スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

阿武山ニュース 1999/8 - 2000/7

阿武山ニュースNo.81 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
1999年 8月号

日本の音楽、そのルーツを探る (1)
池田 豊

 キリスト教がカトリック教会となり、政治権力と結びつき、次第に形骸化していくにつれ、教会の中で讃美をささげるということが、専門化されるようになりました。つまり、讃美歌を歌うことが、カトリックの僧侶一部のみの特権とされてしまったのです。そのような中で、マルチン・ルッターは宗教改革を行ったわけですが、その基盤は、「聖書の教えに帰ろう」というムーブメントでした。ルッターはそれまでの聖書が、一般の人々が読んだらチンプンカンプンのラテン語訳だったのを、ドイツ語の平易な言葉に翻訳のし直しをしたのです。その結果、読んで、聞いて、すぐわかる聖書の御言葉にメロディーをつけて歌おうという試みがなされるようになりました。その中心となった人々がバッハであり、ヘンデルでした。プロテスタントの信仰を持った人々の特徴は、個人個人で聖書を読むことと、祈るために集まった時に、声を合わせて皆で讃美歌を歌うことでした。歌なしでは、彼らの宗教は考えられなかった、と言っても言い過ぎではないでしょう。また、その歌う歌、讃美歌がプロテスタントキリスト教の特徴でもあり、魅力でもあったのです。

 このプロテスタントの讃美歌が、日本の近代音楽の基盤を作った、といったらみなさんは、驚かれるのではないでしょうか。明治時代、日本の音楽教育が開始された時に、讃美歌の果たした役割は、現在では闇に葬られているからです。
 ところで、大昔からある日本古来の宮中雅楽の音楽も、実は、キリスト教の影響の遺産であるといったら、みなさんもっと驚かれるのではないでしょうか。おそらく聖徳太子の時代よりももっと以前から、キリスト教は日本に伝えられていたはずなのです。もちろんローマカトリックのキリスト教ではありません。古代は、アッシリアとかバビロンと言われた地域、もっと後にはペルシャとも呼ばれた地域(現代ではイラン、イラクと呼ばれる地域)から、日本では、景教(光の宗教、偉大な、めでたい、良い知らせの宗教という意味、西洋ではネストリアンともいわれる)と呼ばれているキリスト教の宣教師たちが、シルクロードを経て、中国、モンゴル、朝鮮、韓国、そして日本へも、聖書の教えを伝えるべく来訪しているのです。そのことは、阿武山ニュース七九号にも書かせていただきましたが、そのムーブメントが最も顕著に現れるのは、七世紀です。江戸時代以降の日本人の特徴として、中国を経由し、シルクロードを経て日本に輸入された文化の源は、皆、すべてインドからの文化だけであったかのごとく錯覚しておられる方々が多いものですから、まともに聞いてくださる方は少ないかもしれません。しかし、奈良の正倉院の宝物の中には、ペルシャから日本にもたらされたガラス工芸品や様々な芸術品があることはNHKなどでも、シルクロードをテーマとしたテレビ番組に取り上げられています。また、奈良時代にチーズが輸入されたこともよく知られています。これらのヨーロッパあるいは中近東の文化は、フランシスコ・ザビエルの登場を待たずとも、日本に来日していたのです。ところが、チーズやペルシャ絨毯は、早々と日本に伝えられてきているはずなのに、十字架とキリストの教えだけが、一五四九年までは伝えられなかったということになっています。これは、徳川時代と明治時代から昭和の時代にかけてのマインドコントロールの影響だったのではないかと私は思うのです。 千百年以上も続いている京都の祇園祭の山鉾巡行ですが、山や鉾の周囲を飾る「掛け物」はペルシャ絨毯です。織り込まれた絵柄の題材にはホメロスの叙事詩「イーリアス」をはじめ、古今東西のぎんぎらぎんの不思議な組み合わせです。そして、驚くなかれ、旧約聖書のルツ記からの図柄の掛け物さえあるのです。一九九八年三月十日朝日新聞社説にはキトラ古墳の大発見についての興味深い文章がつづられています。「古代、日本は開かれた『国』だった。大陸や朝鮮半島からの渡来者はひきも切らない。・・・キトラ古墳の壁画も、そうした輸入文化の産物だ。そのころ、この島国には、いろんな国の人が住んでいた。さまざまな国の言葉が話されていたことは、通訳を意味する訳語(おさ、日佐)の史料が数多くあるし、・・・日本文化のもつ国際性を示している。」

 その昔、楊貴妃で有名な中国は唐の時代、日本からも最澄とか空海・弘法大師のような人々が、留学生として中国へ行った頃のことです。当時、唐の首都、長安(現在の西安、シーアン)で大流行していたのは、なんと、実は、キリスト教(景教)だったのです。モンゴルでも、ジンギスカン、フビライカンの時代、多くのクリスチャンたちがいたことは、十字架の印のついた墓がたくさんあったことからも立証でき、疑いの余地はありません。鎌倉時代、蒙古襲来の時に、モンゴルの兵士がかぶっていたヘルメットが遺品となり、九州は博多、福岡の博物館に保存されていますが、はっきりと十字架の印がついているのです。筆者もそのヘルメットを写した写真が掲載されている本を持っています。いずれにしても、この日本古来からの雅楽の音階のルーツは、当時、景教というキリスト教を基盤としていた中近東の文明(古代イスラエル、アッシリア、ペルシャの文明)にあるのであって、決してインドなどではありません。

 東儀秀樹という音楽家がいます。彼のプロフィールをみると、秦の始皇帝の血を引く、千三百年間代々雅楽を世襲してきた東儀家に彼は生まれたそうです。宮内庁式部職楽部に所属し、一九八七年雅楽の重要無形文化財保持者に認定された方です。彼は坂本龍一に影響され、宮中雅楽から身を引き、ソロ活動を開始しました。ロックと雅楽をいり混ぜた新しい音楽ステージをクリエイトし、話題を振りまいています。一九九七年二月二日のジャパンタイムスはピープルの欄に彼を取り上げ記事を掲載しました。その中で、「彼ら、東儀家のご先祖は中国の秦氏であること。そして、秦氏とは西方から渡来した人々で、ネストリウス派のクリスチャン(景教徒)たちであったことはほぼ間違いないだろう。」と記されています。

 東京芸大作曲科を卒業したハープ演奏者、および、箜篌(くご)という正倉院の宝物にもある日本古来の楽器の演奏者としても活躍している佐々木冬彦氏に、筆者が空海と中国でのキリスト教との関連についてお話したことがありました。その時、佐々木氏はこういいました。「池田先生、先生のおっしゃっていることは本当だと思います。私は自分が演奏する箜篌という楽器のルーツを求めてトルコや中近東を旅してまわったことがあります。そしてわかったことは、この雅楽で用いられる箜篌という楽器はインドの楽器ではなく、アッシリアやイスラエル、つまり中近東の楽器だったということです。日本古来の音楽の音階のルーツは、実に古代イスラエルやアッシリアにあるんです。私の演奏する箜篌の原型はなんと旧約聖書でダビデが羊たちの前で奏でていた竪琴とほとんど同じものなんです。」と。

 音楽を愛する日本人であれば、古代のキリスト教と聖書が日本文化にもたらした影響について調べてご覧になるのも面白いのではないでしょうか。

(クリスチャンと称し、家々を訪問して廻り聖書研究を勧める人々の中には、聖書が教えてもいない「輸血拒否」にこだわり、尊い人命を奪っているカルト集団に属する人々がいますので、ご注意ください。お困りの方はご相談ください。)


阿武山ニュースNo.82 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
1999年 9月号

日本の音楽、そのルーツを探る (2)
池田 豊

? 日本古来の雅楽の源流が、インドではなくアッシリア、ペルシャ、イスラエルという中近東のしかも、シルクロードを経て東方に伝播したキリスト教(景教)にあったことを前回記しました。一方、日本の近代音楽の基盤を作ったのは何かと言いますと、これまた、インドの仏教音楽ではなく、プロテスタントキリスト教の讃美歌でした。そう申し上げたら、驚かれる方もおられるかもしれません。明治時代、日本の音楽教育が開始された時に、讃美歌の果たした役割は、現在では闇に葬られているからです。
 小学校唱歌集初編が、明治十五年に出版された時、収録された曲は全部で三十三曲でした。その内十二曲は音階練習曲で、第三十番から三十三番の四曲は日本人の作曲です。ですから小学唱歌初編に含まれる西洋歌曲は、第十三番から二十九番までの、実質十七曲のみでした。そして、その十七曲の中を見てみますと五曲は、日本に音楽教育を確立するためアメリカから招かれたメーソンという音楽教師自身の教科書からもってきた曲であることがわかっていますので、それらを除いた十二曲が重要です。実はその十二曲の内、七曲は、小学唱歌集初編の出版より以前に発行されていた日本の讃美歌集に載っている曲と一致しているのです。

