせたことがありました。その模型が完成した頃、無神論者の友人がニュートンの所にやって来て、部屋の中に設置されている太陽系の模型に目をとめました。彼は、模型に近づくと、模型をゆっくりと動かしてみて、驚きの声を上げました。「なんて見事なんだ!いったい誰が作ったんだい?」
それに対し、ニュートンはこう答えたそうです。
「誰も作りはしないさ。偶然、今朝起きたらここにできていたんだよ。」
「冗談はよせよ。誰かが作らなきゃこんな精巧なもの偶然にできっこないだろう。」と友人は言いました。
 するとニュートンは、読んでいた本を下に置きこう言ったそうです。
「この模型は、壮大な宇宙の天体をまねた、粗末な作り物にすぎない。この単なるオモチャのようなチャチなものでさえ、設計者も制作者もなしに、突然、偶発的にできあがったと僕が言ったら、君は、そんなこと信じられないと言ったね。ところが君は、この模型のもとになった偉大な本物の太陽系が設計者も制作者である創造主もなく出現したと無神論を主張し続けているではないか。いったいなぜ、そのような矛盾した結論が導き出せるのか、僕に説明してくれたまえ。」

コペルニクスやケプラー、そしてニュートンらが、宇宙科学について探究し、創造主の栄光を表わそうとしていた、その基盤となった聖書の言葉を最後にご紹介しましょう。

 天は創造主の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 詩篇十九編一節



阿武山ニュースNo. 116 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年11月号
科学と聖書
近代科学の基盤を築いたのは、聖書を信じるクリスチャンたちだった。(3)

                  池田 豊

 近代科学の土台をつくった人々は、みな、天地万物の創造主の存在を聖書から信じている敬虔なクリスチャンたちでした。ほとんどの方々は、ご存じないのですが、地動説を最初に大きな問題提起として提出した、ニコラウス・コペルニクス (1473?1543ポーランド)は、聖書を信じるクリスチャンで、司教区行政官でもあり、聖職者でした。
 又、コペルニクスの地動説が述べられている「天球回転論」が出版されてから五十年の後、その影響を受け、生涯の進路が大きく変えられた青年、ヨハネス・ケプラー(1571?1630、ドイツ)も聖書を信じるクリスチャンでした。彼は、牧師になるため、聖書を学んでいたのですが、彼は、「宇宙という書物」は、創造主の設計された数学的法則の公式、つまり、数字で書かれていると考えたのです。
 宇宙の真理を探る、ケプラー式望遠鏡は有名です。ところで、ケプラーがクリスチャンであったように、もう一つの形式の望遠鏡を発明した科学者も実は、聖書を信じる人でした。そうです。ニュートン式望遠鏡を発明した、アイザック・ニュートンです。彼は、三位一体の教義を認めない、正統的ではない信仰を持っていたとはいえ、聖書を創造主の言葉と信じる人でした。
 ところで、中学生以上の年齢の方々で、ガリレオ・ガリレイ(1564?1642イタリア)という名を聞いたことがないという人は、日本にはそう多くおられないと思います。彼は、一六○九年にガリレオ式望遠鏡を発明し、「近代科学の父」とも呼ばれた人物で、文字どおり、近代科学を生み出す上で最大の貢献をした科学者の一人だったといって良いでしょう。彼は、一六三二年に発表した「天文対話」という書物で、その八十年前に唱えられたコペルニクスの地動説が正しいと主張したのです。そのために彼は、ローマカトリック教会の宗教裁判にかけられました。そのことから、日本人の多くは、ガリレオ・ガリレイに代表されるところの「科学」が、聖書を創造主の言葉と信じるキリスト教の信仰と相反するものだと考えてしまうようです。けれども、真実は、その正反対なのです。
 ガリレオ本人の言葉を見てみれば、彼が、聖書を信じるクリスチャンであり、科学が信仰と矛盾するなどとは、毛頭考えていなかったことを容易に証明することができます。
 ガリレオは、「天文対話」以外に、「偽金鑑識官」という著書も著していますが、その中で彼は、次のような文章を残しています。
 「哲学(当時の用語としては、現代の自然科学をあらわす)は、宇宙というこの壮大な書物の中に書き記されてある。この書物は、いつもわれわれの眼の前に開かれている。けれども、まず、その言葉を学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することができない。それらは数学の言葉で書き記されているのであって、その文字は、三角形、円、その他の幾何学的図形である。これらなしには、人間は、その一語たりとも理解することはできない。これらなしには、人は暗い迷宮の中をさまようばかりである。」
 ガリレオは、宇宙が一つの書物のような作品であって、著作者が別にいると言っているのです。そして、その著作者は、数学という言語を用いて書き記したと言うのです。宇宙にも、人間に与えられている理性に即応するところの理知的、理性的秩序が備えられている、とガリレオは考えたようです。そして「その合理性は、創造主がお持ちであるところの知恵(ロゴス)を起源としている」という聖書の主張をガリレオは何ら疑いを挟むことなく、信じ受け入れているのです。
 「天文対話」の冒頭にも、前述したガリレオの確信は、雄弁に述べられています。そればかりか、ガリレオは、自分のスポンサーであったトスカナ大公宛の手紙の中で、次のようにも書き記しているのです。
「より高いものを見上げる人は、より優れた人です。哲学(自然科学)が本来研究すべき対象である大自然という壮大な書物を調べることこそ、まさに高いものを見上げる方法なのです。この大自然という書物の中で読むことのできる全ては、全能の創造主が書き記された御言葉なのであって、・・・・造り主の偉大な御業をわかりやすく解明することには、最大の価値が存するのです。
人間の理解が及ぶすべての被造物の中でも、宇宙の構造こそは最も素晴らしいものだと私は思います。というのは全てを包むその大きさにおいて他のすべてに勝り、他の全てのものの規範として、高貴さにおいても最も優れたものであることは、疑いの余地もありません。」

