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メタノイア⇔悔い改めについての混乱

メタノイア⇔悔い改めについての混乱



AGM The Abundant Grace Ministries     池田 豊



 主イエス・キリストは、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」(マタイ9:12?13)と言われました。



 盲腸炎の痛みで、額に脂汗を浮かばせ、苦悶に顔を歪めた人が一人、病院にやって来ました。長時間またされ、やっとのことで医師と会うことがゆるされ、診察室に入りました。



 その時、医者が、このように語ったとしたらどうでしょう。「いやあ、痛そうですなあ。どうしたんですか、いったい。何? おなかが痛い? それは、あなたの不摂生が悪いんですよ。涙を流して、後悔することですな。まず、バランスのとれた食事が何よりも大事、そして、適度な休養と、運動です。それが身につかないようじゃ、うちの病院に来ても、だめですな。
 かわいそうですから、まあ、特別にあなたには、こうしてあげましょう。」と言って、この医者は、おもむろに看護婦に命じて、手術用のメス、針、そして糸をもって来させました。そして、こう言葉を続けました。「あんた、これを貸してあげますから。家に帰ったら大きな鏡をとりだして、お腹を出し、下腹の、そう、ちょうどおヘソの右下あたりを映してみなさい。そして、このメスでエイッと切り込む、少々赤いものがでるが、あまり、気にしない、気にしない。ティッシュか何かで、拭けばよろしい。えっ、何? 痛いだろうって? そのくらいは我慢しなさい。そして、中から化膿している盲腸が見つかったら、切り取りなさい。後はネ、傷口をこの針と糸で縫っておきなさい。くれぐれも消毒は、しっかりやるようにね。成功を祈る。グッド・ラック。



 それでね。エエー、一、二週間もしたら、痛みも引きはじめるだろうから、そうしたら、もう一度、当病院に来なさい。入院の手続きをしてあげますから。そうそう、それまでに、私が言ったバランス食、適度な休養、そして運動のライフスタイルをしっかり、身につけておくようにね。そうでないと、入院しても、他の人に迷惑がかかるし、あなたが、本当に、自分が不健康になった原因を徹底的に反省し、悔い改めているかどうかがわからないのでね。そこのところがしっかり、徹底してマスターされていないと、当病院にとっても迷惑ですからな。模範的ないい入院患者になってくださいね。よろしいですか。」 



 現実的にはこのような医者はいないだろうと思いますが、霊的な病、罪の問題になると、この医師のような発言をする宗教家は世界中にたくさんいるようです。
 多くの場合、「悔い改め」という宗教用語が用いられ、創造主の恵みと、赦しを頂くための必要不可欠な条件として、罪びとが、「罪を認め」、「深く悲しんで」、「もう決して罪を犯さないと強く決意し、その罪と手を切る」必要があると主張します。一言で言えば、自分の意志の決断でなされる生活変革が、救いの条件であると教えるのです。 



 幸福の科学という新・新興宗教団体の代表、大川隆法という人は、自分の罪を悔いて、改める、自己反省と善の実践が救いの条件であり、前世からのカルマを変えるために必要不可欠であると教えています。 



 統一協会の文鮮明も、蕩減復帰(とうげんふっき)の原理という言葉で教えています。先祖からの悪い因縁や、自分の罪を悔い改めなければならないということです。そして、徹底的に罪を憎み、罪を犯さない者となるために、文鮮明の指導を受け、善行を積み上げなければならないというのです。 



 オウム真理教の尊師、麻原彰晃こと松本智津夫も「えんじょい・はぴねす」という印刷物を通し、「麻原尊師の運の良くなるザンゲコーナー」で真の悔い改めについて具体的に教えています。1993年の1月号では、妄語の戒について以下のように教えています。
 「妄語とは、二種類の嘘を指します。まず、第一の嘘は積極的嘘、…もう一つは、沈黙をもって、正しいことを言わないという嘘の二種類があります。…さあ、あなたも、これからは、ついた嘘をザンゲし(悔い改め)、タマスのエネルギーを取り払い、真実を語る実践を行いましょう。」
 そして、オウム信者は、善のみを実践する者となるために、出家し、サティアンでの修業に励むことを指導されるのです。