 ところが日本では、そのことは隠蔽されており、伊沢修二が一八八一年(明治十四年)に書いた解説書がいまだに有力な根拠とされ、スコットランド民謡説だけがまかりとおっています。伊沢は洋学派として讃美歌を唱歌に導入する要となった人物の一人でしたが、文部省を、尊皇攘夷派、儒教派の勢力が乗っ取ったため、唱歌のルーツが讃美歌であることを表立って発表できない事態が起こったようです。本当は、小学唱歌は讃美歌だらけだったのに、讃美歌と唱歌との関係について語ることは、全くタブーとされてしまったのです。第十三番目の歌は「みわたせば」という題名です。ある日本人がアメリカに旅行したときのエピソードです。初めてアメリカに来たのだから、教会にでも行って少しアメリカ文化を覗いて見よう、そう思った彼は、おそるおそる会堂に足を踏み入れ、案内されるがまま、礼拝堂の長椅子に座りました。「礼拝のプログラムが始まって、みんなが立ち上がって、いきなり大きな声で歌を歌い出しました・・・。」その人はその曲を聞いて思わず、吹き出してしまったそうです。「もう、おかしくってね。荘厳な教会の礼拝で、大の大人がいきなり大きな声で『むすーんで、ひーらーいて』を歌い出すんですから。だってこれ、日本では子供しか歌わないでしょう。それをアメリカでは大の大人が、真面目に歌ってるんですよ。ただ、もう、おかしくってしかたありませんでしたよ。」この人は、日本の子供の遊技歌「むすんでひらいて」が、アメリカの現役の讃美歌なのだということをこの時初めて知ったと言っておられます。讃美歌と子供たちが歌う唱歌は、アメリカではもともと同じものでした。それは、アメリカ人の誰もが知っています。しかし、日本では、何か全く違ったものであるかのように取り扱われています。これは、なぜなのでしょう。童謡として有名な「チョウチョ、チョウチョ・・・」も実は讃美歌でした。

 唱歌や童謡の元歌が、讃美歌であったことを意識的に隠蔽した何らかの力が、強制的に働いたのでなければ、日本人の記憶の脳裏から近代日本の音楽の成立基盤に讃美歌があったことが、消し去られるはずがありません。小学唱歌の中で今もなお日本人に愛されて歌い継がれている「蛍の光」、「庭の千草」、「スコットランドの釣り鐘草」等、多くの曲は、実は讃美歌だったのです。明治政府が一八七二(明治五)年に学制をしき、その第二十七条で、「当分これを欠く」として取り上げなかった教科、「唱歌」をなんとか復活させようと声を上げたのが、田中不二麿でした。田中は、日本の唱歌にキリスト教の讃美歌を導入する中心となった人物の一人で、メーソンを日本に招く指令を出したのも彼です。田中は、結局のところキリスト教には改宗しませんでしたが、キリスト教に深い理解を示していたことは、一八七二(明治五)年四月十日付けの新島襄が書いた私信にある一節からも明らかです。新島はこう記しています。「彼(田中)は、キリスト教を信ずるという告白はしていませんが、心情からいえば、ほとんどクリスチャンです。」と。

 田中不二麿は、一八七八(明治十一)年三月二十三日、当時の文部省最高責任者として、東京大学、本部講義室において、夜七時より「唱歌・奏楽は教育に欠くべからざるを論ず」という演題で次のような演説をしております。。「唱歌・奏楽が教育に欠くことのできないものであるというのは、私がかねてから堅く信じて疑わないことであります。教室で子供たちが、授業に疲れ、飽きてきたおりに、一曲の清音が耳の底に、さわやかな春風のように流れますと、子供たちは知らず知らずのうちに疲労を回復し、精神を集中して、再び勉学に向かうことができるのです。このような効果は、唱歌・奏楽に求めないとすれば、いったい何に求められると言うのでしょうか。雅楽のことは、一応さておきますとして、その他の日本の音楽は、下品で、とても教室で使えるようなものではありません。しかしながら、西洋の歌をそのまま日本の学校で実施するわけにもまいりません。ですから、内外のいろんな方法をよく吟味して、新たに一種の音曲を制作して、学校の定課として実施するのがよろしいかと存じます。」

 このころ、田中不二麿が、いたずらに外国にかぶれて外国の真似ばかりをして、日本の伝統をないがしろにしているとしていると、ことあるごと執拗に、攻撃してきたのが、洋学派を深く憎んでいた元田永孚でした。しかし、元田らが幅をきかすようになる以前は、明治政府はそれほど反キリスト教的ではありませんでした。それは、以下のような発言が坂本龍馬の口からなされたことからも明らかです。竜馬はこう言いました。「日本も本当はキリストがいいのだが、そうもいかないから、やはり、天皇にするしかないか。」キリストか天皇かという選択肢が存在していた時期があったことを示す逸話です。

 日本の小学唱歌にキリスト教の讃美歌が、多く用いられた背景を理解するのに、忘れてはならないもう一人の人物がいます。目賀田種太郎という当時アメリカのボストンにいた田中不二麿の部下です。彼は、メーソンを日本に招く正式の契約をした人物です。その契約締結の後、帰国した彼は、翌年、勝海舟の三女と結婚します。この目賀田種太郎が、讃美歌を日本の小学唱歌に導入した中心人物の一人です。目賀田は、田中の命を受け、「国楽」という新しい歌曲を創出するためには、ぜひとも唱歌という教育科目が必要だと主張するのです。この「国楽」というのは、英語のNational Music の邦訳語でした。それは、目賀田種太郎によれば、「われわれすべての日本人によって、身分の高い人も、低い人も、どんな場所でも、いかなる時でも歌われる歌曲」のことでした。彼は、おそらく、身分の上下、男女、年齢の区別もなく、日本国民みんなで歌える歌を考えていたに違いないのです。簡単に言えば、「家族全員でそろって歌える歌」と言っても良いでしょう。それまで日本にはそのような歌はありませんでしたし、一家そろって歌を歌うなどと言うことは、当時、思いもよらない風景でした。アメリカでの留学生活が長かった目賀田種太郎の抱いていた国家、そして家族のイメージのモデルは、実に、アメリカのクリスチャンホームで、家族全員が讃美歌を歌っている、暖かく、そして麗しい姿にあったのです。

(クリスチャンと称し、家々を訪問して廻り聖書研究を勧める人々の中には、聖書が教えてもいない「輸血拒否」にこだわり、尊い人命を奪っているカルト集団に属する人々がいますので、ご注意ください。お困りの方はご相談ください。)


阿武山ニュースNo.83 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ 
1999年 10月号

日本の音楽、そのルーツを探る (3)
池田 豊

 明治政府が一八七二(明治五)年に学制をしき、その第二十七条で、「当分これを欠く」として取り上げなかった教科、「唱歌」をなんとか復活させようと声を上げたのが、田中不二麿でした。田中は、日本の唱歌にキリスト教の讃美歌を導入する中心となった人物の一人で、メーソンを日本に招く指令を出したのも彼です。田中は、結局のところキリスト教には改宗しませんでしたが、キリスト教に深い理解を示していたことは、一八七二(明治五)年四月十日付けの新島襄が書いた私信にある一節からも明らかです。新島はこう記しています。「彼(田中)は、キリスト教を信ずるという告白はしていませんが、心情からいえば、ほとんどクリスチャンです。」と。田中不二麿は、一八七八(明治十一)年三月二十三日、当時の文部省最高責任者として、東京大学、本部講義室において、夜七時より「唱歌・奏楽は教育に欠くべからざるを論ず」という演題で次のような演説をしております。。「唱歌・奏楽が教育に欠くことのできないものであるというのは、私がかねてから堅く信じて疑わないことであります。教室で子供たちが、授業に疲れ、飽きてきたおりに、一曲の清音が耳の底に、さわやかな春風のように流れますと、子供たちは知らず知らずのうちに疲労を回復し、精神を集中して、再び勉学に向かうことができるのです。このような効果は、唱歌・奏楽に求めないとすれば、いったい何に求められると言うのでしょうか。雅楽のことは、一応さておきますとして、その他の日本の音楽は、下品で、とても教室で使えるようなものではありません。しかしながら、西洋の歌をそのまま日本の学校で実施するわけにもまいりません。ですから、内外のいろんな方法をよく吟味して、新たに一種の音曲を制作して、学校の定課として実施するのがよろしいかと存じます。」

