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不満な時

                                 池田 豊
不満な時 (1)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

何事も金金とわらひ
すこし経て
またも俄(にわ)かに不平つのり来

誰か我を
思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ
何の心ぞ

私たちは、いろんなことに不平不満を抱きます。上記の啄木の歌にあるように、経済的に不足を覚える時、私たちは、不平不満を言いがちです。「世の中すべて金、金だよ、きみぃ!」そのような人生観を持っておられる方もおられるようです。
又、自分をじっと見つめる時に、自分で自分がなんとも好きになれない。自分につい不満を感じる。そんな人もおられるでしょう。そんなとき、誰か、自分を叱ってくれる人はいないだろうか。啄木の歌は、自分で自分をどうしようもできないそんなもどかしさに不満とやるせなさを表現しています。誰か、叱ってくれる人はいないだろうか。それも中途半端な叱り方ではなく、思う存分しかりとばしてくれる人がほしい。このような不満は贅沢な部類の不満なのかもしれません。「あまったれるな!」そう叱ってくれる人がひょっとして出てくるかもしれません。
聖書の言葉
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 マタイ4:4


不満な時 (2)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

「石川はふびんなやつだ。」
ときにこう自分で言ひて
かなしみてみる

かなしきは
飽くなき利己の一念を
持てあましたる男にありけり

 私たちは、自分の経済的な生活が苦しいと、つい愚痴をこぼしやすい者です。そしてそれが、生活費の不足だけでなく、自分の心にもふびんな部分があることを思う時、不満を覚えます。自分で自分に語りかけ、「お前はだめな奴だなぁ。かわいそうな奴だなぁ。」と自己憐憫に浸る時さえあります。自己憐憫は、感傷的ロマンティシズムといいますか、センチメンタリズムと言いますか、ともかく、セピア色の映像に白い筋がいっぱい雨降りのようについた無声映画に登場するヒーローかヒロイン、あるいは痩せこけた子犬に自分があたかもなったかのような錯覚を持たせるものです。秋のヴィオロンのため息にも似た自分に浸らせるのです。しかし、その正反対の姿、飽くなき富の追求と、自我の露呈にもがく姿も又、かなしいものです。真の満足と救いは創造主にあると聖書は言い切っています。
聖書の言葉 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。                    ハバクク3:17-18


不満な時 (3)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ

浅草の夜のにぎわひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心

 赤ちゃんが誕生する前は、お母さん方は、男の子でも女の子でもいい、健康で五体満足に生まれてくれさえしたら、普通の子でいいと思う方が多いそうです。でもいざ赤ちゃんが生まれて乳母車に乗せ道を歩いていると、通りすがりの人に声をかけられた時、「まあ、かわいい赤ちゃんですね?」といってほしいようです。もし「この子、普通の子ですね。」といわれでもしたら何か違和感をもつ方もおられるでしょう。私たちは常に自分を他人と比較して、人よりも、平均よりも優れたものと評価されたいという願望があるようです。非凡な才能を持っているかのように振る舞いたいのです。そうでないと不満を感じるのです。浅草のように年中お祭りが行われているかのような人混みに紛れ込んでも、寂しさは癒されずごまかすことはできません。しかし、他人と自分を比較するだけでは、真の満足は見いだせないのす。聖書はこう言っています。
聖書の言葉  そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。              マタイ6:31-33


不満な時 (4)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

この四、五年
空を仰ぐといふことが一度もなかりき。
かうもなるものか?

何がなしに
さびしくなれば出てあるく男となりて
三月(みつき)にもなれり

食べるものにもこと欠くように貧しい暮らし。自分のふがいなさにこころが満たされません。そんな啄木は、ふと気がついてみたら、ここ四、五年空を仰ぎ見ることさえ忘れていることに気がつくのでした。下向きの人生です。「犬も歩けば棒に当たるというが、貧乏な人も下を向いて歩けばお金を拾うなどと勝手なことをいうのは気休めじゃないか。」そう啄木は思ったに違いありません。こころの空虚さを忘れようと外に出て放浪をしてみます。気がつけば三ヶ月も野良犬のようにウロウロしている自分。あたかも飼い主のいない迷子の羊のようです。あなたにもそのように感じた時がありましたか?聖書は、はっきりと私たちの帰るべき魂のふるさとがあることを教えています。
聖書の言葉
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。詩篇23:1
見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。詩篇33:18-19


不満な時(5)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲しくなりたり

剽軽(ひょうきん)の性(さが)なりし
友の死に顔の 青き疲れが
今も目にあり

 あれこれと、いろいろこだわりを持つ人は、不満を抱きやすいものです。啄木の歌にあるような「それもよし、これもよし」という太っ腹な人は、たとえ体重が重いわけではなくとも、心が広く、寛容な人だと言って良いでしょう。太宰治は、自分を道化に生きている者として位置づけていました。その結果、人に好かれよう、受け入れられようとするあまり、神経を使い減らし、ストレスで疲れ果てたようです。
 啄木の友人も剽軽なピエロにも似たマン・プリーザーだったようですが、いざ死んでみると死に顔の青白さが、何とも言えぬゲッソリと疲れ果てた顔に見え、忘れることができなかったようです。道化もこだわればこだわるほど、かぶった笑い顔した仮面の裏には、苦痛で歪んだ悲壮な顔に冷や汗がだらだら流れているものです。そのような仮面を脱ぎ捨て、創造主に目をとめるなら、たましいに平安と満ち足りる喜びをいただくことができるのですよと聖書は教えています。
聖書の言葉
まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。          詩篇107:9