 キリスト教を背景とし、「悔い改め」を似たような形で教えているグループは少なくありません。



 一例をあげれば、エホバの証人を指導しているものみの塔は、罪の指摘を非常に徹底して教えます。彼らによれば、輸血をすること、誕生日を祝うこと、選挙の投票をすることなども罪です。ものみの塔が、聖書の教える罪と解釈しているすべての罪を悔い改め、意志の決断でエホバに忠誠を尽くすことが救いの条件であると教えています。



 モルモン教徒も、捨てるべき罪のリストに多少違いはありますが、基本的には罪を犯さない決意を救いの条件としているという点では同じです。



 ボストン・ムーブメントのキリストの教会でも、救いの条件として、「罪の悔い改め」と指導者への従順が徹底して教え込まれます。生活改善、自己変革が見られない信者は、信仰が不純であるとみなされます。



 福音主義の教会の牧師や伝道者でも、「悔い改め」を救いの条件として教えておられる方々がいるようですが、その具体的な意味について注意深く拝聴してみますと、上記した宗教指導者たちの教えと五十歩百歩、あまり、変わらないようなことを言っておられるように聞こえるメッセージもあります。



 日本語で「悔い改め」と翻訳されてしまったために、この混乱が起こってしまったのではないでしょうか。



 筆者は、神学生時代に、ギリシャの元アテネ市長の娘で、コンスタンチーナという学生に、この日本語で「悔い改め」と訳されてしまった「メタノイア」という言葉の意味について、質問したことがあります。
 「メタノイア」という語は、はたして悪いことをしていると罪に気づき、すまないと思い、悲しみ、もう決してしないという意志の決定をあらわす単語なのかどうか問いました。彼女は「メタノイア」自体には、そのような意味は全くないと言いました。確認のために三度私は聞いて、自分の聖書に、コンスタンチーナが言ったことを彼女に頼んで書いてもらいました。
 彼女によれば、「メタノエオ」とは、今まで比較的良いことばかりしてきた人たちが、「正直者がバカをみるのはもうたくさんだ」というので、これからは悪いことをしようと考えを変える時にも、「メタノエオした」と使うことができる単語なのだそうです。
※「メタノイア」は名詞。「メタノエオ」は動詞。



 旧約聖書で用いられている、新約のメタノエオにあたるヘブライ語は、「ナハム」という言葉ですが、筆者が学んだフロリダ聖書大学のディック・シーモア博士によれば、43回用いられているそうです。
 皆さんは、その43回のうち、もっともナハム(悔い改め)を多くしたのは誰だと思われますか。ダビデでしょうか。ソロモンでしょうか。もし、日本語に「悔い改める」と訳されたところのギリシャ語のメタノエオが、罪に背を向け、罪を犯さない決心をするという意味だというなら、当然、ヘブライ語の「ナハム」も罪を悔い改め、罪を犯さない決心をしたという意味になってしまいます。しかし、もし、そうだとしたら、以下のことはどう説明がつくのでしょうか。



 ヘブライ語のナハム、シュブやギリシア語のメタノエオ、メタノイアが英語の欽定訳(キングジエームズ訳)で英語に訳された訳語は以下の通りです。
 repent(45回), repentance(26回), repented(32回), repentest(1回)
 repenteth(5回), repenting(1回), repentings(1回)



 その内、英語の欽定訳旧約聖書では「ナハム」という語が43回、「シュブ」という語が3回、repent悔い改め(リペント)という訳語に英訳され用いられています。
 全部で46回ですが、その主語はだれか、つまり、誰が旧約聖書中、一番多くリペントしているかということになると、多くの人々の期待が裏切られます。



 この46回の内、人間が主語でリペント(悔い改め)しているのは、たったの9回しかありません。なんと、その他の37回は、すべて天地を創造された主なる神が、リペントした、あるいはリペントされなかったと記されているのです。
もし、この英語でリペントと訳された言葉の意味が、「罪や悪事、悪習慣を悔いて、改め、もうそのようなことをしない決心、つまり、罪を犯さない決心をする」ということだったとしたらどうでしょう。私たちの神さまは、大変意志薄弱な、罪ばかり犯しては、悔い、もういたしません、と詫びてばかりいる神だということになってしまいます。