 このころ、田中不二麿が、いたずらに外国にかぶれて外国の真似ばかりをして、日本の伝統をないがしろにしているとしていると、ことあるごと執拗に、攻撃してきたのが、洋学派を深く憎んでいた元田永孚でした。しかし、元田らが幅をきかすようになる以前は、明治政府はそれほど反キリスト教的ではありませんでした。それは、以下のような発言が坂本龍馬の口からなされたことからも明らかです。竜馬はこう言いました。「日本も本当はキリストがいいのだが、そうもいかないから、やはり、天皇にするしかないか。」キリストか天皇かという選択肢が存在していた時期があったことを示す逸話です。

 日本の小学唱歌にキリスト教の讃美歌が、多く用いられた背景を理解するのに、忘れてはならないもう一人の人物がいます。目賀田種太郎という当時アメリカのボストンにいた田中不二麿の部下です。彼は、メーソンを日本に招く正式の契約をした人物です。その契約締結の後、帰国した彼は、翌年、勝海舟の三女と結婚します。この目賀田種太郎が、讃美歌を日本の小学唱歌に導入した中心人物の一人です。目賀田は、田中の命を受け、「国楽」という新しい歌曲を創出するためには、ぜひとも唱歌という教育科目が必要だと主張するのです。この「国楽」というのは、英語のNational Music の邦訳語でした。それは、目賀田種太郎によれば、「われわれすべての日本人によって、身分の高い人も、低い人も、どんな場所でも、いかなる時でも歌われる歌曲」のことでした。彼は、おそらく、身分の上下、男女、年齢の区別もなく、日本国民みんなで歌える歌を考えていたに違いないのです。簡単に言えば、「家族全員でそろって歌える歌」と言っても良いでしょう。それまで日本にはそのような歌はありませんでしたし、一家そろって歌を歌うなどと言うことは、当時、思いもよらない風景でした。アメリカでの留学生活が長かった目賀田種太郎の抱いていた国家、そして家族のイメージのモデルは、実に、アメリカのクリスチャンホームで、家族全員が讃美歌を歌っている、暖かく、そして麗しい姿にあったのです。

(クリスチャンと称し、家々を訪問して廻り聖書研究を勧める人々の中には、聖書が教えてもいない「輸血拒否」にこだわり、尊い人命を奪っているカルト集団に属する人々がいますので、ご注意ください。お困りの方はご相談ください。)


阿武山ニュースNo.84
真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
1999年11月号

日本の音楽、そのルーツを探る (4)
池田 豊

 日本人の好きな童謡、唱歌のベスト百曲を調べた調査結果(一九八九年)があります。六十五万七千三百二十三通のアンケートで寄せられた五千百四十一曲の中から、日本人が最も好きな歌として選ばれたのはどの歌でしょう。そうです、「赤とんぼ」です。そして、二番目が「故郷」です。菜の花ばたけに入り日うすれ?の「おぼろ月夜」を始め、「荒城の月」、「春の小川」、そして、「お正月」、「もしもし亀よ」、「桃太郎」、「日の丸」、「花」なども、あまり知られていない事実ですが、実は、みな日本人クリスチャンの作曲家が作曲した曲です。

 「赤とんぼ」、「この道」、「ペチカ」、「あわて床屋」などの作曲家として有名な山田耕筰は、牧師の息子でした。耕作の姉、山田恒子も群馬県下を宣教師とともに伝道して歩いた、熱心なクリスチャンでした。恒子の夫は、カナダメソジスト派の宣教師として来日した、エドワード・ギャレットです。ギャレットは、音楽家でもあり、耕作に音楽の手ほどきをし、関西学院大学、東京音楽校へと進む道をつけてくれた耕作の恩師となった人物です。

 この山田耕筰の音楽の基盤となったのが、讃美歌四六一番「主われを愛す」でした。自伝、「小さな歌の狂人《主われを愛す》」に耕筰は、こう記しています。「私の姉たちは、ミッション・スクウルで学んでいた。兄も熱心な日曜学校の教師であった。家には、ヴァイオリンもオルガンもあった。家庭で唄われる歌は、主として讃美歌であった。やっと、舌がまわるかまわらない頃、私は、それらの歌を唄い、まねた。小学校へ入っても学校で教わった歌よりは、家庭の讃美歌を愛唱した。」

 日本人の心にしみ透る名曲を書いた、山田耕筰の音楽の源流となって、流れているのは、讃美歌だったのです。この「主われを愛す」は大阪弁でも唄われました。「主わてを愛しはる 主は強いさかい われ弱いいうたかて 恐れること あらへん・・・」この讃美歌が大阪バージョンまでできた頃、つまり一八九六(明治二九)年、新編教育唱歌集の第二巻が発行され、その中に、「虹」という唱歌となって掲載されています。「夕立晴れて 涼しき空に 渡せる橋の その面白さいでて見よや 渡せる橋 あれあれ見よや 虹の橋」 この曲は明治時代を通じて、大変多くの日本人に浸透しておりました。そのメロディーの影響下にあって作曲されたとして有名なのが、童謡の「シャボン玉」です。

 日本人が一番好きな歌、「赤とんぼ」の作詞をした三木露風のこともあまり知られておりません。実は「赤とんぼ」には、大切な背景があったのです。この歌ができた頃、露風は、「赤とんぼ」を歌うときは、背景にあるエピソードを必ず聞いてもらってから歌って欲しいと願ったそうです。

「夕焼けこやけの 赤とんぼ 
  負われて見たのは いつの日か」

 露風の父は、放蕩三昧の生活をしていました。耐えかねた母は、幼い露風を残して、家を出てしまったのです。露風の心は深い傷を負いました。ですから、暖かい母の背中におんぶしてもらって赤とんぼを見た、あの時の懐かしさが、この詞に込められているのです。その露風をかわいがり、母のように面倒を見てくれたのが、お手伝いさんだった、姐(ねえ)やさんでした。露風が母のように慕っていた、この姐やも十五歳になり、結婚して、露風の前から姿を消して行くのでした。母との別れ、そして姐やとの別れ・・・そして秋の夕暮れ時、静かに飛んでいる赤とんぼ・・・その悲哀こそが、この歌に秘められた、露風のなんともやるせない心情だったのです。

「十五で 姐やは嫁に行き        
  お里のたよりも 絶え果てた」

 しかし、露風は、この赤とんぼの詞をどこで書いたのでしょう。故郷、兵庫県龍野町(現在の龍野市)や東京の三鷹ではありませんでした。あの幼い頃の故郷の想い出を綴ったのは、なんと北海道だったのです。その頃彼は、北海道にあるトラピスト修道院で講師をしておりました。その時書いた詩が、この「赤とんぼ」でした。しかも、「赤とんぼ」を書く一ヶ月ほど前に、三木露風は、主イエスキリストを永遠のいのちの恩人、魂の故郷である天国に導き入れてくださる救い主として信じ受け入れたのでしょう、信仰の告白として、バプテスマ(洗礼)を受けているのです。

 三木露風の傷んだ心の傷を癒し、真のやすらぎと、永遠の故郷をお約束くださったのは主イエスキリストだったのです。露風の魂の翼を本当に休めることのできるところ、それは、疲れた人、重荷を負った人を休ませてくださる、平安の主イエスキリストの内にあったのです。ですから、「赤とんぼ」の歌の最後の詞は、このように結ばれています。