コペルニクスやケプラー、そしてニュートンらが、宇宙科学について探究し、創造主の栄光を表わそうとしていた、その基盤となった聖書の言葉を最後にご紹介しましょう。
 天は創造主の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。     詩篇十九編一節



阿武山ニュースNo. 117 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2002年12月号
人生に立ちはだかる巨石
                  池田 豊

 ピラミッドの巨大な石はどうやって運ばれたか、ということがしばしばクイズに登場します。
 では、豊臣秀吉が大阪城を築城するとき、城壁に使われた巨大な石。あの石のなかには、遠く四国などからもちこまれたものもありましたが、どうやって運ばれたのでしょう?
 当然、船で運ばれたのですが、問題はその運び方です。
じつは、最初、船に巨大な石を載せるとその重みで船が転覆してしまったのでした。それをみていた一人の知恵者の老人が、こんなアドバイスをしたといいます。
「大石を船に載せてはいけない。船を大石に載せるのだ」
「船を大石に載せる」とは、一瞬なんのことかと考えてしまいますが、この老人がいわんとしたことは、船の底に大石をくくりつけるということでした。
 重い石も水中では浮力をうけて軽くなる。しかも、船全体の重心が低くなつて安定するから、転覆しにくいというわけです。さっそく、このアイデアは実行され、四国の大石は無事、大阪まで船で運ばれたといいます。
 船でモノを運ぶといえば、誰もが「船に載せる」ことしか考えつかないものですが、それは一種の固定観念というものです。

 ときには、これまでの常識をひっくり返してみるのもいいのではないでしょうか。逆立ちしてもできそうもないことが、案外、簡単にできてしまうかもしれないのです。
 つきあっていた女性にフラれたとき、「オレの人生は終わった」と思うか、「よし、もっとステキな彼女をつくるぞ」と思うかは、人によって違うのではないでしょうか。

 落語のなかに次のような話があります。
 二人の農民が、東北から江戸へとやってきました。日本橋に到着すると、そこにお茶屋がありました。なかにいるおばあさんに、「水が欲しい」と頼んだところ、「一杯、三文だ」とお金を請求されちゃいました。
これを聞いた一人は、「水でさえお金をとる。江戸はたいへんなところだ」と、すぐに故郷へ帰ってしまったそうです。
 ところがもう一人は、「ただの水がお金になるなんて、江戸は素晴らしいところだ」と感心し、おばあさんに三文払つて、江戸の町に住みついたのだそうです。そして、その後、この男は江戸で苦労しながらも働いて、やがて大商人になったという話しです。
 コップ半分の水を「もう半分しかない」と考えるか、「まだ半分もある」と考えるかということも同じです。ある出来事を自分にとつてプラスと考えるかマイナスと考えるか、それによってその後のアイデアと展開は、天と地ほどもかわってくるものです。

 これはビジネスについてもいえることです。
 ある靴のメーカーが、二人のセールスマンを発展途上の土地に派遣したという有名な話しがあります。ところがいざ現地へ行ってみると、そこで暮らす人々はみんな裸足で、靴などみたことも聞いたこともないという人ばかりだったのでした。
 このことを知った二人のセールスマンは、会社につぎのような報告を送りました。
 一人は、「ここでは、みんな裸足です。靴を履く習慣がありません。だから靴なんてまったく売れません」と報告しました。
 ところがもう一人のセールスマンは、まったく逆の報告をしたのです。
 「ここでは、みんな裸足です。だからみんなに靴を履かせることができます。ここでは大儲け間違いなしです」
 二人が靴のセールスマンとしてこの土地に派遣されたことを考えれば、どちらの考えがより商売に結びつくかはいうまでもないでしょう。
 一つのものごとをみるとき、自分の商売にプラスに結びつけて考えたほうが、売れるアイデアが浮かぶのは当然のことです。最初からダメだとマイナス思考で考えてしまったのでは、売れるものも売れないに違いありません。

 ラインホルト・ニーバー牧師が、マサチューセッツ州の小さな教会で一九三四年の夏に説教した中で語った祈りの言葉があります。私たちが、どうしようもない困難にでくわしたり、思いがけない試練にあうような時にも、この祈りを知っていれば、私たちも人生の巨石に対処できるに違いありません
?
? 主よ。
? 変えることができるものについては、
? それを変えるだけの
? ? ? ? 勇気をお与えください。
? 変えることができないものについては、
? それを受け入れることが
? ? ? ? できるような冷静さを
? ? ? ? ? ? ? お与えください。

? そして、
? 変えることのできるものと、
? 変えることのできないものとを、識別する知恵を
? ? ? 私たちにお与えください。

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