 実は、欽定訳に聖書が翻訳された頃、repentという単語そのものには、現代英語の用法のように「罪や悪事を悔いて、改める。後悔する」という意味などなかったのです。だから、翻訳者は、「神が悔い改めた(リペントした)、あるいは、悔い改めない(リペントしない)」と平気で訳していたのです。



 創世記の6章7節には、創造主がノアの家族だけを残し、その他のすべての人々を滅ぼされる際の記述が記されています。新改訳聖書では、こう訳されています。



 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。
創世記6章7節



 この翻訳ですと、創造主があたかも人間を欠陥品に造ってしまったことを後悔して、悔いているような印象を読者に与えます。この訳ですと、私たちの創造主が、「しまった!変な粗悪品を造ってしまっちゃった。ごめんなさい!やり直します。悔いて改めます。」と残念がっているような意味にしかとれません。
 ところが、ここで 悔やみ、残念に思ったという意味の日本語に訳されてしまったヘブライ語が、ナハムという語なのです。ナハムという語の語根は5:29と同じ言葉で「慰め」の意味です。先ほど申しましたように英語のキングジェームズ訳(欽定訳)聖書の旧約聖書で、Repent(悔い改め)と訳されたのは、ナハムという語で43回あります。シューブという語がRepentと訳されたのは3回です。合計では46回あります。



 誰が悔い改めているのかと主語を見てみますと、前述しましたように 37回は、創造主がRepentしたり、しなかったりしているのです。そして、人間が主語で使用されているのはたったの9回だけです。



 筆者の恩師、高木慶太先生は、創造主がナハムされた、あるいはされなかったと記されている箇所を研究なさり、「ナハムしない」と書かれている聖句は以下のように8箇所あり、主が「ナハムされた」ことが記されているのは29箇所であることを筆者に教えてくださいました。



 創造主は「ナハムしない」と書かれている全8箇所
 1. 民数23:19 神は・・・悔いることがない
 2. 1サムエル15:29 主は・・・悔いることもない
 3. 1サムエル15:29  この方は・・・悔いることがない
 4. 詩篇110:4  主は誓い・・・みこころを変えない
 5. エレ4:28  わたしは悔いず、とりやめもしない
 6. エゼ24:14  わたしは思い直しもしない
 7. ホセア13:14  憐れみ(ナハム)は私の目から隠されている
 8. ゼカ8:14  わざわいを思い直さなかった



 また、創造主が「ナハムされた」と書かれているのは29箇所あり、このヘブライ語の「ナハム」は英語ではrepentと訳されていますが、新改訳では以下のような日本語に翻訳されています。



 ?思い直す:17回  ?憐れむ、憐れみ:8回  ?残念に思う:1回 
 ?悔いる、悔やむ:3回



 これらの箇所は、創造主が悔いて、「あんなことしなけりゃよかったな?と思った」という意味ではありません!そうではなくて、哀れに思われた、かわいそうに思われた、惜しまれたの意味もあるのですが、根本的には、創造主のお考え、あるいは主の物事の対処の仕方、対応の仕方についてのお考えが変わる(考えが変わった)ということを意味するのです。



 新改訳聖書で、「ナハム」を悔い、後悔するというような意味に訳してある箇所を具体的に見てみましょう。



 1. 創世記6:6  人を造ったことを悔やみ(新改訳)
 2. 創世記6:7  人を造ったことを残念に思うからだ(新改訳)
 このような訳では、前述しましたように、私たちの創造主が自分の創造の御業に欠陥があったことを苦にして、悔やみ、自己反省し、やり直しますと言っているかのごとく受けとられかねません。しかし、それでは、混乱を読者に与えてしまうのではないでしょうか。むしろこの箇所の正しい意味は、当初、創造主が人間を造った目的を変更することができないので、罪を犯し、堕落してしまった人類を滅ぼすことに主のお考えが変わったという意味に理解すべきだと筆者は思います。