「夕焼けこやけの 赤とんぼ       
  とまっているよ 竿の先」

 チョウチョは羽をたたんでとまります。でも、赤とんぼはどのような姿でとまりますか。竿の先に止まった真っ赤な赤とんぼ・・・。 そうです、十字架のような姿に見えないでしょうか。十字架の上で、私たちの罪を全部背負って、血を流し、身代わりの死をなしとげてくださった主イエス様。十字架も主の血で赤く染まったのです。三木露風は、主イエスキリストの血に染まった十字架の愛を信じることによって、母や姐やとの別れの傷も癒され、真の安らぎを見いだすことができたのではないでしょうか。「赤とんぼ」の最後の歌詞は「とまっているよ 竿の先」と羽を休めている赤とんぼの歌詞でをしめくくられています。この「赤とんぼ」の歌は、三木露風がバプテスマ(洗礼)を受け、その信仰初々しい時、最初の信仰告白として歌にしたためたものだったのではないかと私には思えるのです。この詩に、同じ主イエスキリストの十字架を、自らの罪のためであったと信じる、クリスチャンの山田耕筰が曲を付けました。あの魂を揺さぶるような、哀愁にみちた、メロディーが、天より山田耕筰に与えられ、誕生したのが、名曲「赤とんぼ」でした。 

(クリスチャンと称し、家々を訪問して廻り聖書研究を勧める人々の中には、聖書が教えてもいない「輸血拒否」にこだわり、尊い人命を奪っているカルト集団に属する人々がいますので、ご注意ください。お困りの方はご相談ください。)


阿武山ニュースNo.85真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
1999年12月号

「人生の目的」本当に示されてはいないのか
池田 豊

 「位置について、ヨウイ、ドン!」選手一丸となって走り出すマラソン大会。ところで、走りながら選手たちがこんな会話を交わしていたとしたらどうでしょう。「あのぉ、今回のマラソン大会のゴール、最終目的地はどこか知ってはりますか?」「いやぁ、知りませんなぁ」「なんでも、目的地がどこか捜すのもこのマラソン大会の目的だそうでっせ。」「あーそうでっか?ホナ、お互いがんばりまひょ。」

 このようなマラソン大会は、現実には存在しないと思います。ところが、私たちの「人生」というマラソンにおいて、しばしば、上記のような会話がもっともらしく述べられることが多いように思います。最近、五木寛之氏の著書「人生の目的」が出版され、たった二週間で、三十万部も売れているそうです。含蓄に富んだ内容で読者を感動させます。しかし、私たちの人生の目的はというと、「なかなかわからない」、あるいは、それを「捜し求めること」が目的の内だということのようです。五木氏の本をテレビで紹介しておられたキャスターの方は、人生の幕を閉じる最後の時に、「満足な一生だった」と自分で言える、悔いのない人生を求めることなのではないかというようなことをおっしゃっておられました。

 高価なパソコンを購入してきたご主人の留守の間に、奥さんが、「これは、ちょうどいい重さだわ」と言って、パソコンを漬け物石がわりにしてしまったとしたらどうでしょう。確かに美味しいお漬け物ができあがるかもしれませんが、パソコンが本来作られたもともとの目的からは遠く離れていると言わざるを得ません。パソコンを制作した人が、図面を引き、適切な材料を組み合わせ、「目的」に従って「プログラム」が作動するよう作られたはずです。パソコンが本来どのような機能を持ち、どのような目的のために制作されたものであるかを知るには、おとうふやさんや魚屋さんに尋ねるよりは、制作会社が発行した「取扱説明書」を注意深く読むべきでしょう。

 最近、遺伝子レベルでの研究が進み、私たち人間は、私たち以外の、私たちよりもはるかに優れた知性によってあらかじめプログラムされたのに違いないと主張する科学者が多くなられたようです。でたらめのくりかえしがただ長い期間続いたからといって、その結果、偶然に、今日のようなパソコンができたのだということを信じる人はおそらくおられないでしょう。その背後には知性があるからです。私たち人間も、「目的」をもって、創造主がお造りになったのだと聖書は語っています。私たちの問題は、「目的」がわからないのでも、知らないということでもないのです。創造主が示しておられる人間としての当然のあるべき姿や「目的」から自分が遠く離れてしまっている為、その創造主がお与えくださった「目的」をあたかもないかのように無視し、しらんふりをしているのだと聖書は説明しているのです。コンピューターの使用目的は、コンピューター自身や、使用者が決めるのではありません。制作者が設定するのです。しかし、その本来の使用用途を無視したら、漬け物石にもなりうるのです。だからといって、「いい漬け物ができたわ」とよろこぶ自己満足をコンピューターの「目的」だと言い切って本当に良いのでしょうか。私たちが、創造主の提示しておられる「目的」をあえて拒否し、自分勝手に「私の人生の目的」と称するものを探し出し、死ぬ間際に、「満足できた人生だ」と言えたからといって、はたして、私たちに命をお与えくださった創造主がご満足なさるのでしょうか。聖書は「否」と言います。

 さて、そんな私たち人間に対し、本来あるべき姿を、創造主が直接啓示してくださったのが「クリスマス」でした。

 キリストは、学歴もなく、大学や神学校で高等教育を受けたわけでもありません。一冊の本も書かず、社会的身分の高い地位につくこともありませんでした。結婚をし、家庭を持つこともなく、マイホームを購入したこともありません。生まれた祖国を離れ、世界中を講演してまわることもありませんでした。しかし、彼は、人々から最も偉大な人物として世界中で仰がれています。

 彼は、時の権力者、宗教家たちの妬みをかい、不当な裁判にかけられ、死刑宣告を言い渡されました。彼に付き従っていたものたちは、一人残らず彼を裏切り、見捨て、離れ去って行きました。彼は孤独の人であり、人から見限られることの悲哀を舐め尽くした人でした。

 彼は、十字架につけられ、血を流し、息を引き取られました。そんな彼に同情を示したある政治家が、彼の遺体を真新しい墓に葬ったのです。ところが、その三日目に墓はからっぽになっていました。彼が、生前、預言して述べていたとおり、彼は、死から甦られたからです。すなわち、天地万物の創造者なる神が、人間となってこの地上に誕生されたお方がイエス・キリストだったのだということを復活によって証明されたのです。

 キリストが処刑された十字架が、その時から、全世界のすべての人にとって、罪と死の呪いからの解放を告げる「愛」のシンボルと変えられました。彼の生涯は、人類の歴史上のいかなる人物よりも多くの文学、書物、詩歌、絵画、芸術のテーマとして取り上げられています。このイエス・キリストという一人のお方が全人類の救いの為に命を捨ててくださったということの栄誉をたたえるため、何千、何万という大学を始めとする教育機関、病院、医療機関、孤児院、ホスピス、その他の施設が世界中に設けられています。その数は、二千年近くを経た今もなお、増えこそすれ、減ることはない。キリストは、地上のすべての軍隊を合わせたよりもさらに大きな影響を人類に与えたといってよいでしょう。

 キリストにより人生の変革をもたらされ、人生の目的を示された人々によって、社会にも大きな貢献がもたらされました。バッハ、ヘンデルという人々はその歓喜を音楽で表現しようとしました。トルストイやドストエフスキーは文学であらわそうとしました。又、一国を指導する立場にある者たちの内にも、このイエス・キリストに強く影響された人々は多くおられます。高槻の城主、高山右近もその一人です。 

 この一人の人物、イエス・キリストによって、個人が変わり、家庭が変わり、国が、そして、世界の歴史が変えられていきました。キリストは、愛によって世界を変えられたのです。人類は、キリストによって、真実の愛がどのようなものであるかを教えられました。そして、そこに、愛の創造主に似せて造られた私たち人間の「目的」もあるのではないでしょうか。しかし、聖書は、生まれながらの私たちの内には真実の愛がないことを告げています。私たちは、創造主が提示しておられる「キリストの愛」を信じ受け入れなければならないことを聖書から知らされるのです。聖書はこう述べています。「キリストは、私たちのために、ご自分の命を捨ててくださった。それによって私たちは、本当の愛が何であるかを知った。」「しかし、私たちがまだ罪びとであった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はご自身の愛を明らかにしておられます。」クリスマスのクリスとは、キリストのこと、マスとは、「礼拝すること」を意味しています。あなたが、キリストをご自分の罪からの救い主、すなわち、永遠の命の恩人として信じお受け入れする時、キリストを礼拝し、主をほめたたえる真のクリスマスを体験なさることになります。そのことが、あまりに喜ばしい(メリーな)ことであるので、「メリー・クリスマス。」と挨拶を交わしあうのです。

 あなたが今年、真の意味で、創造主が語っておられる「人生の目的」を見いだされることによって、あなたにも「メリー・クリスマス」が訪れますようお祈りいたします。教会のクリスマスの諸集会に、ぜひ、お気軽にいらっしゃってください。