不満な時 (6)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

とかくして家を出づれば
日光のあたたかさあり
息ふかく吸ふ

 若き日の恋い心。密かに心ときめかせた異性に振り向いてもらえなかった経験を一度や二度はしたことがある、と告白するのは、おそらく、啄木一人ではきっとないでしょう。「デンマークのオランウータン」とあだ名され、いじめられたアンデルセンは、失恋に失恋を重ねた人だったようです。「わたしの生涯は、波瀾に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一遍の美しいメルヘンである。」と自伝の冒頭に書きしるしています。
 さまざまなことがあって、家を出てみる。自分の小さな世界から外に出てみると、今まで悩みで自分を見つめてばかりいたために、あまり気づかなかった陽のあたたかさにふと感動を覚えることもあるのです。深呼吸を一つ深くしてみるだけで感謝の念が沸いてくるのではないでしょうか。創造主なるお方の愛を感じることができるように私たち人間は造られているのです。
聖書の言葉
悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。イザヤ41:17


不満な時 (7)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩むものかも

友よさは
乞食の卑しさ厭(いと)ふなかれ
飢ゑたる時は我もしかりき

 貧しい暮らしに慣れてしまった啄木は、ある日、鏡屋の前で足を止めました。鏡に映っている一人の実にみすぼらしい青年の歩く姿に愕然としたからです。不憫なやつだなぁと声をかけてやりたくもなるほど貧しい姿です。なんとそれは、自分を映している姿なわけです。
 私たちも自分の魂の本当の姿を、創造主がお映しになる鏡の前で、じっと立ち止まり見入るなら、きっと、驚きを持って一歩も前に進めないような状態になるのではないでしょうか。私たちの真の姿を創造主の聖さを基準として映し出されたら、どんな人でも皆、みすぼらしい姿で、主の前に御恵みをただ請うより他にないと主は言われるのです。

聖書の言葉
貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。詩篇9:18
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。ヤコブ1:23
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。イザヤ64:6


不満な時 (8)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

男と生まれ男と交わり
負けてをり
かるがゆゑにや秋が身に沁む

何処やらに沢山の人があらそひて
クジ引くごとし
われも引きたし

 啄木も男として生まれ、相撲を取ったり、組み合ったり、時にはケンカをしたりしたようです。体力勝負です。もちろんずるがしこさや、頭の回転も必要です。でもいかんせん、貧乏な家庭です。栄養失調からでしょうか、体重が軽いのです。出ると負け、出ると負けです。聖書にも預言者エレミヤが男に生まれたことを嘆いている箇所があります。
 私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。私の父に、「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。・・・なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。エレミヤ20:14-18
 啄木は何とか貧乏から脱出したい。一攫千金をものにしたい。手っとりばやいのは、宝くじのようなクジや賭けごとでしょうか。沢山の人があらそうようにしてクジに群がっています。でもそのようにして得たお金は、羽が生えたようにあっという間に飛んでなくなります。決して「富んで」ではありません。「飛んで」です。
聖書の言葉
? 富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。 箴言23:4-25


不満な時 (9)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

大いなる彼の身体が
憎かりき
その前にゆきて物を言ふ時

腕くみて
このごろ思ふ
大いなる敵 目の前に踊り出でよと

 啄木は、自分の腕力や身体にあまり自身がなかったようです。いろいろ不満なことがあって直接その理不尽を相手に訴えようとする時、相手の身体が大きいため気落ちしたようです。言いたくても、言えないもどかしさ。自分の情けなさに一層不満が募ります。
 スーパーマンかウルトラマンのように腕組みをしてみると、小さな子供でもなんだか自分が強くなったような錯覚をもつものです。啄木も腕組みをして、「さあ、かかってこい!」と気合いを入れてみます。「どんな敵でもやっつけてやる!、さあ、出てこい!」
 詩人は、想像力の中で、自分がヒーローとなる場をもっているだけ幸いなのかもしれません。しかし所詮、空威張りにしかすぎません。りっぱでもない自分をりっぱでもあるかのように錯覚し、虚勢をはってみたところで、現実には、むなしさだけが残るのです。
聖書の言葉
だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。ガラテヤ6:3


不満な時 (10)
石川啄木の歌のいくつかには、さまざまなことに不満を感じた、多感な青年の正直な思いが綴られています。

かの声を最一度聴かば
すっきりと
胸やはれむと今朝も思へる

死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか

 知恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽やかな、如何にも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声! 二人の話をしたのは、たった二度だ。 一度は大竹校長のうちで、予が解職願をもって行った時。一度は谷地頭のあのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で・・・そうだ、予が『あこがれ』を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。
ああ!別れてからもう二十ケ月になる!    日記より

 啄木は、慕情の女性、橘智恵子にあいたくてもあえない不満な心を昇華させ、歌を詠みました。日記にその気持ちを正直に書きしるしました。聖書は、キリストの教会を花嫁にたとえ、キリストを花婿にたとえています。そして「主よ、はやくおいで下さい。お帰り下さい」と再会を待ち望み祈るようにと勧めています。
 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 黙示録22:17


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