 3. 1サムエル15:11  私はサウルを王に任じたことを悔いる
 4. 1サムエル15:35  主もサウルをイスラエルの王に任じたことを悔やまれた



 これらの箇所も、創造主がサウルを王様にしたことを後悔し、「ごめんなさい」したという意味でも、「失敗しちゃった。悪い!」とおっしゃり、悔いた、悔い改めたという意味でもありません。また、当初、人間を創造された時の創造主の御心が変わったとか、サウルを王に任じられた目的が変化したということでもないのです。そうではなくて、むしろ、初めの創造主のご計画、ご目的を主は、ナハムすること(考えを変え変更すること)ができないため、しかたなく、人間を取り扱うその取り扱い方法を変えざるをえなくなった、「ナハム」(考えを変える)せざるをえなくなった、ということを意味するのです。



 「人間のほうが主に対し、罪をおかしたゆえに、つまり人間が、態度を変えてしまったので、主も人への取り扱い方を変更せざるをえなくなった」というのが、本来の意味です。サウル王の場合も創造主の不変性のゆえに、人の心変わりと背信の結果、しかたなく主の態度や処置が変わるという意味です。そのように理解しなければ混乱が生じてしまいます。決して創造主が心情的に後悔したとか、「悪かった、失敗しちゃった」とかいうような悔悛や、悔い改めの意味に理解してはならないと思うのです。ナハムという語そのものには、そのような意味はありません。



 あとシューブという語が英語でrepentと訳されているのは3箇所だけあります。



?1列王記8:47  ?エゼキエル14:6  ?エゼキエル18:30



 この用例を見ますと主語はすべて人間です。しかも異邦人や未信者ではなく、ヤハウェとの契約関係をすでに結んでいるイスラエルがその契約を破棄してしまった時のみに用いられています。



 シューブの意味は、もとに戻る、帰る、回復するという意味です。創造主を信じ、契約関係に入れられた人々が、創造主を裏切り、契約を破棄しているような状態にあるとき、その罪から離れ、主のもとに戻り、帰ることの必要を教えているのが、これらの箇所です。この意味では、クリスチャンが主のもとを離れ、罪深い生活にどっぷりと浸かってしまった場合、その生活を悔い、反省して教会の交わりに立ち返る必要があることと共通すると言って良いでしょう。この場合、具体的に数えることのできる複数形の罪の悔い改めについての教えだと申し上げて良いと思います。



 詩篇という個所は、人間の感情が非常に豊かに表現されている書です。ところが、この詩篇には、たった4回しか英語の聖書ではリペントという単語は用いられておりません。しかも、その4回とも、主語は全て、旧約聖書の創造主なのです。つまり、詩篇の中でリペント(悔い改め)しておられるのは創造主なる神様だけなのです。これだけみてもナハム(リペント)を「自己反省し、悔いて改める」という意味に訳したり理解してはならないことがおわかりいただけると思います。



 また、人間に道徳的な示唆を与え、他者との人間関係においても、神の知恵とみこころを教える最良の書といえば、クリスチャンならどなたも、箴言だとおっしゃるのではないでしょうか。ところが、この箴言には一度も、リペント(悔い改め)という語は用いられていないのです。



 ヘブライ語のナハムにも、ギリシャ語のメタノエオにも、又、欽定訳聖書が翻訳された当時の英語のrepentリペントという語にも、その語自体には、本来、「罪や悪事を悔いて、改める」というような意味など全くなかったからです。



 また、もう一つ、どなたもあまり気づいておられない事実があります。それは、聖書の中には、「メタノエオ」という単語が、「罪をメタノエオする」という形で表現されている聖句が一つもないということです。コンコルダンスで調べてご覧になれば、誰でもおわかりいただけると思います。日本語の新改訳聖書ではエレミヤ8章6節で、「私は注意して聞いたが、彼ら(ユダヤ人たち)は正しくないことを語り、『私は何ということをしたのか。』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。」と記されており、悪行をナハムするという表現が悔いると訳されておりますが、この場合も神との契約に入れられていたユダヤ人たちが、ヤーウェなる神に立ち返る場合のケースです。



 興味深いのはエレミヤ書の18章8節です。新改訳聖書ではこう訳されています。



 「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。」ここで悔い改めるならと翻訳された言葉はナハムではありません。逆に、創造主、ヤーウェなる神がナハムしておられるのです。新改訳聖書は、ここでは「悔い改め」などと訳さず、「思い直す」と正しく翻訳してくださっています。ナハムを「悔い改める」と訳してしまってはとんでもない誤解を読者に与えてしまうことの良い例です。民が悔い改めるならと訳された部分は、実は、ナハムではなくシューブです。シューブの意味は、もとに戻る、帰る、回復するという意味です。これは神との契約関係に入れられていた神の民が神から離れてしまった場合に、神に立ち返り、元に戻るようにというすすめがなされる際に用いられる時の用語です。