阿武山ニュースNo.86 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2000年1&2月号

「真実の愛」こそ人を生かす
池田 豊

 アメリカはマサチューセッツ州のテュークスベリーという町に、親にみ棄てられたかわいそうな子供たちを救済する為の施設がありました。そこに十歳になるひとりのアニーという女の子が弟とともに収容されることになりました。アニーちゃんは、強度の弱視でほとんど失明に近い状態でした。部屋が足りなかったため、この幼い姉と弟は、「死人の部屋」と呼ばれていた不気味な部屋に入れられました。そこは、この施設で死んだ人の死体を埋葬するまでの間安置する、霊安室だったのです。そこで、病弱だった弟は、六ヶ月後に亡くなります。その後、アニーちゃんは、ボストンにある施設に移されます。アニーちゃんは、何をしてもいっさい反応を示さない、いわゆる植物人間のような状態でした。どう話しかけても、何をしても全く反応を示さないので、職員の方々はこの女の子を地下室のある一室に閉じこめ、そのままほったらかしにしておりました。

 そこにある日、ひとりの婦人がやって来ました。この人は、クリスチャンでした。「創造主がお造りくださった人間は、ひとりひとり、愛される価値がある。創造主の愛なしには人間は本来の価値を見いだすことができない。」彼女はそう信じて、この施設の地下室に閉じこめられているひとりの少女にも、創造主の愛を伝えてくれる人が必要であると示され、やって来たのです。彼女は、毎日この少女、アニーちゃんの所にやって来て、話しかけたり、本を読んであげたり、歌を歌ってあげたりしたそうです。けれども、アニーちゃんはまったく反応しません。でも、彼女は諦めることなく、何ヶ月も続けてアニーちゃんの所に通いました。来る日も、来る日も、ただ一方的に話しかける。まるでラジオのアナウンサーのようでした。何の応答もありません。壁に向かって話しているようなものでした。それでも彼女は、アニーちゃんに話しかけ、語りかけ、歌ってあげたのです。

 ところが、突然、ある日から、いままで全く反応を示さなかった少女に変化が見られるようになりました。なんらかの形での応答と見えるしぐさが見受けられるようになったのです。外界の刺激にまったく反応しないアニーちゃんでしたが、血縁関係や友人でもない、全くの赤の他人だったにもかかわらず、このひとりの女性が毎日訪問し、来る日も来る日も、創造主の愛を何とかして伝えたいと語りかけを続けた結果、不思議と、アニーちゃんがだんだんと彼女の語りかけに反応を示すようになったのです。なんと、二年間の内にアニーちゃんは、施設から出て、社会復帰できるまでになりました。

 やがて、それから何年もたったある日のことです。イギリスの女王様が、功績のあった人を表彰する、表彰式が執り行われました。その時に表彰された人は、皆さんもよくご存じのヘレン・ケラーでした。ヘレン・ケラーに対して女王はこう質問しました。「あなたが、このような偉大な人になれたのはなぜですか。誰のおかげですか。」その時ヘレン・ケラーが答えた答えは、こうだったそうです。「女王様、今私がこのようにしておられるのは、アン・サリバン先生のおかげです。」このアン・サリバンという方は、ヘレン・ケラーを愛し、彼女が社会生活を営むことができるようにと慰め、励まし、教え、お世話をした人物です。

 このアン・マンシスフィールド・サリバンこそが、実はさきほど私がお話しました、失明寸前で、知能の発達もおくれ、全く無反応だったため、地下室に閉じこめられていたあの少女、アニーちゃんだったのです。アニーちゃんは、十四才になったとき、パーキンズ盲人病院へ送られ、点字を修得しました。まだ若干二十才になったばかりのアン・サリバンは、不幸にして視力と聴力、発語に障碍を持った三重苦のヘレン・ケラーの家庭教師となる、想像も絶するような難解な大仕事を引き受けることになったのです。アン・サリバン先生のことについては、ご存じの方は多くおられるでしょう。しかし、アン、すなわち、アニーちゃんが、地下室の独房のような所に押し込まれていたときに、来る日も来る日も、諦めず、彼女を訪ね、やさしく話しかけ、神の愛を伝えてくれたご婦人のことを知っている人は、ほとんどおられないのではないでしょうか。どのヘレン・ケラーの伝記を読んでも、だいたい、サリバン先生が登場するストーリーは、彼女が丸いサングラスをかけた家庭教師としてヘレンの所にやって来るというところからしかとりあげておりません。しかし、実は、その背後に、彼女がアニーちゃんだった時に、彼女を、「創造主のみ形に似せて造られた者」として認め、愛情を注いでくれた、ひとりの尊い婦人、今では名前も知られていない、ひとりの人物がおられたのです。

 ヘレン・ケラーが、サリバン先生に物を投げたり、スープをひっくり返したり、言葉が通じないイライラから、様々な暴力を振るっていた時も、サリバン先生は、じっと耐え、愛を注ぎ続けました。なぜそんなことができたのでしょう。周りの人が、「サリバン先生、もう諦めたらどうですか、この子はもうだめですよ。こんな分けのわからない野獣のような子は、地下室にでも閉じこめておかないことには、らちがあきません。」そう忠告したとしたら、サリバン先生は何と答えたでしょう。私は、アニーちゃんを来る日も来る日も、見捨てず、じっと忍耐し、愛し続けてくれたこの名もない、命の恩人とも言えるご婦人のことを、きっと話されたのではないかと思うのです。

 苦しみや試練の内にある方々のために、創造主は、以下のような素晴らしい慰めの言葉を聖書に記してくださっています。

 私たちの主イエスキリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。創造主は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が創造主から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。   第2コリント一章三?四節

 アン・サリバンは、自分が幼い時に経験した苦しみの時、ひとりの名もない婦人から受けた愛と慰めの故に、自分と同じような苦しみにあえいでいたヘレンケラーをあわれみ、愛し、慰めることができたのではないでしょうか。アニーちゃんの苦しみは無駄ではなかったのです。

 主イエスキリストが、誕生され最初に寝かされたのは、家畜小屋の飼い葉桶の中でした。宇宙の創造主であられるお方だったのに、私たち人類の最も卑しい、苦しみのどん底をあえて経験してくださるためだったと聖書は告げています。

 それは、私たちがどんな人生の苦しみに出会っても、そこに必ず創造主の慰めといたわりがあるのだということをすべての人に知らしめるためでした。


阿武山ニュースNo.87 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2000年3月号

「富と真の平安」
池田 豊

 ギャロップ世論調査というものがあります。その発表によると、「たいていの人は、自分の収入が、十%増加したら、経済的な悩みがなくなる。」と考えているそうです。消費税が導入されたときも、また、三%から五%に引き上げられたときも、日本中、人々は買い物をする度に、何%、何%と気にするようになったように思います。バブルがはじけ、収入が増えるどころか、減少してしまったというご家庭もあるかもしれません。この上、消費税の値上がりの可能性を耳にしたりすると、虫歯で不用意にアイスクリームや、かき氷をガブリと噛んだ時のような強烈な不快感を覚える方もおられることでしょう。

収入増加が必ずしも経済的悩みの解決とはならない

 NYワナメーカーという会社の代表でもあった、エルシー・ステープルトンという経済コンサルタントの方がこう語っています。人々の経済的な悩みにアドバイスするという専門家のご意見です。
 「収入の増加は、多くの場合、人々の経済的悩みを解決するものではありません。事実、私は、収入の増加が、ただ浪費(無駄遣い)の増加をもたらしただけで、頭痛増加にしかなっていないケースをたくさん見てきているからです。一般的に言って、人々の悩みの原因となっているのは、『お金の不足』ではなく、『お金の賢い使い方を知らない』ということなのです。」

二十二億円、あなただったらどう使いますか?