 ところで、ユダヤ人たちのように、アブラハムの子孫として神との契約関係に入れられた経験などはない、異邦人の未信者たちが、信仰によって永遠の命を受けとる際の前提条件として、「罪や悪習慣を悔いて、改め」その上で、イエス・キリストを信じるようにと彼らを教えさとしている聖句は一つもありません。
 つまり、具体的な数えられる(複数形の)罪の自己変革を、クリスチャンとなるための前提条件のように教えている聖句など、新約聖書には一カ所もないのです。



 多くの人々が救いに導かれるのに最も多く用いられているのは、ヨハネの福音書ではないでしょうか。しかし、そのヨハネの福音書の中には、一度もメタノイア、メタノエオ(repent)という語は使用されていないのです。



 では、罪についてメタノエオするとはどういうことを意味しているのでしょうか。聖書が教える真のメタノイアとは何なのでしょう。
 メタという言葉は、アフター(?の後で)という意味の語です。そしてノイアという部分はヌースから派生した語で英語のマインド、つまり「考え、思い」を表す言葉です。従って、メタノイアの純粋な意味は、「考えを後で変える、思い直す」という意味です。ですから、今まで良いことばかりしてきた人が正直者はバカを見ると考えを変えて「これからは、ずるがしこく悪いこともしよう」と思うときにもメタノイア、メタノエオを使用しても良いのです。もちろん後悔、反省し、道徳的に悪を退け、これからは善をするという決断をなす場合にもメタノエオを使用することはできますが、その正反対の場合にも使用できるのです。その意味は文脈が決定するのです。メタノイア、メタノエオ自体には、道徳的な善をする決断や後悔、反省するといった意味は、直接含まれてはいません。



 ですから、罪赦され、永遠の命を得るために必要な「考えの変化」とは、自分の様々な悪や罪、悪習慣を自分で改善する決断を意味しているのではなく、私たちの罪そのものについての理解や、正しさや義とよばれることへの理解、そして、裁きということについての理解、考え方を変えなければならないことと関係しているのです。医者に診察してもらい入院を許可してもらう前に、患者に対し、自分で病巣のもとを手術し除去するよう命令する医者などいないのと同じです。健康な人に医者はいらないのです。自分で自分を治せない病人こそ医者のところへ行くのです。手術は医者がしてくれるのです。患者は全身麻酔をかけられ、手術にまったく自らの意志で協力できなくても良いのです。 
 ヨハネの福音書16章7節?14節で、主イエス様はとても不思議な言葉を語っておられます。



 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去っていくことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去っていかなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者が、さばかれたからです。
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方をすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
ヨハネ16章7?14節



 ここで主イエス様は、生まれつきのままの私たち人間の理解には、誤りがあることを前提に語っておられます。私たちの考えは少なくとも3つの領域で間違った考え方をしているというのです。それらは、?罪についての考え、?なにが正しいことなのかという義についての考え、そして?さばきということについての考えです。主イエス・キリストが全人類の罪(複数形)のために十字架で死んでくださり、墓に葬られ、三日目に死からよみがえられ、天に昇って行かれることを通してはじめて、真理の御霊である聖霊が遣わされてくるのだと主は説明しておられるのです。この真理の御霊が来られると世の中の人々の考えを根本から変え、誤りを正し、真理に導いてくださるというのです。そして、この聖霊は、私たち人間のがんばりや、真面目さ、熱心さや意志の強さ、改善できたよい行いなどの栄光を褒め称えるのではなく、イエス・キリストの栄光を現わされるというのです。



 罪とはいったい何なのでしょうかと問いかければ、おそらくほとんどの宗教は、複数形の罪を列挙することでしょう。そしてそのリストは、ほとんどが共通したものや似たものとなっていることでしょう。人間は、数えることのできる複数形の罪を問題にします。悪い考えや人を傷つける言葉、ウソをつくこと、そして他の人に迷惑をかけ、良心を痛める様々な悪い行い、悪習慣などがそこには含まれることでしょう。ところが、日本語の聖書でははっきりわからないのですが、ここで用いられている聖霊が示される「罪」ということばは、複数形ではなく単数形なのです。主イエス・キリストが十字架におかかりになるとき、本来は私たちが責任を問われるべきだった複数の罪の罰を、私たちに代わって引き受けてくださるので、聖霊は、このイエス・キリストを救い主として受け入れない不信仰こそが「罪」であることをお示しになるということを聖書は告げているのです。



 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たち(聖書を筆記した人々)にゆだねられたのです。
2コリント5章19節



 聖霊がお出でになると、人々の罪についての考えを正されるというのです。それは、罪は人間が涙を流して、悔い、償いをなし、これからはもう決してこのようなことはいたしませんと決意することで赦されるようなものではないと考えが変わらなければならないことを教えられるのです。言い換えれば、私たちの犯している罪は実は、私たち自身の手におえるものではないのだ、と認識を変えなければならないのです。それが救いに必要な罪についてのメタノイア(考えを変えること)です。この私たちの複数形の罪を、全部ご自分の身に肩代わりし、身代わりとして死んでくださった、永遠の命の恩人であられる、主イエス・キリストを信じ受け入れるなら、私たちは、罪赦され救われるのです。しかし、この救い主イエス・キリストを拒絶し、信じないならば、その不信仰が罪になるのです。このイエス・キリストを救い主と信じない罪が単数形の罪であり、真理の御霊である聖霊が示してくださる罪についての理解だといってよいのではないでしょうか。



 次に、何が義であるかということについてですが、おそらくほとんどの宗教は似たり寄ったりのリストを私たちに示してくるだろうと思います。正しいこと、良いことを教えない宗教などはあまりないでしょう。人間がより良い人、善人となるための教えや模範、努力目標を宗教は提示します。しかし、それらは不完全であり、誤りだと主イエスさまはおっしゃるのです。聖霊が遣わされると、なにが正しい善で、義であるかということについて、私たちの考えを変え(メタノエオ)させてくださるというのです。私たちが提示できる最善、最良の良い行いや自己変革も創造主の御前では、実はまったく汚れたものであることを聖書は教えています。イザヤ書に次のような言葉があります。
 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。
イザヤ書64章6節



 私たちが精一杯で成した最高の善や正しさ、正義であっても、天地宇宙を造られた聖い、創造主の御前では、ヌルヌルでカビだらけになった、腐敗臭漂う、ボロ雑巾に等しいというのです。私たちは「義」について考えを変えなければ、決して天国に入れていただくことはできません。永遠の命を受けることはできないのです。イエス・キリストが私たち罪びとの身代わりになって十字架で死んでくださり、三日目に死からよみがえられたので、私たちにも永遠の命が無償で提供されたのです。そして、主イエス・キリストは天に帰られ、私たちの弁護人となってくださるので、私たちが罪を犯し、自分でどうしようもない状態にあるときも、私たちが確実に天国に入れていただくのに必要な、創造主とおなじ聖さの「義」、正しさが無料で与えられていることの確証となってくださっているのです。この主イエスさまの弁護が私たちにとっての唯一の「義」であるというのです。「義」について私たちは、自分の自己反省や努力で償いをなすこと、あるいは良い行いを自分の義として誇ることから、考えを変え(メタノエオし)、イエス・キリストの十字架と復活、昇天によって提供されている、私たちの罪を赦し、確実に天国に入る資格となる「神の義」のみに信頼する必要があるのです。そのことを真理の御霊である聖霊が私たちに教えてくださるというのです。



 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと、人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
テトス3章4?5節



 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神の御言葉は私たちのうちにありません。私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは(信じ救われたクリスチャンたちに対して)、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、御父の前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。このお方こそ、私たちの罪のための、―私たちの罪だけでなく、全世界のための、―なだめの供え物なのです。
1ヨハネ1章8?2章2節