 一九九九年九月五日(日)の朝日新聞に興味深い記事が掲載されていました。見出しは、
「二十二億円の宝くじ当選者、十一年で破産」

 ニューヨークから山中季広記者が報告してこられたのは、空前の宝くじブームにわく米国のニュースです。総額二千七十一万ドルと言いますから、約二十二億七千万円です。三億円強奪事件の時も、私は、三億円でいったい何を買うんだろうと思ったものです。二十二億円と言ったら、その7倍以上です。そんな公営くじを引き当てたのは、ジョージア州に住む、自動車修理工のポール・クーニーさんでした。一九八九年の春、若干、二十六歳のポールさんは、一夜にして大金持ちになったのでした。晴れがましい表情で、こうインタビューに答えたものです。「未納の電話料金をまず、払います。そして、教会にも献金したいと思いますし、いろいろな所に寄付もしたいと思います。」妻のドナさんは、「宝くじに当たっても、私、ウェートレスとして、地道に働き続けます。」とそうおっしゃっていました。

 しかし、クーニーさんは、かつて勤めた自動車販売店の経営権を買い取り、以前の上司や同僚をあっと言わせたのです。奥さんのドナさんは、まもなく、ウェートレスを辞めました。

 ところが、放漫な経営がたたって、自動車販売店は、一年と持たずに閉鎖してしまい
ました。夫婦喧嘩も絶えず、ポールさんはドナさんと離婚してしまうのです。慰謝料として、賞金の三分の一がドナさんに支払われました。そのお金が、ドーナったのかについては、記されておりませんが、クーニーさんはその後、間もなく再婚されます。しかし、この二人目の奥さんともうまくいかず、すぐに破綻。離婚訴訟費や慰謝料などがかさみました。

 事業を好転させようと、融資を受けたのですが、相手は、口八丁、手八丁の詐欺師まがいの男。法外な利子を取られてしまいました。友人を失い、親戚とも疎遠になりました。フロリダ、テネシーと五回も転居しました。現在は、一人暮らしで、パートタイムの仕事をしておられます。なんと、宝くじ当選のあの日から僅か十一年半で、賞金を全部使い果たしたばかりか、五百万ドル、日本円で言えば、五億五千万円近い借金を抱えて、裁判所に破産申し立てをしたそうです。クーニーさんに代わって、弁護士はこうコメントしています。「この悲劇の教訓は、大金を賢く使えるようになるには、年月がかかるということだ。」

聖書の言葉
 富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は、必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。 箴言二十三章四?五節

 急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。 箴言十三章十一節

 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また、何一つもって出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちに成りたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。  第一テモテ六章六?十節

 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主、ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」 ヘブル書十三章五節

 主イエスキリストは、「人はパンだけで生きるのではない。」とおっしゃいました。これは、ご飯や、うどんや、ラーメンもあるという意味ではありません。食物を得るためだけに人生の目的があるのではないという意味です。食べるだけなら動物とあまりかわらないではありませんか。人間は、創造主に似たものとして造られていますから、「創造主のみことば」によって生かされ、人生の真の目的と平安を見いだすのだとキリストは言われるのです。

 身体に障害を持つようになられて、人生には本当に必要なものはそう多くない、いや、ひとつだけだということにお気づきになったと言われる星野富弘さんが、「たんぽぽ」という題で次のような詩を書いておられます。

?「たんぽぽ」

 いつだったか 君たちが 
 空を飛んでいくのを見たよ
 風に吹かれて 
 ただ一つのものを持って
 旅する姿が
 うれしくてならなかったよ

 人間だって 
 どうしても必要なものは
 ただひとつ
 私も 余分なものを
 捨てれば 
 空が飛べるような
 気がしたよ


阿武山ニュースNo.88 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2000年4月号

「死を乗り越える愛」
池田 豊

  イギリス陸軍の大尉であったアーネスト・ゴードン著、斉藤和明訳、「死の谷を過ぎて」(新地書房)という本があります。悲惨な太平洋戦争の実体験をナマの声で綴ったものです。ゴードンさんは、日本軍の捕虜となりました。タイとビルマを結ぶ鉄道建設のため無数の捕虜が過酷な労働を強いられた時の体験が綴られています。ジャングルを切り開く。工作機械もほとんどなく、十分な食料もあてがわれていない捕虜の人力だけで鉄道を敷き、橋を架けろと命令されます。しかも、普通は五、六年はかかる難工事なのに、急を要すると一年間で仕上げてしまったそうです。捕虜は使い捨てでした。死傷者が続出したのも当然でした。彼は、こう記しています。

 「日本軍は、文明社会の道徳律をことごとく犯してゆく。彼らは、公然と俘虜(捕虜)を殺害した。銃剣で突き殺す、射殺する、溺死させる、首をはねる・・・残酷な殺し方であった。公然とである。しかし、隠密な殺害方法は、公然の場合より残忍だった。・・・命令に反した俘虜を処罰するのにも、日本軍は手のこんだ特別な方法を持っていた。万力に頭を挟み、締め上げ、圧し、つぶすやり方で、何人もの俘虜を殺した。」このような残虐行為の背後には、天皇が当時の日本では、「生きた神」であり、日本は神国だという思想があったとゴードン大尉は、こう指摘しています。「天皇および神国日本は、全世界に対して、聖旨完遂という責務を持つ。それゆえ、その責務のためには『勝利か、死』のいずれかしかなく、いかなる残虐行為も看過できるという考えが生まれる」(P.79)

? 聖書を否定し、イエスキリストはお伽ぎ話の中の人物にしか過ぎぬと思っていた無神論者の彼(P.182-3)は、そのような敵国、日本軍の捕虜として耐え難い虐待に明け暮れる毎日を送る中、神も仏もあるものかというすさんだ気持ちになっていきます。ところが、そんな彼が、クリスチャンとなるのです。それは、ジャングルの中で、他の捕虜たちが読んでいた聖書を手にし、彼自身が読み始めたことから、イエスキリストの十字架の死の意味を考えるようになったからだといいます。自分と同じ境遇にあって苦しんでいた捕虜の中に何人ものクリスチャンがおり、彼らの生きざまと、死に方とを目の前で目撃し、ゴードン大尉の心に変化がもたらされたというのです。

 オーストラリア軍の一兵士で、彼らと同じ日本軍の捕虜となった一人のクリスチャンの死が、ゴードン大尉の脳裏に焼き付いて離れませんでした。この兵士は
、同じ捕虜となった重病の友人のため、タイ人から薬を入手しようと収容所の柵を越え、捕らえられてしまいます。即決裁判で死刑でした。その時の様子をゴードン大尉はこう記しています。
「彼は、落ち着きを保っていた。やがて、小さな新約聖書をぼろぼろのショーツのポケットから引っぱり出した。彼は、その一節をおもむろに読み出した。声は出さなかった。ただ唇だけが動いていた。」
「汝ら心を騒がすな、神を信じ、また、我を信ぜよ。わが父の家には住処(すみか)多し。・・・我、汝らのために処を備えに往く。もし、往きて汝らのために処を備えなば、また、来たりて汝らを我がもとに迎えん。わが居るところに汝らも居らんためなり。・・・我、平安を汝らに遺す、わが平安を汝らに与う。わが与うるは、世の与うるごとくならず。汝ら、心を騒がすな。また、恐るな。ーイエスキリストー」読み終えると、彼は、ひざまずいて、頭を前の方にさし出し、首を露出させました。そして、軍刀で首を切り落とされたのでした。(P.161)

 また、こんな事件もありました。一日の苦役が終わり、点呼を受ける時のことです。日本兵が数えてみると、シャベルが一本足りなかったといいます。「誰かが盗んだに違いない。誰だ。出てこい!」しかし、捕虜の誰も返事をしません。そこで、日本兵はこう言いました。「よし、全員射殺だ!」兵士は、銃を取り、安全装置をはずしました。肩に銃をあて、ねらいを定め、引き金を引こうとしたその時です。一人の捕虜が、穏やかな声で「私がやりました。」と申し出たのです。その場で、彼は、殴り殺されてしまいました。ところが、日本兵が後でよく調べてみると、シャベルの数はちゃんとあったのです。数え間違いでした。(P.159)

 全員射殺という危機を救うため、一人のクリスチャンが、他の捕虜のために自ら進んで死を申し出たのでした。この人たちが、死を恐れなかったのは、イエスキリストが十字架で愛を示され、死からよみがえられたからでした。死はすべての終わりではなく、主イエスを救い主と信じる彼らには永遠のいのちが保証されていたからです。