 次に私たちは「裁き」についても考えを変えなければないことを聖霊は示されると言うのです。この世の人々の「裁き」についての共通する理解は、自業自得、因果応報ではないでしょうか。自分の罪や失敗は自分で責任をとらなければならない。裁かれて、償いや罰、呪いや祟りを受けなければならない、というのが一般的な理解であり、ほとんどの宗教の教えには、根幹にこの「裁き」についての考えがあります。ですから、ある宗教では以下のようなことをまことしやかに教えるのです。



 あなたの現在の「不幸」は、あなたが何か悪いことをしたか、あるいは親やご先祖が悪いことをしたので、その罰があたったのです。その悪い因縁を断ち切るためにあなたは償いをしなければなりません。ここに霊験あらたかな壷、印鑑、多宝塔があります。これらを精一杯の献げものをしておさずかりし、しっかりと供養をなさい・・・。



 このように人間が自分のした罪の裁きから逃れるためつぐないの業に励まなければならないと教える宗教は数多くあるのです。キリスト教の看板を出しているところでも、人間が自分の罪を懺悔し、悔いて改める、自己改善をすることで、神の裁きを逃れ天国や楽園に入ることができるのだと教えるグループは多くあります。



 しかし、聖霊がお出でになると「さばき」について私たちの考えを変えさせてくださるのです。私たちが自分の罪を自分では償いきれないので主イエス・キリストが遣わされたのです。主イエス・キリストが私たちの身代わりとなり、当然私たちが受けるべき「さばき」を受けて下さったので、主イエスさまを救い主と信じる人は裁かれなくともよいというのです。私たちの罪をあばき、告発しているのは実は、創造主なる神なのではなく、サタンだと言うのです。しかもそのサタン、悪魔が裁かれ、永遠の滅びに投げ入れられるのです。それこそが、聖霊なる神によって示される「さばき」についての真理なのです。



 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネ3章16?18節



 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ローマ8章1節



 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は罪を知らない方(罪を犯したことのない、完全な義をお持ちだったイエス・キリスト)を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、(この方のおかげで)神の義となる(創造主なる神様とおなじだけの聖さ、正しさを持つ者とみなされる)ためです。私たちは神と共に働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにして下さい。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに今は恵みの時、今は救いの日です。
2コリント5章19節?6章2節



 私たち日本人は、鰯の頭も、奇岩や死人、お客様でさえも神様にしてしまいます。そして、信じる真面目な心さえあれば何を信じてもみな同じだと思いやすいのです。しかし、私たちは創造主なる神と人間がこしらえ、あるいはまつり上げた神々とは違うのだと考えが変わらなければなりません。そして、神様は私たちの罪を見つけ次第、ジャイアントハエたたきのようなものを振り下ろして罰をあたえるようなお方だと考え、呪いと祟りにビクビクしている方がもしおられたら、そのような神についての考えを変えなければなりません。創造主は罪を犯し続けている私たちを憎み、裁こうとしておられるのではなく、主イエス・キリストの故に赦してくださる愛のお方であると考えを変えなければならないのです。



 また、イエス・キリストを単なる良い行いについての教えを語った教師であるとか、よいことの模範を示してくださったお方だと理解するだけでは不十分です。大川隆法さんやオウム真理教の麻原さんもイエス・キリストをそのような意味では信じ、尊敬しておられるようです。しかし、そのような考えは、変えられなければならないのです。イエス・キリストこそ私たちの罪の罰を身代わりに受けて下さった唯一の救い主、永遠の命の恩人であると考えを変え、このお方に信頼しなければならないのです。



 罪は、私たちの手におえるようなしろものではありません。そうではなく、罪をおかしたことのない主イエス・キリストが十字架で完成してくださった身代わりの死以外には、私たちの罪の赦しはないというのが聖書の教えです。



 このように考えが変わることこそ、聖書が教える「救い」に必要なメタノイアなのです。



 ところが、イエス・キリストを信じ受け入れる前に、自分で罪を悔い改め、自己改善することを救いの必要不可欠の条件として教える人々は、必ず、悔い改めが徹底しているかどうかということを問題にし、本物のクリスチャンかどうかを見極めるリトマス試験紙とします。しかし、その場合、筆者の心には少なくとも次のような3つの疑問がわいてくるのです。それらは、・・・