 やがて、日本軍は全面降伏をし、敗戦を迎えます。捕虜にも自由と解放の日が訪れました。ゴードン大尉は、故国への帰還途中、日本軍の傷病兵を輸送する列車に一緒に乗り込むことになります。彼は、その時の情景をこのように記しています。「私は、あれほど汚い人間の姿を見たことがない。戦闘服には、泥、血、大便などが固まって、こびりついていた。痛々しい傷口は化膿し、全体が膿で覆われて、膿の中から無数のウジが這い出ていた。私たちは、日本兵が捕虜に対して残酷であることを身をもって体験してきた。それが、何ゆえにであるかということを、今、はっきり見てとった。日本軍は自軍の兵士に対しても、このように残酷なのである。まったく、いっぺんの思いやりすら持たぬ軍隊なのである。それならば、どうして私たち敵国の捕虜への配慮などを持ち得ようか。彼ら日本軍負傷兵は死を待つ人々であった。使い果たされた消耗品であった。戦争の廃物であった。」その哀れな姿を見たゴードン大尉らクリスチャンの英軍将校たちは、自分たちに配給された食糧、布切れ、水筒を手に持って、傷ついた日本兵に近づき、ひざまずいて水と食べ物を与え、膿をぬぐい取り、傷口に布を巻いてやったのです。その後ろから「アイガトウ!」という感謝の声が響き渡りました。その時、同じイギリス軍の他の将校たちから非難の声があがりました。「敵だぞ!にっくき敵だ!何をしているんだ!」イエスキリストの十字架の愛を知らない彼らにとっては当然の言葉でした。今まで、苦しめられ、虐げられてきた憎い日本兵たちなのですから。 しかし、ゴードン大尉はこう応えたのです。「私の敵はどこにいるんですか。あの人たちは、敵ではなく私の隣人じゃありませんか。創造主は隣人を創られたが、敵を作るのは私たち人間です。私の敵とは、実は、私の隣人であるのです。」

聖書の言葉
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 マタイ五章四十四節


阿武山ニュースNo.89 真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
2000年5月号

「絶望から唄が生まれる」
池田 豊

 裕福な生活から、突然、貧しい生活へと転落する。そのような経験は、人を絶望のどん底に突き落とし、その人の人生は破壊され、裏街道へと・・・。
 そのように早合点してはいけないと、ある詩人の生涯から教えられました。突然の思いもよらぬ不幸は、人を犯罪や反社会的な方向に追いやることもありますが、その反対にその不幸と思われることをバネにして大きく羽ばたく人々がおられることも事実です。

 明治二十五年一月十五日、牛込区(現在の新宿区)払方町十八番地で、父十兵衛、母徳子の三男として生まれた一人の詩人がおります。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。父十兵衛は、明治十三年、日本で初めて石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りました。十兵衛は、三十人位の従業員が働く石鹸工場を起こし、数人が店員としてはたらく店も開きました。

 ところが、この父が急死してしまいます。文学を志す若者が早稲田中学三年生の時のことです。家督を相続したのは三男の詩人だったのですが、彼の兄が、放蕩三昧をいたします。裕福な家庭に生まれたはずなのに彼は、突然、貧乏のどん底を体験することになるのです。詩人となることを目指し、彼は、なお勉学に励み、早稲田大学を主席で卒業しますが、そのころ兄は、とうとう家の財産を全部使い果たしてしまいます。

 しかし、やがて、この青年の人生にもささやかな明かりがともります。大正元年、彼は『聖盃』を創刊します。さらに大正三年には、三木露風を中心とした『未来』に参加し、象徴主義文学に深く関わりを持つようになります。そして、大正五年、詩人は、女優、賀川京子に良く似た美人、小川晴子さんと結婚します。その年、彼は、堀口大学らと『詩人』を創刊したのです。

 ところが、相変わらずの生活苦に追われ、詩人は、詩を歌うことができなくなってしまいます。母や兄弟を養うために、やむをえず、彼は、当時、大繁盛していた銀座の「天國」という天ぷら屋の向こうをはって、新橋駅前で「天三」という天ぷらのお店を開くことになります。詩を歌いあげるのは上手でも、天ぷらを揚げるのはあまりうまくなかったらしく、なかなか儲からず、彼は、株取引にも手を出すようになり、株で大損をしたりしておりました。詩人となる彼の夢は、はかなく消えかかろうとしていたのです。

 一九一八年(大正七年)、上野、不忍池のほとりのアパートに住んでいた彼は、ある秋の日、赤ちゃんの長女、嫩子を抱いて、近くにあった東照宮の境内をとぼとぼと力無く歩いておりました。

 その時です。詩人の脳裏に少年時代、出席したことのある九段上、番町教会のクリスマスの夜の光景が突然、稲妻のように、思い浮かんだのです。教会堂の天井の一番てっペんの窪みにある電燈の内、一つだけ点いていない電燈がありました。翌年、行ったら、またその電球だけが消えているのでした。たぶんこれは、電球が高価だし、面倒くさいから、点けられなかったのだろうと思ったそうです。そのところを詩人本人の言葉でご紹介しましょう。

「その球だけが、楽しげなみんなの中で、独り、継児扱いされているような、また多くの禽が賑やかに歌ひ交わしてゐる間に、自分だけがふと歌ふべき唄を忘れた小鳥を見るやうな淋しい気持ちがしたのであった。」
「東照宮の境内を歩いて、私はゆくりなく幼い日のさうしたデリカな記憶を呼び起した。さうしてあの幅のひろい石階を下って上野倶楽部の自分の室へ戻るまでに、あの『かなりや』の唄は半ば心のなかにまとまりかけてゐた。――」

 そうです、この詩人とは、童謡「唄を忘れたカナリヤは?」で当時、爆発的な人気をはくした西條八十です。

 唄を忘れた金糸雀は、後ろの山に 棄てましょうか
 いえ、いえ、それはなりませぬ
 唄を忘れた金糸雀は、背戸の小藪 に埋けましょか
 いえ、いえ、それはなりませぬ

 思うように唄を歌うことができない。その焦燥感から、詩人西條八十は、まわりがみんな輝いているのに自分だけが輝けない、あの電球のような自分が惨めでならなかったようです。

 唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭で  ぶちましょうかと歌詞は続きます。叱咤激励し、鞭ででも打ったら歌うようになるかと問うのです。八十の唄は、 いえ、いえ、それはかわいそう と憐れみと優しさを歌いあげます。

 山に棄てたり、小藪に埋けたり、鞭でぶってもだめだ!
 唄を忘れた金糸雀は、象牙の船に、 銀の櫂
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄を思い出す

 八十は、唄を忘れた金糸雀に象牙の船、銀の櫂、月夜の海のような恩寵が備えられた時に、初めて忘れた唄を思い出すだろうとしめくくっています。

 絶望の淵に立った人間に必要なのは、破滅や遺棄の脅しではない。鞭打ちの刑のような暴力的圧力でもない。恵みと憐れみに満ちたやさしさと愛とで、すっぽりと包まれる時、忘れた唄を思い出すのではないかというのです。

 詩人西條八十は、この消えた電球の想い出から「唄を忘れた金糸雀」の詩を与えられ、「赤い鳥」に翌年(大正八年)発表します。その後、詩人西條八十は唄を歌い続ける金糸雀となったのでした。彼が生みだした多くの童謡や歌謡曲は大正、昭和の激動の世相に生きた人々を慰め、励ましました。その数は二千五百曲を超えます。その中には、東京行進曲、東京音頭、誰か故郷を想わざる、王将、青い山脈などもあります。

 もし、歌うことを忘れた孤独な一羽の金糸雀、西條八十が、棄てられたり、土に埋められたりしていたとしたら、敗戦後、人々のすさんだ心に希望の灯火をともした明るくさわやかな名曲、青い山脈も人々に口ずさまれることはなかったのです。
 キリストは、創造主の愛と優しさ、み恵みのゆえに、あなたに新しい唄を口ずさむ人生を提供しておられます。


真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
阿武山ニュース No.90 2000年6月号

「観の目」と「見の目」
池田 豊

 玉川大学教授、前島誠さんは、「ユダヤ流逆転の発想」という本の中でおもしろいエピソード(43頁)を語っておられます。 講演を依頼された前島氏が、東北の奥座敷と呼ばれ、ラーメンで一躍有名にもなった、喜多方に出向かれた時の実話です。

 ご自身曰く、よせばいいのに、ポンコツ車に乗り、ご自分で運転して出かけたそうです。よりによって、その夏は、異常気象。焼け付くような大変な高温で、「道半ばにして音をあげてしまった。」とそう語っておられます。クーラーなどついていない車で、頭の中までボーッとしてくるありさまだったそうです。我慢もこれまでと、着ていた背広、ワイシャツを脱ぎ捨て、ランニングシャツに短パン、鉢巻きにサングラスという軽装に早変わり、目的地の喜多方めがけ突っ走ったそうです。途中手間取ったせいか、約束の時間が迫って来ます。あわてふためいて、喜多方の町に乗り入れ、やっとのこと講演会の看板が掲げてある会場を探し当てました。時間はあといくらも残ってはいません。打ち水がされた会場の入り口には、主催者側の役員さんたちが五、六人。そわそわしながら、今や遅しと講師の到着を待ちかまえている様子です。前島さんは車を勢いよく役員さんたちの前に止め、「遅くなって申し訳・・・、」と語りかけたときです。役員の一人が、前島氏の姿に一瞥を注ぎながらこう怒鳴りました。「じゃまだ!じゃまだ!えぇい、どけ、どけ!今、先生がお見えになるところだ!」「すみません、それで、車をどこに停めたらいいんでしょうか・・・?」「裏だ、裏へ回れ!」
 前島氏、建物の裏手にまわると、草ぼうぼうの空き地がありました。そこで、車を停め、サングラスと鉢巻きをはずし、正装して、正面玄関の方へ歩いて向かい、入り直しました。そうしましたら、今度は、代表者の方はじめ、先ほど怒鳴った役員さんもニコニコして、丁重に出迎えてくれたそうです。「遠いところ、はるばるお越しいただきまして恐縮しております。どうぞこちらへ・・・」

 そのままステージに案内され、前島氏は、水を一口喉へ流し込むと開口一番、こう話しはじめました。「みなさん、私がこの会場に参りましたのは、本日これが、二度目でございます。最初はランニングに鉢巻き姿で着きましたところ、役員の方から「裏へまわれ!」とお叱りを頂戴いたしまして、大急ぎで裏へまわりました。次にこのような格好に着替えてあらためて参上いたしますと、「どうぞ、どうぞ、よくいらっしゃいました」と丁寧にご案内頂き、こうしてみなさんの前に立つことをお許しいただいたというわけです。」

 壇上、横の席にズラリと並んだ役員たちは、あっけにとられ、鳩が豆を食らったような顔で前島氏を凝視し、ついで、お互いに顔を見合わせるばかりだったそうです。聴衆の方はもう爆笑の渦だったそうです。

 宮本武蔵は、五輪書、水之巻の中で、このような言葉を記しています。

「観の目つよく、見の目よわく」

「見の目」というのは、肉眼で事物の表面だけをとらえる見方のことです。物事を浅く見ることしかできない見方です。また、先入観や外見にとらわれ、錯覚や誤認しやすい見方です。注意して見なければ、「見れども、見えず」と言うことが起こりがちです。
 それに対して、「観の目」とは、対象を全体的にとらえて、物事の奥深くに潜んでいる本質を見抜く目のことです。どうしたら、この「観の目」を養うことができるのでしょうか。感情や先入観を避け、あるがまま、虚心にかつ平静に見る訓練。心の鏡を研ぎ澄まして見る訓練を日頃していなければならないということらしいです。つまれ、目先の動きだけに心を奪われることなく、絶えず、その先を見る目です。気を配って予測し、全体の動きを把握したり、物事の裏にある本質に思いを馳せたりする、そのような見方を常日頃からするよう訓練していなければ身に付かないそうです。

 実際的な例を申し上げましょう。たとえば、みなさん、ご自分にとって「嫌いだ、いやだ」と思う人、馬が合わない人がおられますか。その人の短所ではなく、長所を少し考えてみてください。何事も短所は、ひっくり返すと長所となり、長所は短所となりうるのです。自分には普段見えない部分が見えてくるはずです。そして、その長所に心を止めるようあえて、意識していくとその嫌いな人のことが、以前ほど気にならなくなるから不思議です。


真実を見つめ、真理を求めておられるあなたへのお知らせ
阿武山ニュース No.91 2000年7月号

「人を活かす真の智恵」
池田 豊

 徳川家康は、「世の中には、自分より身分や地位の高い人間には智恵があり、自分より低い人間には智恵がないとはじめから決めてかかっている迂闊な奴がいる。智恵の有無は、身分や年齢に関係ない。上にも下にも、智恵者もいればばか者もいる」と言ったそうです。

 とかく私たちは、自分より地位や年齢が高い人の意見は聞きますが、下位の者には文句を言うだけ言っても、彼らの話に耳を傾けない傾向があります。聞く耳を持つ人は、考えが深く謙虚で、どんな人の言葉からも大きな示唆を得ることができるといって良いでしょう。だからそのような人はますます他者からの尊敬を得るのです。
世界のホンダを生み出した心

 本田宗一郎さんはこのような事を語っておられます。
「なんでもかんでも強さを表面に出すだけの人間は駄目だな。魅力がない。まわりが萎縮してしまうよ。オレは女房に弱い。だから女房に頼る面がある。会社の中でも、部下に優秀な人間があれば、オレは頼りにするよ。なんでもかんでも強さを表面に出すだけの人間は駄目だ。息子や部下と議論して、こっちが劣勢に立たされると、くやしいから『参った』とはいえない。そういうときは、あとで別の人間に、『やっぱりあいつのいうとおりだな』っていうんだ。すると、それは必ず息子や部下に伝わるからね。これはいいことだよ。自分の考えが目上の者よりも優れていたことが分かり、彼らは自信を持つようになる。そうして、息子や部下は伸びていくんだね。」

 人を活かす言葉は、どのような立場の人から発せられた言葉であったとしても私たちにとってとても大切です。ましてや、天と地、そして宇宙のすべてを無から創造された創造主からの愛の語りかけに耳を傾けることは私たちにどれほど希望と勇気、慰め、励ましをもたらすことでしょう。

勝海舟をうならせた言葉 

 あるときのこと、勝海舟が行きつけの料理屋へ行きました。そうしたら、店の者が皆、忙しそうに立ち働いていたそうです。勝が「たいそうな繁盛ぶりで結構だな」と言いますと、この料理屋の女将は、「とんでもございません。この物騒なご時世、とてもとても。暮れだというのにお客様の足が遠のいて因っております。でも、こんなときに店の者が不景気な浮かない顔をしていては、お客様はますますお寄りくださらなくなります。ですから、せいぜい景気がいいような顔をして頑張っているのです。」と応えました。

 勝は、「うむ。いい話を聞いた。」とつぶやき、三十両を懐から取り出し、「何かの足しに使ってくれ。」と女将に渡したということです。

 大切なことは、誰が言ったかではなく、何を言ったか(そして何を感じたか)ではないでしょうか。

秀吉と梨の花

 もう一つ言葉にまつわるエピソードをご紹介しましょう。太閤秀吉は、有馬温泉によく湯治に出かけたそうです。あるとき、秀吉は、いつものように有馬を訪れ、真っ白な梨の花を「きれいだなあ」と眺めているうちに、やがて梨の花がハラハラと舞い散っていく、そんな夢を見たのだそうです。

 そこで、秀吉は「ああ、もはや自分もこれまでか」と思い、だんだんと心がすさんできて、死ぬことばかり考えるようになったといいます。
 それを聞いた重臣の細川幽斎は、大阪から馬を飛ばして馳せ参じ、次の歌を献上しました。

 太閤のいのち
 有馬の湯にいりて 
 病は梨の花と散るらむ

 この歌を聞いて秀吉は大いに喜び、「そうか、病は治ったのか」と元気になって大坂に帰って行ったということです。

 人間は心の状態一つで病にもなれば、不治と言われた病でさえ治ることがあるといわれます。私たちの心、つまり、考え方、「何を信じるかで、生活や運命が変わる」とも言いかえることができるでしょうか。しかし、その変化をもたらす源は何かといえば、「言葉」なのです。優しいひと言で救われることもあれば、機転のきいたひと言で助けられることもあります。その反対に、心ないひと言が相手を傷つけ、大喧嘩となり、尊い人命が奪われてしまうことさえあるのです。

 皆さんはどのような言葉に普段、耳を傾けておられますか。天と地、宇宙のすべてを無から創造された、創造主なるお方がおられます。この創造主の御言葉である、聖書に耳を傾けてごらんになりませんか。きっとあなたを活かす、愛と慰め、そして真の平安をもたらす、宝石のようなすばらしい言葉に出会うことでしょう。

聖書の言葉
創造主を恐れることは、知恵の初め、聖なる方を知ることは、悟りである。 箴言九章十節

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。