 ?私が日々おかしている罪の内、何パーセントが改善できたら、徹底した悔い改めをしたことになるのだろうか、合格点をもらえるのだろうかという疑問。一つだけでも改善できたら良いのでしょうか。
 ?そして、次に、合格点に達していることをいったい誰が(創造主や聖霊という答えではなく)認証、認定してくれるのかという疑問。自己採点で良いのでしょうか?自己採点でよいとすれば、几帳面で真面目な人であればあるほど、救われにくく、おおざっぱで、いい加減な人ほど救われやすいということになりはしないでしょうか?
 ?また、もし私が、必死の努力で自分の罪を100パーセント犯さない状態をついに達成できたとしましても、今度は、罪をおかさないその状態を何日間、いや、何分、何秒間維持できたら、「救い」に至る徹底した悔い改めをしたことになるのだろうかという疑問です。



 上記のような疑問だらけの私のような者のために、幸い、聖書には次のような慰めに満ちた御言葉が記されているのです。



 この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血(血統)によってではなく、肉の欲求や人の意欲(人間の側の努力や自己改善の意志の強さなど)によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ヨハネ1章12?13節



 聖書の御言葉が教えるとおり、私たちは、自ら、罪の性質を自分では変えることができないことを、悟らなければなりません。そして、主イエス・キリストの十字架でなされた身代わりの死と、復活の故に、「信じるだけで救われる」と伝えられている良い知らせを自分のこととして受け入れることです。それ以外に、私たちが創造主の御前で「義」とされる方法は、ないのです。そして、その救いは、本来、受ける資格がないのにいただくことのできる、特権なのです。



 この特権を受けるために必要な、考えの変化こそが、メタノイアの意味するところです。もし、それとは違う意味で、救いの条件を理解しておられる方がいらっしゃいましたら、是非この機会に、永遠の救いを受ける条件としての「悔い改め」について、今までとは違った考えをなさるようお勧めしたいと思います。



主イエスキリストの恵みの福音



聖書の福音(すばらしいグッドニュース)を簡単に説明すれば以下のようなものになります。
1.天と地を造られた真の創造主なる神は、あなたを愛していらっしゃいます。
2.ところが私たちには、創造主を無視して自分勝手に生き、自分も回りの人をも傷つけているという現実(罪)があります。
3.その責任を私たちがひとりひとり問われて当たり前なのに、イエス・キリストという罪の無い方が、十字架にかかられ、血を流して、私やあなたの代わりに償いをなしとげてくたさったと聖書は教えています。また、キリストは三日後に死からよみがえり、永遠のいのちを無償の贈物として私たちに提供しておられます。
 このイエスキリストというお方をあなたが、ご自分の救い主(永遠のいのちの恩人)として信頼するとき、すなわち「神様有り難うこざいます。こんな私ですが宜しくお願いします。」と申し上げるだけであなたの罪はゆるされ、心がきよめられ、永遠の命がプレゼントとして与えられるのです。良い行いや宗教活動の熱心さに対する報いとして引き換えにもらうということは決してできません。
聖書の言葉
「渇いている者は来なさい。誰でも、いのちの水がほしい者は、
それをただで受けなさい」
黙示録22章17節
 いかがでしょうか。 この素晴らしい神の愛をあなたも御自分のものとなさいませんか。キリストを救い主として信じ、創造主に「ありがとうこざいます」と申し上げませんか。以下の祈りをどうぞ、あなたも創造主なる神に向かって、声に出して祈ってみて下さい。
イエスキリストを信じ受け入れるお祈り
 天の神様、私はわがままでした。あなたに対して罪をおかし、他の人を傷つけ、自分も傷つきました。こんな私が裁かれてあたりまえなのに、罪のないイエス様が、十字架で血を流し、私の罪をつぐなって下さったと聞きました。また、死からよみがえり、永遠の命をプレゼントして下さることありがとうございます。今、私は、イエス様を私の罪からの救い主、永遠の命の恩人として信じ、お受け入れします。こんな私ですがどうぞ宜しくお願いいたします。                               アーメン
 もしあなたがこのお祈りを心からお祈りになられたら、聖書の権威によって申し上げます。あなたのすべての罪は赦され、創造主の愛の家族の一員として加えられました。新しい歩み、新しい人生がスタートいたしました。教会では、あなたのお越しを歓迎いたします。

AGM The Abundant Grace Ministries
池田 豊



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